「清香さん、お待たせ!」
約束の時間を数分過ぎて、本社ビル近くのカフェに入った美幸は謝ったが、清香が慌てて立ち上がって頭を下げた。
「いえ、無理なお願いをしたのはこちらですから。お手数おかけして、申し訳ありません」
「大した手間じゃないのよ。各自の参考資料になるからって、課内コンペの時に他の三人のプレゼン資料データは貰ってたし」
そしてすぐに注文を済ませた美幸は、改めて向かい側に座る清香に問いかけた。
「でもどうして、二課でコンペに参加した四人の資料を見たいなんて言ってきたの?」
「あの……、私の思い過ごしかもしれないので、まず見せて頂けないでしょうか?」
「構わないわよ? どうぞ。ええと、これが後輩の蜂谷ので、これが私、これが先輩の高須さんの分で、こっちが渋谷さんの分だけど」
「……ちょっとお借りします」
一人分ずつクリアファイルに入れてきた資料を、テーブルに出した美幸だったが、何故か清香はその表紙を一巡して眺めてから、迷わず由香が作製した分に手を伸ばした。そして中身を取り出して、真剣な表情で目を通し始める。
その強張った顔を見て、美幸が(何事?)と思っていると、一通り資料に目を通した清香が溜め息を吐いて元通りにクリアファイルに纏め、他の三人の分も合わせて美幸に返してきた。
「藤宮さん、ありがとうございました」
あっさりそんな事を言われて、美幸は流石に面食らった。
「え? もう良いの? 他の三人の分は、見なくても良かったわけ?」
「はい。もう分かりましたので」
「分かったって、何が?」
「その渋谷さんの資料、全て真澄さんが作っている筈です」
「何ですって!?」
予想外の事を聞かされて、美幸は声を荒げて勢い良く立ち上がった。しかし周りの人目を引いてしまった事に気付いて、慌てて座りなおしながら問い質す。
「ちょっと待って、清香さん。滅多な事を言わないで。大体、どういう事?」
その問いかけに、清香はちょっと困った表情になりながら、事情を話し出した。
「一か月位前の事ですが、私、母方の祖父の家に行ったんです。兄が同居してますので、甥と姪の顔を見に」
「ああ、課長の所にね。それで?」
「良く真澄さんに本を貸して貰ってるんです。その時何か貸して貰おうと思って、部屋に入れて貰った時、姪がぐずり出しちゃって、真澄さんがあやしに行って暫く一人になったんですが、本棚の本を選んでいる時に、机のパソコンが起動しっぱなしなのに気が付きまして。真澄さんが、普段どんな物を見てるのかなと、つい出来心で……」
俯き加減で物凄く言い難そうに口にした清香を、美幸は何とも言えない表情になりながら宥めた。
「うん……、まあ、プライバシーに関わる事だから、褒められた事じゃないのは確かだけど、そこら辺はスルーしておくし、課長には黙っている事にするわ。それで?」
「暗くなってたモニターを表示させてみたら、何かのチャートを作っている最中だったみたいで。その直前に、藤宮さんと社食で話した時に『オフレプト』の話を聞いてましたから、その資料を見てるのかな? 真澄さん、産休中なのに仕事熱心だなと、その時は思っていたんですが。それから何となく気になっていまして。そうしたら今日の社内コンペで、そちらの課が営業三課を踏みにじって足蹴にしてコンペ参加権を物にしたと、伝わってきまして……」
「『踏みにじって足蹴』って何……。社内コンペで何があって、どんな噂が広がってるのよ」
思わず頭を抱えた美幸だったが、それに追い打ちをかける様な清香の推測が続いた。
「その担当者が異動したばかりの渋谷さんだとも聞いて、どう考えても裏があるとしか思えなくて。念の為に見せて貰いましたが、やっぱり渋谷さんの資料の殆どは、あの時見たのと同じものです。勿論、渋谷さんって方が、真澄さんの所から盗んだなんて思ってません! あんな無駄に広くて、いつでも複数人がいるセキュリティばっちりのお屋敷から、誰がどう盗むって言うんですか。絶対に真澄さんか兄が渡して、使わせたのに決まってます!」
