「つい『愚痴っても良いですか?』なんて、あの時係長に言っちゃったけど……」
金曜の夜、夕食を食べて自室に籠もるなり、美幸はそんな事をブツブツと呟きながら両手にグローブを嵌めた。そして目の前のゴム製のパンチングボールを親の敵でも見るかの様な目つきで睨み付けながら、それに向かって勢い良く拳を繰り出す。
「そんなの、私のキャラじゃ無いわよ! くたばれ、馬鹿蜂谷ぁぁっ!! いっぺん死んで頭と根性直してから転生したら、こき使ってやらぁぁっ!! ふざけんな、この穀潰し野郎がぁぁっ!!」
ボールにそんな罵声を浴びせつつ、美幸は般若の形相で一心不乱に打ち込んだ。そして小一時間を過ぎた頃、さすがに息切れがしてきた美幸は、グローブをしたまま床にへたり込んで荒い息を吐いた。
「ス……、ストレス太りって、偶に聞く、けど……、私の、場合……、ダイエットに、なる、かも……」
そこで控え目なノックの音と共に、ドアを開けて美野が顔を覗かせた。
「美幸、落ち着いた?」
「美野姉さん? 落ち着いたって、何が?」
怪訝な顔で問い返した美幸だったが、美野が呆れ気味にその理由を説明する。
「八時過ぎ、美久君がトランプをしようって美幸を誘いに来たんだけど『美幸ちゃんが鬼の様な顔で殴ってる』って、涙目でリビングに戻って来たのよ」
窘める口調のそれに、美幸は思わず項垂れた。
「……すみません」
「謝る相手が違うし、二人とももう寝たから明日謝ってね?」
「そうするわ」
「じゃあ喉が渇いたでしょう? 美子姉さんがお茶を淹れてくれているから、リビングにいらっしゃい」
笑って促した姉に力無く頷いた美幸は、グローブを外して先に下りた美野の後を追った。
途中顔と手を洗ってから、表側の和風建築である来客時の居間や客間とは趣を異にする、プライベートスペースのリビングに足を向けると、重厚なソファーに美子と秀明、美野が揃って美幸を待ち構えていた。
「美幸、お疲れ様。落ち着いた?」
「何とか……」
美野の隣に座った美幸に、美子がお茶と菓子を出しながら笑いを堪える表情で尋ねると、美幸は疲れた様に頷いた。それを見た美子が不思議そうに尋ねてくる。
「でも美幸が、そんなにストレスを溜め込むなんて初めてね。受験や就活時期でも、そんな事は無かったでしょう?」
「確かにそうだけど……」
思わず憮然とした表情になった美幸を見て、今度は秀明が不機嫌そうに尋ねてきた。
「職場で相当面倒な仕事を押し付けられたのかい? 城崎の奴、許せんな」
秀明が顔を顰めながらそんな事を言い出した為、美幸は慌てて弁解した。
「お義兄さん、係長は悪くないの! これはひとえに馬鹿蜂谷のせいだから!」
「ふぅん? ちょっと詳しく話して貰えるかな?」
「えっと、ですね……」
物騒に目を光らせながら迫る義兄に、美幸は嫌な予感がしつつも鬱憤晴らしの意味合いも兼ねて、二課に蜂谷が配属されてからの事を洗いざらいぶちまけた。そしてその一部始終を聞き終えた三人は、その顔に心底呆れた表情を浮かべる。
「それはそれは……、城崎も気の毒に」
「まあ……、随分な困ったさんを押し付けられたのね」
「社内の噂で多少は耳にしていたけど、そこまで酷かったの?」
「法務部にまで、噂が伝わってたんだ……。それなら美野姉さん、何とかしてあいつを辞めさせてよ!」
美幸はがっくり項垂れたが、すぐに勢い良く頭を上げて盛大に訴えた。それに慌てて美野が反論する。
「無茶言わないで! 労働者の立場は、結構保証されているのよ。よほど会社に不利益な事をしでかすか、犯罪行為を犯すか位しないと、懲戒解雇も難しいんだから。最近では周囲に迷惑をかけない様に配置転換させても、『人権侵害だ』と訴えられるケースが多いし」
