「今日は一度出社して、これを持って来た」
「これ!?」
「藤宮の机の上から勝手に持って来たが、そこは勘弁してくれ。手がけてる仕事を放り出したく無いだろう? 課長代理もこのまま任せると言ってたし」
「いえいえ、ありがとうございます!」
見慣れたファイルに、実は朝から仕事の事を心配していた美幸は、痛みも忘れて満面の笑みで礼を述べた。するとそれに満足そうに頷いた城崎が、今度はブリーフケースの中から、ノートパソコンと充電器を取り出す。
「それから、ここの職員に確認を取った。病棟だからデータ通信は厳禁だが、内臓ソフトを使用しての作業なら構わないそうだ」
「本当ですか? 良かったぁぁっ! 時間を無駄にしなくて済む!」
「それからこれは浩一課長から」
「何ですか?」
全く予想外の人物の名前を聞いて美幸は首を傾げたが、分厚く膨れたA4判の封筒をテーブルに乗せながら、城崎が説明を加えた。
「再生エネルギー関連の資料集。『プロジェクトの席はそのままにしておくから、復帰したらまた宜しく』と言われて、見舞い代わりだと渡された。復帰したらこれまで以上にこき使うから、それまでにしっかり読み込んでおけって事だな」
その意図を完全に理解できた美幸は、素直に感謝して頭を下げる。
「なるほど……、むやみやたらに大きい花束なんかより、こっちの方が嬉しいですね。浩一課長に、退院までに頭に叩き込んでおきますって、伝えておいて下さい」
「了解。因みに山崎は昨日の段階でプロジェクトから外された」
「そうなんですか?」
唐突な話題の転換と、その内容に美幸が戸惑うと、城崎は疲れた様に溜め息を吐いてから説明を続けた。
「浩一課長なりに、部下の不始末に激怒していたからな。社で同じく後始末の為に休日出勤してた課長代理と、加害者の勤務先を訪問する相談もしていたし」
「はい? どうして加害者の勤務先に、浩一課長と課長代理が、雁首揃えて出向くんですか? 私が怪我させられた事への抗議だったら、係長が止めて下さい! そもそもの原因は山崎と私の方なんですから」
「それは二人も分かっている。だから逆に、穏便に計らって貰う為に行くんだ」
「え?」
「交通事故の加害者になって、自分も全治三ヶ月。そんな社員を、普通だったら勤務先では、どう評価すると思う?」
そう問いかけられた美幸は、戸惑いながらも自分がそうなったらと仮定して、考えてみた。そして嫌そうに顔を歪める。
「……周囲に迷惑をかけますし、休んでいる間に下手したら仕事を干されそうですね」
その意見に、城崎は小さく頷いた。
「確かにその人物が加害者ではあるが、偶発的な事故の上、そもそもの原因が自分達の部下の諍いなのが明らかなのに、傍観するほど浩一課長は薄情な人じゃないさ。勤務評定に影響が出ない様に取り計らって貰った上で、完治したら本来の職場にきちんと復帰できる様に、頭を下げに行くつもりだろう」
「頭を下げにって……、それで何とかなるんですか?」
「調べたら相手の勤務先が、柏木産業の取引先の一つだった。『大手取引先の社長令息に頭を下げさせて、依頼された些細な事を実行しなかった場合のリスク位、考えられるだろう。人一人の会社人生がかかってるんだ。社長令息の肩書きが役に立つなら、それで頭の一つや二つ下げるさ』と、浩一課長が苦笑いしていた」
それを聞いて、美幸は思わず痛くない右手をしっかりと握り締め、感嘆の声を上げた。
「浩一課長、前々から思ってましたけど本当に気配りの人ですよね! さすがあの柏木課長の弟さん。やる時はやる人です!」
「ぶはっ!」
そこで何故かいきなり噴き出した城崎に、美幸は冷たい目を向けた。
「何ですか?」
「……いや、ちょっと」
「係長?」
口と腹を押さえながら、必死に笑いを堪えているらしい城崎を美幸が軽く睨みつけていると、何とか平常心を取り戻したらしい彼が、笑顔でその理由を述べた。
「浩一課長を誉める時でも、とっさに課長を引き合いに出す辺り、さすが柏木課長フリークだなと思って。どれだけ課長の事が好きなのかと」
そこで美幸は、些か気分を害した様な表情で、まだ口元が緩んでいる城崎から視線を逸らした。
「別に良いじゃ無いですか。そんなに笑わなくても」
「すまん」
(本当に普段見られない位目元を緩ませて、そんなに爆笑しなくても……。うん、でも、そういう顔をしてると硬質な印象が随分和らいで、それはそれで結構……、って!? 人の人生がかかっている、結構深刻な話をしてた筈なのに、何考えてるのよ私!)
