その日、社内の不穏な噂を聞きつけた美野が、定時で上がった蜂谷と入れ替わりに二課にやって来た為、日中のあれこれで疲労感満載の二課の面々は、全員残業無しで職場を後にした。そして蜂谷と一番長い時間接していた美幸が、「今日は食べて帰る」と訴えた為、城崎、高須、美野の四人でほど近くのビストロに行く事になった。
「……そんな感じで、今日は一日色々やらせてみたんだけど、以前と比べて入力作業は段違いに速いし、間違える事無く文章は書けるし、もう別人って感じで。返事も立派なものだし、背中に定規でも差し込んでるんじゃないかって位姿勢も良くて、何度ワイシャツの襟を引っ張って中を覗き込みたいのを我慢したか……」
来店直後から前菜とスープを片付けるまでに粗方を美野に話して聞かせた美幸だったが、最後に口にした内容に高須が呆れ気味に口を挟む。
「確かに外回りから戻ったら、変貌を遂げてた蜂谷に度肝を抜かれたが……。藤宮、お前真面目な顔で指導しながら、ずっとそんな事を考えていたのか?」
「高須さんは、全然考えなかったって言うんですか!?」
「……ノーコメント」
気まずげに高須が視線を逸らすと、ここまで聞き役に徹していた美野が、控え目に言い出した。
「あのね、美幸。もの凄く、言いにくいんだけど……」
「何? 美野姉さん」
「その蜂谷さんが社員食堂に食べに来た時、私も食べていたんだけど……。周りで新人の子達が口々に言い合っていたの」
「……どんな事を?」
もう嫌な予感しかしない美幸だったが、一応問い返した。すると美野が益々言いにくそうに話を続ける。
「その人、以前『社員食堂なんかで狐うどんなんかすする貧乏たらしい真似ができるかよ』って暴言して、いつも外食してたらしいの。それなのに食堂で狐うどんを食べてるし、見事な丸刈りだし、ビシッと不自然な位背筋を伸ばして食べてるから、不気味がって誰も近寄らなくて。結構混んでたのに、その人の周りだけ変に席が空いていたのよ」
「……それで?」
「新人の人達中心に『やっぱり企画推進部二課は柏木産業の魔窟だ。蜂谷は魂を吸い取られて別人になった。あそこに不用意に近付くな』という内容の話をしていて……」
「…………」
美野が社員食堂で耳にした内容を話し終えると、その場に重苦しい沈黙が満ちた。それに耐えきれなかった様に、美野が軽く頭を下げる。
「ごめんなさい。その場で何か反論できれば良かったんですが、美幸からその人の駄目駄目っぷりを聞かされていたし、何をどうフォローすれば良いのか、皆目見当がつかなくて」
「いえ、美野さんが気に病む事ではありませんから」
「正直俺達も、あいつの変貌ぶりには感心するのを通り越して呆れましたし」
些か慌て気味に宥めにかかった城崎と高須に、美野は慎重に問いかけた。
「あの……、そうすると、一応その蜂谷さんは本当に『使える社員』になったんですよね?」
「ええ、一応は……」
「もの凄く変な、わんこキャラになり果てましたが」
男二人が揃って遠い目をしながら答えを返すと、ここでいきなり美幸が涙ぐみ、皿を下げられて空いていたテーブルに突っ伏した。
「賭け……、ま、負けっ……、わ、私の、夏のボーナスがぁぁぁ~っ!」
そのままえぐえぐと泣き出した美幸の心境は分かり過ぎる位分かっていた為、美野は隣に座っている妹の背中を撫でつつ、慰めの言葉をかける。
「年収丸ごと賭けなくて良かったわね、美幸。そう気を落とさないで。今日の美幸の支払いは私が持つから。ほら、元気出して」
それを聞いた城崎が、会話に割って入った。
「いや、美野さん。ここは俺が。そもそもの原因は、俺が彼女に蜂谷を任せてしまった事ですし」
「係長。それを言ったら、俺があいつを放り出したせいで、藤宮にお鉢が回ってしまったんですから」
