仕事の区切りの良い所で休憩に入り、混み合う前の社員食堂で食べ始めた美幸は、半分ほど食べたところで声をかけられた。
「藤宮さん、ここは空いているかしら?」
その声に顔を上げた彼女は、暫く顔を合わせていなかった同期の矢木鈴音と、以前一度会った事がある人物を認めて、少々驚きながら席を勧めた。
「矢木さん、久しぶり。空いてるから大丈夫よ。清香さんは柏木産業に入社したの?」
「はい、藤宮さん、お久しぶりです。初期研修終了後に、生活環境ビジネス部に配属になりました」
そんな二人のやり取りを聞いて、鈴音が意外そうな顔になった。
「何? 二人は知り合いだったの?」
「去年兄と一緒に街を歩いていた時に、偶然藤宮さんとお会いしまして」
「お兄さんが藤宮さんの知り合い?」
「知り合いも何も……。清香さんはうちの課長代理の妹さんだし」
「そうだったの!?」
何気なく口を挟んだ美幸の台詞を聞いて、鈴音が焦った様子で振り返り、その視線の先で清香が困った様に頷いた。
「はい。言ってませんでしたっけ?」
「聞いてないから……。会長と社長の事で散々噂になってたから、敢えて親兄弟について聞こうとは思わなかったもの。ご両親はもうお亡くなりになってるって話だったし」
「色々、すみません」
「やだ、佐竹さんが謝る事じゃ無いから。さあ、座って食べましょう。空いてる所が見つかって良かったわ」
その場に漂いかけた微妙に気まずい空気を払拭しながら、鈴音が清香を促して美幸の正面に座った。美幸も(何だか訳ありっぽいわね)とは思いながらも、深く突っ込む事はせずに、世間話を始める。
「清香さんが入社していたのは知らなかったわ。課長代理は何も言ってなかったし。でも以前会った時には、うちを希望しているとか言ってなかったわよね?」
「はい。元々は司書勤務希望だったんですが、どこも採用枠が少なくて落ちまくったんです。そんな時に真澄さんから、柏木産業に入る気は無いかと言われて」
「課長が? まさかそっちの部で、図書館を運営する話があるの?」
思わず問いかけた美幸だったが、鈴音は笑って手を振った。
「さすがにそれは無いわ。確かに図書館業務の民間委託が広がっていて、うちが業務務内容を広げていると言っても」
「『通信教育や人材派遣、フランチャイズビジネス等の情報収集や分析を手掛けている部署があるけど、そういう所に興味は無い?』と言って、業務内容を細かく教えてくれたんです。総合商社って言うと、漠然と物を売る会社だと思ってましたから、ちょっと驚きました。それで興味を持って、応募してみたんです。かなりギリギリでしたが」
そう説明した清香の後を引き取って、鈴音が感心した様に話を続けた。
「でもさすが柏木課長よね。『入社できても初期研修で好成績を残さないと希望部署に配属されないし、遅かれ早かれ創業者一族って周りに分かるだろうから、コネ入社って陰口叩かれない様に気合い入れて頑張りなさい』って、入社前から個別に課題を出していたそうよ」
「本当?」
「はい。生活環境ビジネス部の関連企業や取引先の名前と住所と電話番号五十件分の暗記とか、タッチタイピングのマスターとか、それから」
「タッチタイピング、できるの?」
「……頑張りました」
驚いて問いかけた美幸に、清香がどこか遠い目をしながら答える。そんな彼女に同情する視線を向けながら、鈴音がしみじみと語った。
「本当に鬼よね、柏木課長。私だって直接関係がある所、十件位しか暗記してないわよ?」
「課長、三桁暗記してるらしいわ」
「……もはや化け物」
「さすが真澄さん」
ぼそりと呟いた美幸の言葉に鈴音は戦慄し、清香が感嘆の声を漏らす。そこで美幸は、先程気になった内容について尋ねてみた。
「さっき矢木さんは『会長と社長の事だけで散々噂に』とか言ってたけど、まだ配属されたばかりなのに、清香さんが会長の孫で社長の姪って周囲に知られるのが早くない? 清香さんは佐竹姓の筈だし」
素朴な疑問を口にすると、鈴音は同感と言わんばかりに深く頷いた。
「そうなのよ。普通なら早々にバレる筈ないんだけど、配属直後からうちの部署を連日こっそり覗きに来る人が居てね。……本人達がそう思ってるだけで、全然こっそりじゃ無かったけど」
「なるほどね。とんだ祖父馬鹿と伯父馬鹿だったわけだ」
呆れ気味に頷いた美幸の斜め向かいで、清香ががっくりと項垂れる。それを気の毒そうに眺めながら、鈴音が話を続けた。
「初期研修中は大勢の前で姿を見せると噂になるからって、控えたらしいんだけど。それで佐竹さんが会長と社長の身内って判明した途端、同期の子達は恐れをなして近付いて来ないし、勘違いした馬鹿な野郎が言い寄って来るしで」
そこで溜め息を吐いた鈴音を見て、美幸は正確に事情を悟った。
