猪娘の躍動人生

篠原皐月
篠原皐月

3月(5)課長の薫陶

公開日時: 2021年9月25日(土) 09:38
文字数:4,547

「そういう事があったのか……。外回りから帰ったら室内が微妙な空気だったから、ただ課長が来て帰っただけではないとは思っていたが……」

 その日、退社後に美幸と待ち合わせて和食の創作料理の店に入った城崎は、差し向かいでお通しに手を伸ばしつつ、しみじみとした口調で感想を述べた。それに美幸が一つ頷いてから、話を続ける。


「本当に、肝を冷やしましたよ。渋谷さんが絡んだのは予想通りと言えば予想通りでしたが、蜂谷があのタイミングで要らん事をペラペラと」

「あいつもある意味、忠犬だからな。それを上手く使うのも、上の力量って事だろ」

「それはそうでしょうけど……」

 苦々しい顔つきで訴える美幸に、城崎がガラス製の徳利を傾けながら苦笑する。それを見ながら、美幸は思い出した事を尋ねた。


「ところで係長は、あの話を知ってましたか?」

「あの話って?」

「課長が作っていた、ブラックリストの話です」

「ああ、勿論知っている。以前見せて貰った事もあるしな」

 そこで城崎は小さなぐい飲みの中身を一気に飲んでから、真顔で言い出した。


「確かに課長は、俺が耳にした限りでも、入社直後から相当色眼鏡で見られていたらしいからな。だから逆に、純粋に課長の能力や人格を評価していた人物は、貴重だと言えるんだが」

「そうですよね。課長は有象無象の中から、きちんとそれをより分けたと」

「勿論、友人や知己の範囲が幅広くて多い、美幸の様な付き合い方が悪いと言っているわけじゃないぞ? 周囲とどういう人間関係を築くにしても、大事な所を外さなければ良いわけだから」

「そうですよね。城崎さんも誤解されやすいタイプですけど、周囲とは良い信頼関係を築いていますし」

 うんうんと納得した様に頷く美幸に、思わず城崎が尋ねる。


「誤解されやすいって……、どこら辺が?」

「ちょっと鋭すぎる目つきとか、武道をある程度極めた故の自然に醸し出される迫力とか、大抵の男の人の目線が上になる上背とか」

「……それは否定しないが」

 微妙に落ち込んだ城崎を、美幸はフォローするつもりで話を続ける。


「でもこれまで城崎さんが付き合って来た人達から、『最初は目つきが怖くて遠巻きにしていたけど、話してみると気さくだった』とか、『仕事で利害が対立している相手を容赦なく論破するのを見て、情け容赦ない人かと思ったら、実際は思慮深い人だった』とか、様々なパターンの誉め言葉を聞い」

「ちょっと待った! 付き合っていた人達って、一体誰から聞いた?」

 慌てて話を遮ってきた城崎に、美幸はサラリと答えた。


「誰って仲原さんと、夏江さんと、真柄さんです。あ、戸越さんも城崎さんの事を誉めてましたよ? 別れても元カノがべた褒めしてくれるなんて、よほどの人格者じゃ無かったら無理ですよ。流石ですよね! 思わず同期の友達に、城崎さんの自慢をしちゃいました!」

 彼女に元カノの情報をしっかり握られている上に、その周囲にそれが広まっている事を知って、城崎はどうして過去に社内で付き合う相手を見繕っていたのかと後悔し、がっくりと項垂れた。


「その同期の人達……、何か言って無かったか?」

「『美幸も負けない様に、女を磨きなさいね』でしたか?」

「そうか……。ところで、どうして彼女達から俺の話を聞こうと思ったんだ?」

 素朴な疑問を覚えた城崎が尋ねてみると、美幸は真顔で答えた。


「どうしてと言われても……。家で城崎さんと付き合う事になった話をした時に、一番上の姉が『じゃあ恋愛は真剣勝負だし、城崎さんの人となりとか恋愛遍歴を、これまで以上に徹底的に調べないとね』と言ったら、それを聞いた義兄が『そうだな。『己を知り敵を知れば百戦危うからず』と言うし』と笑ってましたから、色々皆さんから詳しい話を聞いてみようかと思い立ちまして」

