「おはようございます」
「おはよう、藤宮さん」
その日、美幸はいつも就業時間に余裕を持って出社してくる真澄を出迎えようと、いつもよりも早目に職場に入った。周囲の皆も同じ考えだったらしく、大体の者が顔を揃えて自主的に手持ちの仕事をこなしているのを見て、美幸も溜まっていたデータに手を付ける。しかしなかなか真澄が出社してこない為、美幸は時計に目をやりながら隣席の高須に声をかけた。
「高須さん、いつもだったらもう課長は来ている時間ですよね。何かあったんでしょうか?」
「確かに遅いよな……、もうそろそろ就業時刻なんだが」
「あ、いらっしゃいました!」
怪訝な顔を見合わせて二人が囁いていた時、ドアが開いてそこから噂していた人物が姿を現した為、美幸は表情を明るくして高須に声をかけた。そして二人は揃ってドアの方向に顔を向けたが、真澄の表情を見た瞬間、ビシッと固まる。
「……おはよう」
「おはよう、ござい、ます……」
怨念が籠った様な低音での真澄の挨拶に、辛うじて誰かが挨拶を返したが、その他は誰一人として声を発するどころか余計な物音も立てる事もできず、室内に不気味な沈黙が漂った。
「城崎さん、休んだ間の報告をお願いします」
「……分かりました」
席に着くなり静かに出された指示を受け、城崎が平静を装いつつ予め用意していた書類を手に立ち上がる。そして課長席でそつなく報告を始めたが、他の者達はそれを遠巻きにしながら、不機嫌、かつ物騒なオーラを背負いつつ出勤してきた真澄の様子を、心配げに見守りつつ再び業務に取り掛かった。
「あの……、今日の課長、何か雰囲気が怖くありません?」
美幸が高須に小声でお伺いを立てると、高須も渋面で返した。
「……怖いっつうより、もはや凶器だな。近寄ったら切れるんじゃないか?」
「どうしたんでしょうね……。土曜日にハッピーバースデーコールをした時は、機嫌は良かったんですが……」
不思議そうに首を捻った美幸に、高須が呆れ顔で感想を述べた。
「お前そんな事してたのかよ。その時、何か余計な事でも言ったんじゃないのか?」
「ちょっと高須さん。人聞き悪い事言わないで下さい!」
「高須さん、藤宮さん!」
「はいっ!!」
いきなり室内に響き渡った真澄の呼び掛けに、二人は反射的に立ち上がって真澄に向き直った。その二人を半眼で見やった真澄が、静かに冷たく告げる。
「仕事中は、私語を慎むように」
「……申し訳ありません」
(どうしちゃったんだろう、課長……。謹慎中に何かあったのかしら?)
とても口答えなどできる雰囲気ではなく、二人は深々と頭を下げて椅子に座り直した。それを見た周囲の者達は真澄の機嫌の悪さを目の当たりにして、黙ってひたすら各自の業務に勤しんでいたが、就業開始三十分で、企画推進部二課に招かれざる客がやって来た。
「やあ、柏木課長、頑張っているようだね」
「……どうも」
企画推進部の部屋は入り口から一番奥の窓際のスペースに、透明な壁で仕切られた部長室があり、そこから順に一・二・三課の順に簡単な仕切りで隔てただけで、所属する全員の机が並べられていた。当然出入り口から入って来て部長室に向かった総務部長の清川の姿は、課員全員が視界の隅に捉えていたが、話を終えたらすぐに出て行くと思っていたところ、真澄の机に真っ直ぐに歩み寄り、絡んできたのである。
(げっ……、清川総務部長)
(また課長に絡むつもりかよ……)
(よりによって、何でこんな時に顔を出すかな)
(とっととてめぇのシマに帰れ!)
普段から何かと真澄を目の敵にしている清川の登場に、二課に所属する全員が頭を抱えて心の中で盛大に毒づいたが、周囲のそんな心境など分かるはずもない清川は、不自然な程上機嫌に真澄に話し掛けた。
「何やら社長に諭されて謹慎していたらしいが、きちんと気持ちは切り替えられたかね?」
「……お陰様で」
椅子に座ったまま、PCの画面を見つつ手を動かし続ける真澄に、横に立っている清川は一瞬ムッとした顔をしてから、嫌味っぽく続けた。
「ほう? それは良かった。この前は君の失態で、年間二千万の契約をフイにするところだったからねぇ」
「……ご心配おかけして、申し訳ありません」
「いやいや、偶々先方の部長が、私の大学の同期で助かったよ。彼が穏便に事を収めてくれたから、柏木の名前にも傷が付かなかったからねぇ」
「何言ってやがんのよ、あのど腐れや……、むぅっ!」
「落ち着け、藤宮!」
「清川の前で暴れたりしたら、それこそ課長が何を言われるか分からないわ!」
清川がしたり顔で告げた時、美幸が憤慨して腰を浮かせかけたが、目の前の高須と背後の理彩に羽交い絞めにされ、小声で叱責されて何とか踏みとどまった。他にも何人か仕事の手を止めて剣呑な視線を清川に向ける中、真澄がチラリと清川を見上げて声を絞り出す。
「…………その際には、清川部長にはお骨折り頂き、ありがとうございました」
「これ位の気遣いなど、大した事は無いさ。それよりも柏木課長の今後の事が心配でねぇ」
「心配とは、何がでしょうか?」
わざとらしく嘆息した清川に、真澄が精一杯忍耐力を発揮しながら静かに尋ねると、清川は半ば嘲笑しながら告げた。
「女だてらに仕事をこなしていたのは、流石に社長の娘だと感心していたんだがねぇ……。この前の事で分かったんじゃないのかな? 所詮女に管理職は無理だって」