一気に言い切って、息を整えている清香を見ながら、美幸はひたすら茫然としていた。
「……うん。渋谷さんが課長のデータを盗めないのは分かったし、課長がやってることを課長代理が把握していないって事は、考えられないのも分かる。でもちょっと今の話、口外するのは止めておいてね? 内容がデリケート過ぎるわ」
「はい。すみません、どうしても気になってしまって、藤宮さんを巻き込んでしまって。でもこれですっきりしましたし、口外はしません。どう考えても兄と真澄さんが絡んでいる筈ですし」
「私も聞かなかった事にするわ」
それから恐縮しきって何度も頭を下げてから清香は帰って行き、美幸も考え込みながら帰宅した。
「……ただいま」
「お帰りなさい、美幸。今、ご飯を準備するわね」
「今はちょっといい。少ししたら食べるから、部屋に行ってる」
「そう? じゃあ、後で下りてらっしゃい」
心ここにあらずといった風情の妹を見て、美子は不思議そうな顔になったが、美幸はそれどころでは無かった。そして自室に入るなり、城崎に電話をかけ始める。
「もしもし? 城崎さん? 何かもう聞き捨てならない事、聞いちゃったんですけど!? もう意味分かりません!!」
「ちょっと待て、どうした。落ち着け。何があった?」
いきなり電話口で喚きだした美幸に驚いたらしく、城崎は僅かに動揺しながらも宥めてきたが、美幸はそのままの勢いで、先程清香から聞いた内容を伝えた。
「どういう事だと思いますか?」
「どうもこうも……、課長と課長代理は最初から青山課長に引導を渡すつもりで、渋谷さんを引き取ったという事だ。今だから言うが、実は課長が産休に入った後、俺は青山課長から引き抜き話を受けてたんだ。『課長が考えなしに産休なんか取って空いた席に、君が昇進して着任すると思っていたのに残念だったね。あまりにも業績が上がらないから、近々うちの峰岸を外に出そうと思っているから、君さえ良ければ戻ってこないかい? 今は係長だが、すぐに私の後を継いで貰うから』とか世迷言をほざいてな」
淡々と城崎が語った内容を聞いて、美幸はたちまち憤慨した。
「何ですか、それはっ!? 『考えなしに』とか『産休なんか』とか、ふざけてません? 第一、業績が上がらないのは自分のせいなのに、それを部下のせいにして叩き出した後釜に城崎さんを据えて、業績を上げようって腹じゃないですか!!」
「そんな思惑が透ける話、誰が頷くか。丁重にお断り申し上げて、課長代理に報告だけはしておいた。そうしたら青山の奴、上の誰かにその話を持ち掛けたらしくてな。『業績が低迷している営業三課のてこ入れの為』として、水面下で俺の異動話が一時期進んでいたらしい。それを課長代理が、俺の課長昇進とセットの異動話で、完全に無かった事にした。これは異動が決まった後に、課長代理から聞いたが」
「あの無茶無理無謀な異動話に、そんな裏があったなんて……」
ひたすら唖然とするしかなかった美幸だったが、ここで城崎は声を低めて話を続けた。
「俺の異動話を持ち掛けた時点で、青山課長は確実に虎の尾を踏んだな。これまで有形無形の嫌がらせを受けていてもスルーしていた課長だが、直接自分の部下にちょっかいを出されて、黙っている筈が無い。大がかりなコンペの情報を聞きつけるや否や、利用できそうな彼女を営業三課から引き抜き、その利益に直結しそうな仕事を彼女に任せて、異動前の不遇な社員の本来の能力を抜擢したと周囲に思わせる。今度こそ青山に肩入れしてた上役とかも、愛想を尽かすだろうさ。秋になる前に、営業三課の課長と係長が入れ替えになっても、俺は驚かない」
「確かに、社内でも色々憶測が流れてますね」
「渋谷さんも気の毒に……、完全に貧乏くじを引かされたな」
ここで妙にしみじみと城崎が口にした内容を聞いて、美幸は無意識に顔を顰めた。
「なんで渋谷さんに同情しなきゃいけないんですか? 彼女、移動してすぐに、大きな仕事を任されることになったんですよ?」
「重役たちが居並ぶ席で絶賛された、課長が作製した資料と、プレゼンの内容でな」