「でも、私は賭けの現場に居合わせたのに、制止できませんでしたし」
それぞれ主張し合って何とも言えない顔を見合わせた三人だったが、言い出しっぺの美野が解決案を口にした。
「この際、三人で均等割りにしませんか?」
「そうですね」
「そうしましょう」
そうして話が纏まり、それからは現実逃避するが如く、四人は仕事の話を一切せずに食べて飲んで一時を過ごしたのだった。
※※※
大体の者が午後の業務に入った辺りの時間帯。企画推進部の部屋のドアが乱暴に押し開けられ、白髪混じりの痩せぎすの男が飛び込んで来たと思ったら、その男が息を切らし気味に叫んだ。
「失礼、蜂谷君は居るか!」
その叫びで室内の殆どの者が、やって来た人物とその来訪目的を悟る。
「あ、鍋島常務だ」
「相変わらず、他人の迷惑を考えない奴だな」
「漸く社内の噂が耳に入って、彼の様子を見に来たってか?」
「だが今頃か? 蜂谷君が人格改造されてから、もう一週間は過ぎているぞ?」
「想像以上に、情報収集能力が欠如しているらしいな」
そんな事を好き勝手に囁き合っていると、蜂谷の姿を認めた鍋島は目を丸くし、次いで足早に彼の元に歩み寄った。そして顔色を変えてその変貌ぶりを問い質す。
「隼斗君! 一体どうしたんだね、その有様は!? ちょっと前とはだいぶ様子が違うじゃないか!!」
「お言葉ですが、鍋島常務。俺は見た目を変えただけではなく、魂を入れ替えて生まれ変わりました。今後はその様に御認識下さい」
座ったまま鍋島を見上げて淡々と説明した蜂谷は、それがすむと再びパソコンのディスプレイに視線を戻して仕事を続行させた。しかし鍋島は(信じられないものを見た)というが如く険しい顔付きになり、蜂谷の両肩を掴んで半ば強引に自分の方に体を向けさせて、盛大に揺さぶりつつ追及を続ける。
「あっ、ありえないだろう!! あのぐうたらで怠け者で物覚えが悪くて性格も可愛げがなくて、何をやらせても何一つ長続きしなかった隼斗君が! 何か毒でも飲まされたのか? それとも催眠術にでもかかっているのか? まさか何か弱みを握られて、えげつない脅しをかけられているのかっ!? 心配するな、伯父さんが付いてるぞ!」
「常務、できれば業務の邪魔をしないで頂きたいのですが……」
心底嫌そうに蜂谷が鍋島に応じるのを見た面々は、その二人に生温かい視線を送った。
(うわぁ、義理の甥っ子をそこまで貶しますか……)
(グダグダっぷりは、きちんと認識してたわけですね)
(信じられないのは無理もないですが)
そして蜂谷自身から控え目に拒絶されてしまった鍋島は、益々顔付きを険しくして周囲を見回し、真澄の姿が無い為この場の責任者の城崎に向かって吠えた。
「きっ、貴様ら~、隼斗君に一体何をした!? 城崎係長、正直に吐け!!」
「何を、と言われましても……。私どもは普通に指導をしていただけですが」
(確かに、物騒過ぎる所に放り込まれた時、傍観していたがな)
若干遠い目をしつつしらばっくれた城崎だったが、相手は当然納得しなかった。
「そんなわけあるか!! あの女狐に揃いも揃って誑かされおって!!」
鍋島が怒鳴りつけたとほぼ同時に、勢い良く机を叩く音と美幸の怒声が重なった。
「あぁあ、さっきからゴチャゴチャ五月蠅いのよ! 蜂谷!」
「はいっ! 何でしょうか、藤宮先輩」
先程の鍋島に対する態度とは一変させ、勢い良く立ち上がりつつ力強く返事をしてきた蜂谷に、美幸は鍋島に向かって手を払いのける様に振りながら言いつけた。
「その五月蠅いボケ親父のせいで打ち間違ったわ! それ、どっかに持ってって。仕事の邪魔よ!」
「はいっ! よろこんでっ!!」
(おいおい、ここはどこぞの居酒屋か?)