「本当に、夫婦揃ってろくでもない……。皆も、何をどこまで喋ったんだ」

 本格的に頭を抱えてしまった城崎に、美幸は徳利を持ち上げて宥めながら酌をした。


「まあまあ。企画推進部二課は、周囲からの人望や信頼の厚い管理職が控えていて、安泰ですよね!」

「そう言って貰えると、嬉しいがな」

 それからは頃合いを見ながら出される料理を次々と平らげながら、二人で会話を楽しんでいたが、暫くして皿が下げられてテーブルが空いた時に、城崎が鞄から小さい箱を取り出した。


「じゃあ美幸、これはバレンタインのお返しなんだが、受け取って貰えるか?」

 そんな事を言われた美幸は、本気で驚いた。


「え? ああ、今日はホワイトデーでしたね。何か色々あって、すっかり忘れていました。でも、中身は何ですか?」

「開けて確認して良いぞ?」

「はぁ、それでは失礼します」

 そして美幸は掌に乗るサイズの箱に手を伸ばし、包んでいる包装紙を慎重に剥がし始めた。


(何だろう。こんなに薄くて小さいなら、お菓子の類じゃ無いよね? アクセサリーの類でも無いと思うんだけど……)

 そんな事を考えながら、包装紙の中から現れた箱の蓋を開けた美幸は、そこに意外な物を見つけた。


「名刺入れ、ですよね?」

「ああ」

「でも、これって本皮のしっかりした造り……。肌触りも良いしブランド品だし、相当高い物なんじゃありませんか? こういうのって、もっと偉くなってから使う物なんじゃありません!?」

 箱から取り出して詳細を確認した美幸が、些か狼狽気味に述べた台詞を聞いて、城崎がおかしそうに笑った。


「俺も昔、同じ様な事を言ったな」

「え? 昔?」

 キョトンとした顔になった美幸に、城崎が笑いながら事情を説明した。


「営業三課時代、課長と組んで仕事をしていた時の話なんだが、初めて一人で担当する会社を任された時に、課長から『記念と祝い』だと言って、これを貰ったんだ」

 そう言って城崎が内ポケットを探って取り出した名刺入れを、美幸はしげしげと眺めた。


「使い込んでますね。でも縫い目がしっかりしててほつれたりなんかしてないし、皮に良い感じに滑らかになって光沢が出ている感じがします。結構しますよね?」

 思わず金額を尋ねてしまった美幸に、城崎は笑って頷いた。


「ああ。当時でもそれなりにしたと思う。入社二年目の平社員が持つ様な物じゃ無いからと固辞したんだが、課長、勿論当時は俺と同じ平社員だったんだが、笑ってこう言ったんだ。『名刺入れもお財布も、安い物を使っていると、それなりの名刺やお金しか入って来ないものよ。分不相応な位が丁度良いの。気後れするなら、それにふさわしい名刺を入れる立場に、一日も早くなる事ね』とな。それで改めて気が付いたんだ。課長と一緒に出歩いている時に見た名刺入れは勿論、財布もハンカチも一目で高価な物だと分かる代物だったって事に」

 それに美幸は、控えめに反論した。


「あの、でも……。確かに課長は、服も鞄も良い物を使っていたと思いますが、そんなに高い物を使っていたわけでは……」

 それに城崎は、苦笑して言葉を継いだ。


「言い方が少し悪かったか。勿論、金に飽かせた使い方をしていたわけじゃない。商談先で相手に不快感を与えるわけにはいかないからな。そこら辺のバランス感覚も、絶妙だと思うが。要するにどんな小物でもそれこそボールペンや万年筆に至るまで、値段に相応しい、本当に良い物を厳選して使っているという事だ」

