猪娘の躍動人生

篠原皐月
篠原皐月

番外編 忠犬ハチの使い方~柏木真澄の場合

公開日時: 2021年8月10日(火) 22:44
文字数:3,909

 清人は真澄の代わりに柏木産業に勤め出してから、帰宅すると決まって妻に同じ台詞で出迎えられていた。


「お帰りなさい、清人。今日も変わった事は無かった?」

 それに苦笑いをし、上着を脱ぎながらいつも通りの答えを返す。

「至って順調だ。しかし、毎日同じ事を聞かれるな。そんなに俺が信用ならないか?」

「そうじゃなくて。ただでさえ二課は色々と難しいし、藤宮さんに加えて今年は蜂谷さんも入ったし……」

 それを美幸が耳にしたなら「蜂谷と一括りなんて酷いですっ!」と盛大な抗議の声が上がりそうだったが、清人は笑いを堪えながら真澄の大きくなった腹部を軽く撫でた。


「まあ、二人とも全く問題を起こしていないとは言わないが、それなりに頑張っているからそう心配するな。あまり心配していると、腹の子に良くない」

「そうね」

 そうして何とか自分の中で折り合いをつけたらしい真澄を見ながら、(そう言えば変わった事が有ったな)と思い出した清人が、ネクタイを外しながらそれを口にした。


「蜂谷と言えば……、最近、組合の執行委員を引き受けたらしいぞ?」

 それは流石に予想外だった真澄が、素直に驚いた表情を見せる。

「え? 今年入ったばかりなのに? どうして?」

「さあ……。その場に俺が居なかったから詳細は不明だが、話を聞く所によると、他薦と自薦で満場一致だったとか」

「……何か引っ掛かりを覚えるんだけど。何かあなたが絡んでいないの?」

 清人の説明に、真澄は物凄く懐疑的な表情になった。それに両手を上げてみせながら、清人が苦笑する。


「それに俺はノータッチだ。まあ、本人はやる気満々だし、良いんじゃないか? 大抵は押し付け合いになる所なのに、あっさり決まって良かったじゃないか」

「それもそうね……」

「早速ボウリング大会兼懇親会の企画とかを、立案していたみたいだぞ? 誰に唆されているのかは知らんが、まあ、良い経験だろうな」

 そう言ってさくさくと部屋着に着替えていく清人を見ながら、真澄は誰に言うともなしに呟いた。


「ボウリング大会ね……。それっていつ頃かしら?」

「さあ……、八月に入ってからだとは聞いているが。それがどうした?」

「ちょっとね。じゃあ下に行ってご飯を食べて。私もお茶を付き合うわ」

 そこで職場についての会話は終わったが、色々考えを巡らせた真澄は、翌日早速行動に出たのだった。



 そのいつもと変わりない昼下がり。自分の机にかかってきた外線を、隼斗は入社当初とは雲泥の差がある受け答えで対応した。

「お待たせしました。柏木産業、企画推進部二課の蜂谷です」

「蜂谷さん、お仕事ご苦労様。柏木です」

「課長!? どうかされましたか!?」

 冷静に所属を述べた後、電話をかけてきた相手が産休中の上司だと分かった隼斗は、一言叫んで受話器を持ったまま直立不動の体勢になった。当然その叫びは室内中に響き渡り、他の面々の疑念を誘う。


「……おい、今課長って言ったか?」

「言ったよな? だけど産休中の課長が、蜂谷に何の用が有るんだ?」

 そんな戸惑いなど全く分かっていないらしい真澄は、電話の向こうからのんびりと問いかけてきた。


「お仕事中ごめんなさい。今忙しいなら、かけ直すけど」

「とんでもございません! 無茶苦茶暇で暇で暇でどうしようかと思っていた所ですので、ご遠慮なさらず!」

 隼斗が力一杯そう叫んだ瞬間、高須と美幸の間で囁き声が交わされた。


「……あいつに任せたデータ処理、終わったのか?」

「まだあいつの手元に有る筈ですが。無茶苦茶暇って冗談ですかね?」

 周囲のそんな声など耳に入らない様子で、隼斗は嬉々として電話の向こうに呼びかけた。


「それで、今日はどういったご用件でしょうか?」

「実は、清人から、最近蜂谷さんが色々と頑張ってくれている話を聞いて、一言お礼が言いたくて電話してみたの」

「光栄ですっ……。この身に余るお言葉をかけて頂き、恐悦至極でございます……」

 殊勝な口ぶりでそう述べた真澄に、感極まったのか隼斗が涙ぐみ始めた。それを見て瀬上と城崎がボソボソと言い合う。


「……何かあれ、危なくないですか?」

「だが、電話の相手は課長なんだろう? 課長代理ならともかく、変な事にはならないと思うが……」

 そして二人揃って、商談の為この場に居ない課長代理の座っている席を眺めながら顔を顰めていると、隼斗が再び笑顔になってきた。


「仕事で頑張ってくれている上に、組合の執行委員を引き受けたんですって? なかなか大変な仕事なのに、一年目から率先して引き受けるなんて、並みの人には出来ないもの。上司として鼻が高いわ」