美幸の指示にすかさず応じた蜂谷の叫びを聞いて、周囲の者達は呆れて脱力したが、蜂谷は即座に行動に移った。
「土岐田さん、ちょっとこれをお借りします」
「あ、ああ、構わないけど……」
偶々机の上に有ったガムテープを取り上げた蜂谷が断りを入れてきた為、土岐田は何をする気かと思いながらも了承の返事を返したが、それを手にした蜂谷は誰もが予想外の行動に出た。
「……天誅」
「おうっ!?」
ボソッと呟きつつ鍋島の脛を蹴りつけた蜂谷は、鍋島が思わずしゃがみ込んだ所を肩を掴んで強引に床に転がし、素早く引き伸ばしたガムテープで両足首をぐるぐる巻きにして動きを封じた。
「こ、こらっ!! 隼斗君何を……、むごがぁっ!! うぐぅっ」
流石に鍋島は非難の声を上げたが、蜂谷は一向に構わずに鍋島の両手を背中に回して足と同様に手首にもガムテープを巻き付け、更に口にも貼り付けて沈黙させた。そしてジタバタもがいている鍋島の足を持ち上げつつ、爽やかな笑顔で周囲に断りを入れてくる。
「少しだけ抜けさせて頂きます」
「いってらっしゃい」
「……ふぐっ、……むぅっ、うぐぅ……」
大多数の者は蜂谷が問答無用で鍋島を引きずって行くのを唖然として見送ったが、美幸だけは軽く手を振ってから再びディスプレイに視線を戻して仕事を再開させた。すると隣から、幾分疲れた様に理彩が声をかけてくる。
「……あのね、藤宮」
「だって、五月蠅かったじゃないですか」
「まあ、そうなんだけどね。……もういいわ。鍋島常務もこれに懲りて、もう顔を出さないでしょうし」
画面を凝視しながら淡々と言ってのけた美幸に、何を言っても無駄だと悟った理彩は、それ以上言うのを諦めた。そうこうしているうちに、出て行った時以上の爽やかな笑顔で、蜂谷が戻ってくる。
「戻りました。土岐田さん、ありがとうございました」
「うん、それは良いんだが……。因みに鍋島常務をどちらにお連れしたんだ?」
額にキラリと汗を光らせ、(良い仕事をした)と全身から達成感を漂わせている蜂谷に思わず土岐田が尋ねると、彼はにこやかに言ってのけた。
「はい、このフロアの男性用トイレの用具入れスペースに、ガムテープでぐるぐる巻きにして身動き取れない様にして、まかり間違っても自力で脱出出来ない様に、色々な物と一緒にぎゅうぎゅう詰めにして押し込んで来ました! これで業務を邪魔しようにもできません。ご安心ください、藤宮先輩!!」
それを聞くと同時に顔色を変えて瀬上と高須が立ち上がり、城崎とアイコンタクトを交わして無言で廊下へと走り出て行った。それを見なかったかの様にして、美幸が笑顔で応じる。
「良くできました。じゃあ仕事を続けてね」
「はいっ!」
そうして嬉しそうに自分の席で仕事を再開した蜂谷を眺めて、他の者達は半ば頭を抱えてしまった。
「……なんだかなぁ」
「あの二週間で、フェミニスト精神を叩き込まれたらしくて、女性の指示にはより服従傾向が強いんだよな」
「でも無茶振りする様な女性は、企画推進部の中では藤宮君位しか居ないし」
「結果的に蜂谷君の立ち位置が《課長のペットで藤宮君の下僕》って所に、この一週間強で確定したな」
「……本人は嬉々として働いてるんですから、良いんじゃないですか?」
「課長が会議中で良かったですね。これを目の当たりにしたら、また頭痛の種が増えます」
「全くだ」
そんな風に会話を終わらせた二課の面々は、半ばうんざりした顔を見合わせた。
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