「そんな事言ったって! 明らかに採用について不正行為があるのに!」
「それはあくまでも社内の問題よ。それを告発しても、鍋島専務と人事部長が減棒10%何ヶ月位で終わりで、その蜂谷さんは二課勤務のままね。賭けても良いわ」
「くうぅぅっ、じゃあ泣き寝入り!? あいつが何か問題を起こしたら二課から出せるかもしれないけど、下手したら課長や部長の責任問題になるじゃない!」
憤懣やるかたない表情で叫んだ美幸を流石に不憫に思った美野は、難しい顔で考え込んだ。
「そうよね……。その蜂谷さんができそうな仕事は、企画推進部では無さそうなの?」
「どんな仕事だろうが、あのろくでなしにまともにできる仕事なんて無いわよ!」
「そうは言っても……。現実問題として、当面ニ課で使っていく必要があるのよ?」
「腹が立つぅっ、理不尽過ぎるわ!!」
腹を立てまくっている美幸を、ひたすら美野が宥める。そんな妹達を眺めながら、美子は困った顔で夫に意見を求めた。
「本当に、大変そうね。……秀明さん、何か良い考えは無い?」
それに対し秀明は、小さく笑ってから明るく答えた。
「皆、難しく考え過ぎだな。ある方向で行き詰まったら、別な方向から考えてみれば良いだけの話だ」
「え? どういう意味?」
そこで戸惑う妻に向かって、秀明は事も無げに告げた。
「『使えない社員をどう使うか』で悩んでいるなら、『使えない社員を使える社員にする』手段を考えれば良いだけの話だろう?」
「あら、言われてみればそうね。流石だわ、あなた」
「それほどでも無いさ」
微笑み合って納得している長姉夫婦とは裏腹に、それを聞いた妹二人は、秀明に懐疑的な視線を向けた。
「それは確かにそうでしょうが……」
「お義兄さん。それ、絶対に無理です」
すると秀明は美幸に視線を合わせ、確認を入れてくる。
「絶対?」
「はい」
「本当に?」
「勿論です」
「断言できる?」
「できますけど……」
しつこく聞かれているうちに自信が揺らいだ美幸だったが、ここで秀明が愛想が良過ぎる笑顔で、とある提案をしてきた。
「それなら美幸ちゃん。俺と賭けをしないか?」
「どんな賭けですか?」
「その使えない新人を1ヶ月……。いや、半月で使えるようにしてあげよう。その手段は俺に一任させて貰うが、それができたら俺の勝ち。そして美幸ちゃんの夏のボーナスを全額貰って、家族旅行に行かせて貰う」
「あら、素敵。是非そうして頂戴、美幸」
「……はい?」
それを聞いた美子は嬉々として両手を打ち合わせたが、賭けの内容に呆気に取られた美幸は絶句し、美野が比較的冷静に突っ込みを入れた。
「美子姉さん……。秀明義兄さんの収入は、私達のそれとは比べ物にならない位有りますよね? 別に美幸のボーナスをあてにしなくても、家族旅行なんて幾らでも」
「分かって無いわね、美野。勿論そうだけど、例え近場でも自腹を切らないで旅行できるのが、嬉しいんじゃない」
「……そうですか」
もはや何を言っても無駄だと美野が黙り込むと、面白がっているとしか思えない口調で、秀明が再度問いかけてきた。
「美幸ちゃん、どうした? その蜂谷はどうやっても絶対に使い物にならない、自信があるんだろう? もし半月以内に何ともならなかったら、俺の夏のボーナスを全額美幸ちゃんにあげるよ?」
「……分かりました。秀明義兄さんにお任せします。蜂谷を半月、好きにしてみて下さい」
「絶対、なんて言葉を軽々しく使わない方が良いと、身を持って学習できそうね、美幸」