「ありがとうございます。これからも柏木産業の為に、粉骨砕身していく所存です」

「頼もしいわ。……それでね? 蜂谷さん。そんなあなたを見込んで、是非ともお願いしたい事が有るの」

「何でしょうか? 何でもお申し付け下さい」

 力一杯頷いた隼斗だったが、ここで真澄は声を低めて念を押してきた。


「先に言っておくけど……、これは極めて繊細な内容で、超極秘の任務よ? 例え清人に聞かれても、黙っていられる?」

「ごっ、ご主人様にもですか!?」

「ええ。できるかしら?」

 素っ頓狂な叫び声を上げた隼斗に、再び室内中の視線が集まったが、隼斗は硬い表情で唾を飲みこんでから、力強く請け負った。


「……分かりました。この蜂谷、この命に代えても秘密は厳守致します。ご安心下さい」

「別に命までは賭けなくても良いんだけど……。まあ、いいわ。それならお願いしたい内容だけど……」

 それからは真澄の話に「はい」「分かりました」などと端的に相槌を打つのみで、隼斗は通話を終わらせた。そして挨拶をして受話器を戻すと、待ちかねたように通話の内容について美幸が問い質してくる。


「蜂谷? その電話、課長からだったのよね?」

 その声に、隼斗はビクリとして振り返りつつ、微妙に定まらない視線で答えた。


「え、ええ、まあ……、そうかもしれないと言えば、そう言えない事も、無いかもしれません」

「何わけが分からない事をグチャグチャ言ってるの? それで? 課長はわざわざ、あんたに何を言ってきたわけ?」

「…………」

 無意識に眉を顰めた美幸が一歩足を踏み出しながら尚も尋ねると、隼斗は無言でその分後退した。その様子に、美幸の顔が僅かに引き攣る。


「どうして後ずさりするの?」

「申し訳ありません。これは課長から直々に俺が承った、超極秘ミッションなんです。例え藤宮先輩に殴られようが蹴られようが、口を割るわけにはいきません」

 かなり切羽詰った弁解の言葉に周囲は呆れかえり、美幸は思わずこめかみに青筋を浮かべた。


「……ちょっと待って。まるで私が、殴る蹴るの暴行を加える様な物言いは止めてくれない?」

「俺は、この秘密を墓まで持って行きます! 俺は常に、最期まで、課長の忠実な部下である事を、自分自身とご主人様に誓ったんです! 何人たりともそれを邪魔させません! 勘弁して下さい!!」

「あ、ちょっと、蜂谷! どこに行くのよっ!!」

 真っ青な顔で叫んだと思ったら、一目散に駆け出して行った隼斗を、企画推進部の室内にいた全員が呆気に取られて見送った。

 そして暫くして商談先から戻って来た清人は、城崎からその呆れるばかりの顛末を聞かされた。


「……それで?」

「一時間が経過しても、戻って来ません。携帯にかけても応答がありませんが、課長代理の携帯からの発信でしたら応じるかと。お手を煩わせて申し訳ありませんが、宜しくお願いします」

 神妙に頭を下げた城崎を見ながら、清人は疲れた様に溜め息を吐いた。しかし求められた様に隼斗の携帯に電話をかけ、ドスの聞いた声で「何も聞かないでやるが、一分以内に戻って来ないと再調教だ」と告げて切ると、どこに隠れていたのかきっかり一分で息を切らせて隼斗が駆け戻って来た。



 そして労組青年部主催のボウリング大会当日。

 実行委員の一人である隼斗は忙しく動き回っていたが、臨月の真澄が知り合いと立ち話をしているのを発見し、話が終わったらしいのを見計らって、彼女の元に駆け寄った。


「お久しぶりです、課長! お身体の具合はどうでしょうか?」

 臨月に入った上司の体調を気遣う言葉を口にすると、真澄は笑顔で礼を述べた。

「ありがとう、順調よ。今日は私がお願いした通りに、浩一と清人と城崎さんと藤宮さんで組分けしてくれたのね。嬉しいわ」

 それを聞いた隼斗は胸を張った。


「こんな事位、お安いご用です。更に一番端のレーンを空けたその隣を使用する事にして、極力五月蠅くない様にもしてみましたし、トイレもエスカレーターも一番近くの位置にしておきました」

「ありがとう、いたせりつくせりね。四人ともゲームに集中できると思うし、私もリラックスして観戦できるわ」

「それは何よりです。課長のお話では四人とも実力伯仲の腕前だそうですから、楽しんで頂けそうですね?」

「ええ。それに自分ができない分、見ごたえのあるゲームを観戦できるのは余計に楽しいもの。それに清人の勇姿を見られるのも嬉しいし。……あら、これって惚気かしら?」

 そう言って笑った真澄に、隼斗も満面の笑顔で返した。


「いえいえ、とんでもございません! ご主人様が何事にも秀でているのは当然の事ですし、課長に楽しんで頂けるのが、俺の至上の喜びです!」

 そんな会話を交わしている二人を、自分達に割り当てられたレーンの座席から、城崎と美幸は冷ややかな視線で眺めやっていた。


「蜂谷……、絶対あいつがこの組み合わせを仕組んだな……」

「ふっ、願っても無いチャンスですよ。課長の目の前でぜぇぇぇったいに課長代理に、吠え面かかせてやるんだからっ!!」

 そんな様々な思惑を含みながら、柏木産業労組主催のボウリング大会は、華々しく幕を開けたのだった。


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