猪娘の躍動人生

篠原皐月
篠原皐月

10月(2)アクシデント

公開日時: 2021年8月29日(日) 09:30
文字数:1,909

(やっと終わった~! 全くしつこいのよ。まだ交渉に入ったばかりだってのに、焦っても仕方が無いでしょうが)

 密かに斜め前を歩く山崎の背中を睨み付けながら心の中で文句を言っていると、エレベーターでビルの一階に下りた所で、鞄の中に入れておいたスマホが着信を伝えてきた。歩きながら鞄から取り出したスマホを確認すると、発信者名を見て思わず疑問の声を上げる。


「あら?」

(係長? 何か緊急に連絡を取る必要なんかあったかしら?)

「はい、藤宮です。係長、何かありましたか?」

 不思議に思いながらも、歩きながら応答すると、城崎は盛大な溜め息を吐いてから話し出した。


「何かあったか、じゃあないだろう? 田所製作所での説明が終わったら連絡をよこすと言っていたのに、今どこに居るんだ?」

(う、忘れてた……。直帰する前に、電話で報告だけする様に言われてたんだっけ。山崎さんがダラダラと喋ってるから)

 相性が悪い組み合わせで出向く事になり、過剰に心配していた城崎を半ば宥める為、約束させられた内容をすっかり失念してしまっていた美幸は、誤魔化す様に陽気な声で応じた。


「すみません、でも本当についさっき終わったばかりで、今田所製作所が入っているビルを出る所です」

 それを聞いた城崎は、納得しかねる声になる。


「随分かかったな? もう少し早く終わると思っていたが。難しい顔をされたか?」

「いえ、概ね好感触で話を聞いて貰えましたよ? 担当者と内容を精査して、なるべく早くお返事しますと言われましたし」

 それを聞いて安心したのか、城崎も明るい声になった。


「そうか、それは良かっ」

「したり顔で何言ってやがる!!」

「きゃっ! ちょっと山崎さん、何をするんですか。手を離して下さい!」

「藤宮? どうした?」

 話しながら歩道に出た所で、前を歩いていた筈の山崎がいきなり美幸の手首を掴んでスマホを耳から離しつつ怒鳴りつけた為、美幸は怒りの声を上げ、城崎は電話越しに当惑した声を出した。


「ふざけんなよ? 横からしゃしゃり出て口を挟みやがって、何様のつもりだ、貴様!?」

 そのどう考えても難癖を付けているとしか思えない物言いに、美幸は怒鳴り返したいのを何とか堪え、できるだけ冷静な口調で反論する。


「どこが口を挟んだって言うんですか。山崎さんが延々一時間は独演会をやっている最中、私は一度も口を開かなかったじゃないですか。それは三橋課長が一番良くご存知かと思いますから、今から戻ってお尋ねしてみますか?」

「うるさい! 勝手に話を打ち切ったのはお前だろうが!」

「取り敢えず、依頼の内容については、山崎さんが全て事細かく説明したじゃありませんか。あれでまだ何か漏れがあるとでも言うんでですか?」

「そんな事、あるわけないだろう!」

 もう八つ当たり以外の何物でもない叫びに、美幸は目の前の人物を放置して帰りたくなったが、これも仕事のうちかと辛抱強く言い聞かせた。


「それなら今日は、これで終わりにしても良いじゃありませんか。奥さんとの結婚記念日ディナーに遅れると、傍目にもソワソワしている課長を無理に引き留めるなんて、無粋過ぎますよ。それに、設計部の方と検討すると確約して下さったんですから、あれ以上ゴリ押しして、取引先の心証を悪くする必要はないんじゃありませんか?」

「俺は、お前みたいな笑って愛想振り撒いてりゃいい女とは違うんだ! もう少し粘れば、きちんと契約の内容を詰めて、次回で契約書を取り交わせたかもしれないのに、余計な事しやがって!!」

 美幸の手首を掴んだまま、山崎が肩を叩いた為、美幸は完全に呆れて言い放った。


「痛いじゃないですか! 自分の正当性が認められないと思ったら、今度は腕力に物を言わせるつもりですか? 大体浩一課長も柏木課長代理も、今回の訪問は依頼内容の説明と相手方からの要望を聞いて来るだけで良いって説明してましたのを、聞いてなかったんですか? 初めて取引する所だから、契約の細かい所は係長以上で対応するからとも言ってましたし。何を勘違いしてるんですか?」

「黙れ!! お前は目障りなんだよっ!!」

「きゃっ! ちょっと!!」

(あ、危ないわね……、って、え?)

 山崎から両手で力任せに突き飛ばされ、あまり広くない歩道の端で口論していた為、美幸はその場に踏み止まれずに車道に出て二・三歩後ろ向きによろめいた。しかし何とか転倒する事は防げたと思った次の瞬間、視界の端に急速に入って来た物に気が付く。 


「危ないっ!!」

「きゃあっ!」

 周囲で何やら複数の悲鳴が聞こえたと思った瞬間、美幸は左脚と左腕に激しい衝撃を感じ、次いでアスファルトに叩きつけられそうになった為、殆ど反射的に右腕で頭を庇った所で、美幸の意識は完全に途切れた。


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