「…………」
そこで真澄が手を止め、黙ってPCのディスプレイを見つめているのを目にしながら、高須は一緒に美幸を押さえている理彩に、心底感心した声をかけた。
「仲原さん……、あんな奴の下で、良く何年も働いていましたね?」
「今、自分の忍耐力が結構な代物だったと、再確認したところよ」
「……ふぐっ、……ぅうんっ! …………」
そんな囁き声を交わしていると、真澄のすぐ前の席の城崎が清川に向かって冷え冷えとした視線を向けつつ、ゆっくりと立ち上がった。
「清川部長……、少しお言葉が過ぎると思いますが。仮にも管理職の立場にある方が、性別で能力の有無を判断した上それを公言するなど、柏木産業全体の見識も問われかねません。仮にも人の上に立つお立場なら、それを自覚されて口を慎んで下さい」
口調こそ丁寧なものの、二課はもとより企画推進部所属の全員が城崎が激怒しているのが分かり、とても口を挟む事など出来ずに慄いた。清川もその気迫に一瞬気圧されたものの、自分の優位を信じて気を取り直し、吐き捨てる。
「はっ! 女の下で嬉々として働く様なプライドの無い人間に、どうこう言われる筋合いは無いな! そっちこそ黙りたまえ!」
「……仰いましたね?」
剣呑な気配を身に纏わせつつ、自分に向かって一歩足を踏み出した城崎に恐れをなしながらも、清川は精一杯の虚勢を張った。
「ああ、言ったとも。本当の事だ、何が悪い。第一、貰い手が無くて嫁に行けないからって、いつまでも会社にふんぞり返っている女の尻拭いを、毎回させられるなど真っ平御免だな。身の程を弁えて、高望みしないで適当な所に収まれば良いものを」
「うっせぇぞ、このうすらハゲ」
「は? 何か言ったかね、柏木課長」
城崎を避ける様に後ずさった為、いつの間にか課長席のすぐ横に立っていた清川が、横柄な態度で聞き取り損ねた言葉を真澄に尋ねると、真澄は勢い良くその場に立ち上がり、清川に向かって暴言を吐いた。
「聞こえなかったのか? うすらハゲっつったんだ! このボケチビゴマスリ野郎がっ!!」
「……なっ!?」
「…………」
常には有り得ない真澄の暴言に加え、睨み殺しそうな視線を受けて流石に清川がたじろいだ。当然真澄の豹変ぶりを目の当たりにした部員全員が固まる中、真澄はすかさず両腕を伸ばし、問答無用で清川の喉を掴み上げて容赦なく絞め上げる。
「し、失礼だろう柏木課、うぐぁぁっ!」
「女は仕事が出来なくて、尻拭いが面倒で困るだぁ? はっ! 誰がてめぇみたいな腰巾着に、『面倒見て下さい』って頭下げた。あぁ!?」
「ぐぇぇっ! は、はなっ……」
「おい! ちょっと待て柏木!」
「柏木、落ち着け! お前達も黙って見てないで止めろっ!!」
美幸達は完全に目の前の事態に付いていけず、ただ茫然と事の推移を見守っていたが、流石に管理職である一課長の広瀬と三課長の上原、部長の谷山は、肝の据わり方が違うらしく、血相を変えてそれぞれの席から真澄と清川の所まで駆け寄って叫んだ。しかし真澄の手を清川の首から引き剥がそうとした所で、広瀬と上原は城崎に腕を掴まれ、有無を言わせず真澄達から遠ざけられる。
「お騒がせして申し訳ありません、広瀬課長、上原課長。ですがこれは二課の問題ですので、お気遣い無く。すぐに解決しますし、ご自分の業務に専念して下さい」
「ちょっと待て城崎、取り敢えずこの手を離せ!」
「すぐ解決って、一体どうするつもりだ?」
自分の腕をしっかり掴んでいる城崎の手を引き剥がそうとしながら、広瀬と上原が焦りつつ尋ねると、城崎が事も無げに答えた。
「簡単ですよ。あの小うるさいボケ中年が、息をしなくなったら静かになります」
(嫌ぁぁぁっ! 係長までキレてるっ!!)
もはや高須と理彩も美幸から手を離して蒼白になる中、二課の面々は微動だにせず固まったままだった。本来ストッパー役だと思われていた城崎が、広瀬と上原をガッチリ捕獲してしまった為、清川から真澄を引き剥がす人員は谷山のみである。その谷山は狼狽しながらも、真澄が渾身の力で絞め上げている手に自分の手をかけ、引き剥がしにかかったが、真澄は相変わらず清川に毒吐きながらギリギリとその喉を絞め上げた。
「例の二千万の契約だって継続出来たのは、何もてめぇの手柄じゃねえだろうが! したり顔でほざいてんじゃねぇよ!」
「柏木止めろっ! それ以上は拙い! 職場で死人を出す気かっ!?」
「上にはへいこらしまくって、陰で人の上前ばっかりはねてやがる、このコバンザメ野郎がぁぁっ!」
「ぐふぇっ……」
「皆、ボケッと見てないで、誰か内線で、浩一課長か社長を呼び出せ! それと柏木課長を止めろっ!!」
谷山の絶叫が室内に轟いたが、ここですかさず城崎が恫喝する。
「止めるなよ? 課長の好きにさせろ。邪魔する奴は俺がぶちのめす」
「城崎! 頼むからお前位は冷静になってくれ!! 有段者のお前が言うと洒落にならん!」
「俺はすこぶる冷静ですし、本気です」
「城崎!!」
そんな谷山の悲鳴と城崎の恫喝が室内に入り乱れた時、誰かから呼び出しを受けたらしい浩一が、泡を食って駆け付けた。
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