「それはそうですね」

 説明を聞いて素直になった美幸に、ここで城崎が問いかけた。


「でも大抵の人間だって、周囲の目につく服や小物に関しては気が付くだろう? 現に美幸だって、身だしなみには気を付けているし」

「当然です」

「確かに、靴とかネクタイとかに気を付けている人間は多いが、咄嗟に商談先で出した名刺入れやハンカチが、とんでもない安物だったりくたびれている物だったら、それを目にした相手はどう思うかな? まあ、そこまで細かく見ている人間は、ごく少数だとは思うが」

 そこで言われた内容を真顔で考え込んだ美幸は、神妙に問い返した。


「……そこで、差が付きますか?」

 しかし城崎は、小さく首を傾げる。

「さあ……、どうだろう。幾ら立派な物を持っていても、所詮はそれを使う人間次第だ。だが逆に、本当にできる人間っていうのは、どんな些細な事でも自分の価値を下げるかもしれない行為は、自然と慎むものじゃないのか? 俺はそれを、課長から教わった。同時に、この人は本物だと思ったな」

 当時の事をしみじみと語った彼を見て、美幸は少し前にあった事を思い出した。


「それでこの前、私の名刺入れを見てたんですか?」

 それに城崎は、小さく頷いてから話を続ける。


「今使っている物は確かに可愛いし美幸らしいが、これから上を目指すなら、今からこれ位でもおかしくは無いかと。現に大企業の社長や会長とも、名刺交換する機会があるんだし。だが好みもあるだろうし、気に入らなければ引き取るから」

「いえ、ありがたく頂きます」

「そうか? 無理しなくて良いが」

 僅かに心配そうに申し出た城崎だったが、美幸はさっそく自分の名刺入れを取り出し、貰ったばかりの新しい方に中身を入れ替える作業をしながら、力強く宣言した。


「無理してませんよ。絶対これに入れるに相応しい立場の名刺を、きっと手にしてみせますから!」

「そうか。それなら良かった」

「本当に良い物をありがとうございます。大事に使わせて貰いますね」

 笑顔で改めて礼を述べた美幸に、城崎も満足そうに頷く。それから最後まで楽しく食べ終えた美幸は、城崎に送って貰って気分良く帰宅したのだった。


 ※※※


 三月も後半に突入し、年度末という事もあって何となく慌ただしく過ごしていた美幸達だったが、そんな時期に新たな不安要素が持ち上がった。


「城崎、瀬上、仲原。悪いが手が空き次第、部長室に来てくれ」

「はい」

「すぐ伺います」

 廊下から清人を引き連れて室内に入って来た部長の谷山が、若干険しい表情で二課に揃っていた三人に向かって呼びかけた為、彼らは何事かと思いつつも立ち上がり、連れ立って部長室へと向かった。そして広い室内の一角に、透明な壁で仕切られている部長室に入った後は、谷山は自分の席に着き、傍らに清人を立たせて何やら話を始めたが、その様子を眺めながら、高須と美幸が囁き合う。


「一体、何事だ?」

「部長、課長代理と一緒に、合同管理職会議に参加して来たんですよね? なんだか顔色が悪くありません?」

「絶対何か、面倒事だよな。課長代理はいつも通り、飄々としてるが」

 そして注意深く観察していると、ちょっとした異変に気付く。


「あの……、係長達が動揺して何か言ってるみたいですし、表情が険しくなってる様な気がするんですけど?」

「今度はどんなトラブルなんだよ……。個人的にも不安を抱えてるってのに、仕事で面倒事を増やしたくないぞ」

 高須が本気で呻いて頭を抱えた為、美幸は不思議に思って問いかけた。


「個人的な不安って何ですか?」

「今年中に、お前が義妹になる事だ」

「え? じゃあ美野姉さんとの結婚が本決まり……、ちょっと待って下さい。どうして私が義妹になる事に不安を感じるんですか? 納得できません」

「自覚しろよ!」

 一瞬喜色を露わにしたものの、すぐに不満そうな顔になって抗議してきた美幸に、高須は思わず叱り付けてから、重い溜め息を吐いた。

 そんな風にどこか不穏な気配を漂わせながら、美幸の社会人生活二年目が幕を閉じようとしていた。


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