無意識に握った右手を開いてブンブンと上下に振り出した美幸を見て、城崎は怪訝な顔になった。
「……急に手を振って、何をやってるんだ?」
「え、いえ、ちょっと動かして、手のこわばりを取ろうかな~、なんて」
「そうか。だからまあ、そんな風に、取り敢えず藤宮も相手方の仕事に関しても、できるだけの手を打つから心配するな」
「ありがとうございます。浩一課長と課長代理にも、宜しくお伝え下さい」
「分かった。それで仕事に関する話はここまでで、これからは俺からの見舞いだ」
そう言って城崎は更に別な紙袋から包みを取り出し、美幸の膝の上に乗せた。
「何ですか?」
そしてガサガサと剥がした包装紙の中から出て来た物に、美幸は目を輝かせた。
「写真集ですか? 凄い! 綺麗!」
まずその表紙の澄み切った海の写真に声を上げ、勢い良くページを捲り始めた美幸に苦笑しながら、城崎が声をかける。
「世界各地の絶景写真集だ。こういうの好きだろう?」
「はい! 滅多に行けない所って、凄く憧れるじゃないですか。やっぱり自然が一番ですよね」 そうして美幸が上機嫌でページを捲っている間に、城崎は紙袋から新たな物を取り出した。
「それからこれもだが」
そして再度差し出されたそれを、美幸は取り敢えず写真集を横に置いて受け取り、包装を解いてみる。すると透明なプラスチックケースに入れられたセットを見た美幸は、思わず歓声を上げた。
「リードディフューザーですか? うわ、可愛い。お花まで付いてる!」
細いスティック状のリードの一端をディフューザーオイルの中に挿す事で、香りの成分を吸い上げて拡散させるそれを見て、美幸は笑顔になったが、ここで城崎が心配そうに尋ねてきた。
「一人で留守番が駄目だったのに、一人で入院なんて大丈夫か心配になったから、気分を落ち着かせる物でも有った方が良いかと思ったんだ。だが病室で火や電気を使って拡散させるタイプは駄目だろうと思ったし、これなら大丈夫かと。ところで、昨夜はここでちゃんと眠れたか?」
真顔でそんな質問をされて、夏の一騒動を思い出した美幸は、僅かに顔を赤くしながらムキになって言い返した。
「う……、そこに繋がるんですか。大丈夫です。ちゃんと眠れました!」
そんな態度にも城崎は怒るどころか、安堵した様に話を続けた。
「そうか。取り敢えずフレグランスオイルは、静穏作用のある百%天然オイルを三つ選んでみたが、希望があるなら言ってくれ。それからリードの本数を調節したり、角度を変えることで拡散量も若干調節できる筈だ」
「分かりました。今日から早速試してみます」
「そうしてくれれば嬉しい」
それから嬉しそうに幾つかの話をして帰って行った城崎だったが、美幸は一人になってから「さすが係長、こっちの好みのストライクど真ん中を突いてくるわ。いつの間に、どうやってリサーチを」と感嘆交じりの独り言を漏らした。その挙げ句、「やっぱり侮れない……。あの嬉しそうな笑顔は反則でしょ。負けないんだから!」と、何故だか変な方向に、対抗意識を燃やしてしまった。
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