「それは……」
思わず口を噤んだ美幸に、城崎が彼女が漠然と考えた内容を言って聞かせた。
「彼女にしてみれば、ほんの出来心だったと思う。自分の作っている物より格段に良いと分かる物が目の前にあったら、つい手を伸ばしてしまうのは自然な事だ。だけどな、今後同レベルの事が出来なかったら、そのたびに言われるぞ? 『あの時と同じ様に作ってくれれば良いから』とか『あの時はあれだけできたのにどうした』とか」
「彼女にしてみれば『あれは実は課長が作りました』なんて、今更言えませんしね」
「図太くて恥知らずな人間なら、他人の物を自分の物にしても、平然と開き直って仕事をするだけだがな。課長代理は営業三課から引き抜く時に、十分考えて人選をした筈だ。今まで大した業績を出していなくて、大きな仕事があれば迷わず食いつく。しかし中途半端なプライドと根性しか持っていない、飼い殺しかいつでも捨てて惜しくない人材を」
ここでさすがに、美幸は非難の声を上げた。
「城崎さん、その言い方は酷すぎませんか!?」
「気に障ったのなら悪い。だが、課長の作った資料を彼女に渡すまでは想定していなかったからな。課内コンペを通った段階では、本当に課長代理は営業三課で燻ってた彼女を、抜擢しただけだと思ってたんだ。だが今回の話を聞いたら、裏工作で渋谷さんをできる社員と周囲に認識させたわけで、悪意しか感じない」
「…………」
反論できずに黙り込んだ美幸だったが、城崎は溜め息を吐いてから話を続けた。
「一番良かったのは、渋谷さんが課長から渡されたであろう資料に手を付けずに、自力で課内コンペを通れば良かったんだが……。本当にやり口がえげつない。流石、柏木産業の氷姫……」
「そんな事、しみじみと言わないで下さいよ!」
「まあ、それはともかく、異動して以降、渋谷さんは課長代理にネチネチ嫌がらせをされてただろう? 今後もそれは続くと思う。むしろオプレフトのコンペを勝ち抜いて本契約を結んだら、用無しとばかりに追い込みにかかる可能性もありそうだ」
そんなろくでもない可能性を聞かされて、美幸は狼狽した。
「ちょっと待って下さい、そんな事、課長が許す筈無いじゃないですか!!」
「課長は公平な人だが、無能な人間を使う趣味は無い。課長が復帰するまでに、課長代理がすす払いをする筈だ」
それを聞いた美幸は、思わず遠い目をしてしまった。
「……渋谷さんは塵かゴミですか」
「現時点の評価ならな。彼女が一皮剥けるか、劇的に状況が好転しない限りはそうなる。美幸、できるだけ彼女のフォローをしてくれないか?」
「私がですか!?」
予想外の事を言われて、美幸は流石に動揺したが、城崎が真面目に言い聞かせてくる。
「筋違いなのは分かるが、今の時点で課内では美幸しか正確な状況を把握していないんだ。これから課長代理がどんなことをしでかすか分からないし、彼女はれっきとした美幸の同僚だぞ? 管理職になったら自分の業績を上げるだけじゃなくて、周囲の状況にもきちんと目を配る必要があるんだがな」
最後は微妙に笑いを含んだ物言いに、美幸は思わず苦笑した。
「分かりました。城崎さんの指示に従います。管理職就任の予行演習として、二課の中を波風立たない様に、きっちり抑えてみせようじゃありませんか!」
「良く言った。さすが、俺の美幸」
「お、『俺の』って! 城崎さん!?」
「ちょっと悪い、電話が入った。何か心配な事があったら、相談に乗るから。それじゃあ、また」
そこで慌ただしく城崎が通話を終わらせた為、美幸はがっくりとスマホ片手に項垂れた。
「いきなり言わないで欲しいし、あの陰険野郎からどうやって彼女を庇えと……。城崎さん、課長以上に無茶振り過ぎる……」
しかし清人のこれまでの傍若無人ぶりを思い出して、見て見ぬふりもできないと諦めた美幸は、そう認識した途端に空腹を覚えて、夕食を食べる為に部屋を出て行った。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!