猪娘の躍動人生

篠原皐月
篠原皐月

2月(5)噂の真相

公開日時: 2021年9月19日(日) 10:49
文字数:4,066

 二月十四日、バレンタイン当日。

 朝から美幸のテンションは、これ以上は無い位高かった。


「おはようございます!」

「おはよう、藤宮さん」

「今日も元気良いね」

「はい! もうやる気満々ですから! 何でも言いつけて下さいねっ!」

「はは……、そうか」

「何かあったら宜しく」

 元気良く挨拶してきた美幸を見て、周囲の者達は苦笑するしかなかった。


「あ、渋谷さん! おはようございます!」

「……おはよう」

 由香にも愛想よく挨拶した美幸だったが、相手は胡散臭そうに一瞥しただけで、自分の席に座った。しかし美幸はそれに腹を立てる事無く、にんまりと笑って鞄の中に手を入れる。


(やっぱり不審そうな顔をしてる。ふふっ、楽しみだわ。今日はこれを使って、正攻法でガツンと言ってやるんだから! 課長の事を『媚び売って云々』なんて見当違いの放言をした分、ギャフンと言わせてやる!)

 そして鞄の中で箱を手にしつつ、含み笑いをしている美幸を見て、年配の村上や清瀬などがどことなく不安を覚え始めているうちに、その懸念が現実の物となった。


「おはようございます、城崎係長!」

「ああ、藤宮さん、おはよう」

 始業時間十分前になって城崎が姿を見せた為、美幸は明るく挨拶してから勢い良く彼の前に駆け寄り、手にしていた小さめのリボンを掛けた箱を彼に向かって突き出した。


「早速ですが、これを受け取って下さい! バレンタインのチョコレートです! 頑張って見た目も味も合格点の物を作って来ました!」

「……あ、ああ。どうも、ありがとう」

「…………」

 いきなり堂々と渡された事に加えて、朝から気持ち悪い位の満面の笑みを向けられて、城崎は正直嬉しいのを通り越して、不審の念を覚えた。そして由香が不愉快そうに自分達を睨んでいるのに気が付いた彼は、目の前の美幸に少し顔を寄せて小声で囁く。


「藤宮? 女子社員全員で話し合って、部内で義理チョコは配らない事にしたんじゃなかったのか?」

「はい。ですからこれは、本命チョコですから」

「あのな……」

 この事態をどうするんだと、嬉しさ半分で城崎が項垂れていると、少し離れた所から勝ち誇った様な声が上がった。


「あらあら、公私混同する同僚が居るなんて、幻滅したわね。やっぱり上が男にこそこそ媚びを売って出世する様な人間だと、下もだらしないのね」

「あの……」

「渋谷さん、それは」

 周囲の者達は慌てて由香を宥めようとしたが、美幸は(待ってました!)とばかりに受けて立った。


「あらあら、日本語能力が平均水準に達しない人が同僚だと、一々解説しないといけないから、本当に煩わしくて仕方がないわぁ」

「……あなた、何を言ってるの?」

「おい、藤宮」

 わざと先程の由香の口調を真似て言ってみると、彼女は益々険悪な顔付きになり、城崎は慌てて美幸を止めようとしたが、美幸の口は止まらなかった。


「だって今はまだれっきとした勤務時間外だから、きちんと公私の区別を付けて城崎さんに渡しているもの。それにやましい事は皆無だから、他の人の前で渡しても平気だって言っているのよ」

「呆れた……、どこまで厚かましいの!?」

「そりゃあ誰かさんの様に、他人からの評価を上げて欲しくてこそこそ渡すなら、人の視線を気にするかもしれませんけど?」

「ちょっと! 嫌味のつもり!?」

 声を荒げた由香に、美幸はせせら笑いながら言い返した。


「あら、どこが嫌味なんでしょう? だれも渋谷さんの事だなんて一言も言ってませんが? それにチョコ如きで他人の感心を買えるなら、『穀潰しの墓場』から『産業廃棄物処理場』なんかには来ませんよねぇ?」

「あっ、あなたねぇっ!!」

「藤宮! いい加減にしないか!」

「藤宮先輩、それは誤解です! 渋谷先輩は柏木産業のホープですよ!!」

 本格的に怒鳴り合いに突入するかと思った瞬間、蜂谷が勢い良く立ち上がりって主張した。それに面食らった美幸は、思わず怒気を削がれて問い返す。


「はぁ? 急に何を言い出すのよ、蜂谷?」

「考えてもみて下さい。渋谷先輩はあの燦然と輝く女神様と、鉄壁剛腕の城崎係長に続いて、営業三課から企画推進部に異動された三人目の方なんですよ? 有能で無い筈が無いじゃありませんか!?」

「蜂谷君……」

「それ……、ある意味、藤宮さん以上の嫌味だから」

 満面の笑みで蜂谷が告げた内容を聞いて、企画推進部の殆どの人間は頭を抱えた。そしてその内容を理解した美幸も、一転して憐れむ様な視線を由香に向けながら、わざとらしく頷いてみせる。


「あぁ……、そう言えば、そうよねぇ……。課長と係長が前例なんだから、普通に考えれば二人が比較対象になるんだもんねぇ……。そりゃあ、さぞかしご優秀だわ~。ご優秀じゃないと確実に見劣りするでしょうし、た~いへ~ん。私だったら耐えられない~。ゼロからの出発じゃなくて、マイナスからの出発だなんて~。頑張って下さいね? 渋谷セ・ン・パ・イ?」