(それで職場で孤立しちゃった清香さんを、食事に誘ってあげてるわけだ。初期研修中も、矢木さんは姉御肌で面倒見が良かったものね)
清香と同じ部署の先輩に彼女が居て良かったと思いながら、美幸はなるべく明るい口調で言ってみた。
「まあ、そんなに気にする事もないんじゃない? しばらくすれば噂も無くなるだろうし。現に去年三課に配属された渡部さんも、二課と同じ企画推進部配属って事で、同期の人達から一時期遠巻きににされてたけど、最近では結構頻繁に、一緒に食事や飲みに行ったりしてるみたいよ?」
それを聞いた鈴音が、なんとも言えない表情になる。
「ああ……、企画推進部二課は悪名高いものねぇ……」
「私も初期研修長中にそれを聞いて、本当にびっくりしました。真澄さんは、そんな事一言も言ってなかったので」
「だけど藤宮さんは、そこを最初から第一希望にしてたから、どういう人なんだろうと思ってたわよ」
「生憎、鉄の心臓なもので」
すました顔で言い切った美幸を見て、鈴音と清香が笑い、二人も和やかに食ベ進めた。そして少しした所で、鈴音が思い出した様に言い出す。
「そう言えば、そっちは新年度早々大変だったんじゃない? 係長が課長に昇進して、東北支社に飛ばされたんでしょう?」
「人聞き悪いわよ。『飛ばされた』なんて」
「確かにそうね。ごめんなさい。でも派遣期間もはっきりして無いって聞いたけど?」
軽く顔を顰めた美幸を見て鈴音は素直に謝罪したが、不思議そうに確認を入れてきた。それに美幸が、溜め息交じりに答える。
「確かにそうなのよね……。東北支社の三田村課長が、復帰できる状況が整うまでって事だから。本人は勿論、東北支社で支社長を初め上司や同僚の人達が、課長のご両親が入所できる施設を探してくれているみたいだけど」
その説明を聞いた鈴音が、しみじみとした口調で応じる。
「そうかあ……。一頃は出産離職が問題になったけど、今は介護離職が問題になってるものね……」
「寧ろこっちの方が深刻じゃない? 出産育児は復帰できる目処がある程度立つけど、介護の場合はいつまで続くか分からないし」
「それにその問題に直面するのは、ある程度年齢と経験を重ねた中堅以上になってから、か。確かに企業としても、その年代の優秀な人材に抜けられるのは痛いわよね」
「城崎係長も『今後の柏木産業の方針と企業姿勢を決める試金石的な部署と事業だから、ここで躓くわけにはいかない』って険しい表情で言ってたわ」
そこで鈴音が、笑いながら指摘してきた。
「藤宮さん、『城崎係長』じゃなくて『城崎課長』でしょう?」
「そうだったわ。気を付けないと。昇進辞令が出てから異動と派遣まで、ひと月無かったのよ? 辛うじて送別会はできたけど、もう本当に無茶苦茶よ!」
軽く怒りを露わにした美幸を、鈴音が苦笑いしながら宥める。
「でもそれだけ東北支社内で、その課長さんの人望が厚くて惜しまれてるって事でしょう? 凄いわよね」
「それはうちの課の皆も言ってたわ。『社員冥利に尽きるだろうな』って」
「皆さんって……、ああ、二課の年配の方達の事ね。本来の部署を離れる時は、相当冷遇されていた筈だし」
「そう。何と言っても、うちって『柏木産業の産業廃棄物処理場』だし」
「そこ、笑って言う所じゃないから」
堂々と言い切った美幸を見て、思わず鈴音は噴き出し、大人しく二人の会話に耳を傾けていた清香も笑ってしまった。そして真顔に戻った瞬間、鈴音が新しい話題を出す。
「ところで藤宮さんと城崎課長って、付き合ってなかった? そんな噂を、以前耳にしたんだけど」
(うっ……、聞かれるとは思ったけど)
おせっかいや悪気があって聞いてきたわけではないと分かる鈴音に、どう返せば良いか一瞬悩んだものの、美幸は正直に言葉を返した。
「え、ええと……、その、一応お付き合いしていると言えば言えるかも……」
「じゃあ遠距離恋愛になるの?」
「え、遠距離って言っても、東京から仙台までは新幹線で最短一時間半で、日帰りも十分できる所だし」
「それもそうね」
そこでその話は終わった為、鈴音がどうやら興味本位で尋ねたわけでは無く、本当に話題の一つとして口にしたらしい事が分かって、美幸は内心で安堵した。
(矢木さんが、あまり他人の色恋沙汰に首を突っ込んでくタイプの人じゃなくて良かった。本当によるとさわると親切ごかして『大変ね』とか『別れたの?』とか『向こうで浮気されない様に気を付けなさいね』とか五月蠅いのよ!)
この間、色々と外野から言われていた美幸は、少々イラつきながら残り少ない定食を食べ進めたが、ここで聞き慣れた声がかけられた。
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