「…………っ!!」

 途端に由香は怒りで顔を真っ赤にし、流石に城崎は部下を窘めた。


「藤宮、いい加減止めろ」

「分かりました」

「蜂谷も、それ以上は言うなよ?」

「俺、何か拙い事を言いましたか?」

 きょとんとして問い返した彼に、城崎が疲れた様に訴える。


「できればもう少し、オブラートに包んで欲しかったが」

「オブラートって何ですか?」

 本気で例えが伝わっていないらしい事で、疲労感が増大したらしい城崎の表情を見て、周囲から同情の視線が向けられた。城崎はそれを意識しつつ、通常業務に取り掛かる為に周囲に声をかける。


「……いや、もう良い。取り敢えずそろそろ始業時間になるから、準備を始めてくれ」

「分かりました」

「じゃあ、今日も一日滞りなく」

「ふざけんじゃ無いわよっ!! 業績を上げられない分、当時の営業部長と不倫して成績に色を付けて貰って、こっちの部長に引っ張って貰って管理職に上げて貰う様な女! 比較される事自体、不愉快だわ!!」

 怒りが振り切れたのか、いきなり大声で由香が喚き散らした為、室内の空気が凍った。しかしその一瞬後で、美幸の怒声と一課の席に座ったままの鈴江の爆笑が湧き起こる。


「はぁ!? あんたそんな与太話を」

「あっ、あはははははっ!! い、居た! 本当に居たわ!! 凄い! まさか本当に居るなんて!!」

 バンバンと自分の机を連打しながら爆笑し続ける彼女に、由香は目を丸くしたが、美幸も呆気に取られて尋ねる。


「あ、あの……、田辺さん? どうしたんですか?」

 そう声をかけられた鈴江は、笑い過ぎで滲んだ涙を軽く指で拭いながら、美幸と由香の方に向き直った。


「ごめんごめん。噴き出しちゃって。だって柏木課長から話を聞いた時は話半分で聞いていたのに、本当だったんだもの」

「何が本当なんですか?」

「人事部の夏木係長が、定期的に社内に『柏木課長は営業三課在籍時代、当時の営業部長と不倫して、それがバレて営業部長は北米支社長に配転、柏木課長は企画推進部に異動になった』って噂を流している事よ」

「……え?」

「ちょっと待って下さい! 何で夏木係長がそんな噂を流してるんですか!? だって課長とは大学時代からの友人ですよね!?」

 唖然としている二人に、鈴江は苦笑しながら説明を続けた。 


「落ち着いて。ちゃんと夏木係長は柏木課長の了解を取っているわ」

「益々、意味が分かりません!」

「柏木課長から聞いた話だと、人事評定をする時のネタの一つにしてるみたい。ターゲットの耳に入る様に、意図的にその周囲だけに噂を流して、反応を見るんですって」

「ですけど! 何もわざわざそんな不名誉な噂!」

 本気で美幸は怒り始めたが、ここで鈴江は不敵に笑って穏やかに言い聞かせた。


「良く考えてご覧なさい? その噂、当時から少なくとも七年近く経過してるのよ? 『人の噂も七十五日』って言うのに、そんな噂が今頃出回っている時点で、何かおかしいと思わなくちゃ駄目でしょう。何か裏があると思わなくちゃだめよ。迂闊過ぎるわ」

「……そう言われてみれば」

 指摘されて思わず考え込んだ美幸の横で、由香が忽ち表情を消した。そんな二人の反応に満足しながら、鈴江が含み笑いで続ける。


「それに他人の不名誉な噂なんて、軽々しく口にする物じゃないでしょう? 例え『学生時代から表向き友人関係を保っているけど、美人なのを笠に着て高慢ちきで仕方が無いのよね』なんて誘い水を向けられたからって、得意満面でベラベラ喋る様な内容でない事は確かよね」

「…………」

「……ですよね」

 思わずチラッと傍らに視線を向けると、由香の顔は真っ青だった。それで美幸は(絶対夏木係長に向かって、悪口雑言吐いたわね)と確信した。


「それに不審に思ったら、当時の事を知っている人間や、当人の人となりを知っている人物に接触したり、自分で接して訂正したり判断すれば良いだけの話よ。だからこれで組織内での自己保身能力、周囲とのコミュニケーション能力、秘密保持判断能力を評価するんですって」

「わざとそんな噂を流して、ですか? ……結構、えげつないですね」

 美幸が正直にそんな感想を述べると、鈴江が苦笑いで話を締め括った。


「だけどそんなのに引っかかる人は、滅多に居ないそうよ? ごくごく稀に、得意満面で夏木係長に向かって柏木課長をこき下ろし捲る人間が出るんだけど、『その時は容赦なく最低評価を付ける事ができて、気分爽快』って夏木係長が言ってたらしいわ。柏木課長が以前、『こんなつまらない根も葉もない噂が役立つなら、幾らでも流して構わないと言ってるんです。こんなのにひっかかる社員なんて、そうそういる筈ありませんし』って苦笑いしながら教えてくれたの」

「そうですか……。ターゲットの周囲にだけピンポイントで噂を流すなんて、夏木係長は凄腕ですね」

「…………」

 まだくすくす笑っている鈴江に、若干的外れなコメントを返した美幸は、先程とは異なり、本気で由香に同情する視線を送った。


(そうなると……、それで人事評定が最低ランクを付けられたって事になるのよね、この人)

 そんな微妙に気まずい空気が室内に満ちていると、それに気が付いているのかいないのか、いつも通りの顔で清人が出社してきた。


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