強張った顔で了承の返事をした美幸に美子はコロコロと楽しそうに笑い、美野が美幸の袖を軽く引きつつ、小声で叱りつけた。
「美幸!」
「だって今更引っ込みつかないし。それにどうやったって、あれは無理だと思うもの。でも勿論、お義兄さんのボーナス全額を貰うつもりは無いわよ?」
「それは勿論、そうでしょうけど」
声を潜めて美幸達が言い合っていると、秀明が早速携帯をどこからともなく取り出した。
「よし、そうと決まれば善は急げだ」
そしてどこかの番号を選択して、前置き無しで相手と話し始める。
「もしもし? 俺だ。お前の嫁の所に、ろくでもない新人が配置されたのは知ってるか?」
「え? 嫁って、まさか……」
「義兄さんの電話の相手、柏木課長のご主人?」
秀明の話を耳にした美幸達は、瞬時に話をするのを止めて聞き耳を立てたが、すぐに顔色を変える事になった。
「知らない? そうか。お前が激怒するから、嫁も城崎も口を噤んでいたな」
「……ちょっとまずくない?」
「お義兄さん。まさか……」
「どんな? ……そうだなぁ、俺の義妹の話では、箸にも棒にもかからないコネ入社の穀潰しって以前に失礼千万な奴で。『腹ボテ女の下で働けるか』とか『あれじゃ色仕掛けは無理だろう』とか、『あんなのと結婚した奴は目が腐ってる』とか『旦那の職業は廃品回収業者だろう』とか、日々職場で悪口雑言の数々を」
「蜂谷も私も、課長の結婚相手の事は一言も言っていませんけど!?」
「有る事無い事言ってるわね……」
頭を抱えた美野の横で美幸が慌てて声を上げたが、秀明は素知らぬふりで会話を続け、美子は冷静にお茶を飲みながら美幸に笑顔で礼を述べた。
「秀明さん、楽しそう。最近職場で面白くない事が多かったみたいだから、良いストレス解消になりそうね。ありがとう美幸。秀明さんの気晴らしのネタを提供してくれた上に、夏のボーナスを全額くれるなんて」
「美子姉さんの中では、もう全額貰うのが決定事項なのね」
「…………」
美野が思わず溜め息を吐き、美幸が無言で顔を強ばらせている間も秀明の話は続き、一通り喋ってから電話の向こうに意見を求めた。
「……と言う事を、俺の可愛い義妹が訴えていてな。どうだ? 一つお前の感想を聞かせて貰いたいが」
すると何を言われたのか秀明は盛大に笑い出し、何とか笑いを抑えてから、最終的な用件を口にした。
「そうか。俺も可愛い義妹を煩わせる、そのゴミを何とかしたい。そこで物は相談だ。お前の婿入り先の屋敷は馬鹿でかいし、敷地も十分だろう。騒いでも支障のない場所を提供できないか? 家でやれない事も無いが、周囲が閑静な住宅街でな」
それに何やら応答があったらしく、黙って話を聞きながら秀明が何回か頷く。
「……ああ、それならうってつけだ。じゃあ皆に連絡を入れて、後から行く。家の人間に話をつけておけ。それじゃあな。……さてと、次は」
そして休む間もなく、秀明は次の番号を選択して電話をかけた。
「城崎、俺だ。当然誰か、分かるよな?」
ニヤリと笑いながらそう告げた秀明を見て、美幸は思わず腰を浮かせかけた。しかし秀明はそれには構わず、話を続ける。
「……これから出て来い。お前の所の蜂谷って野郎の住所で落ち合うから、そこを教えろ。……理由? 面通しに決まってる。まさか違う人間を捕獲する訳にいかないからな」
そして一方的に会話を終わらせた風情の秀明は、携帯をポケットにしまい込みつつ立ち上がった。
「じゃあ美子、ちょっと出てくる。朝まで帰らないかもしれないが、明日中には帰ると美樹と美久に言っておいてくれ」
「分かりました。行ってらっしゃい。夜だから気をつけてね」
「あの、お義兄さん。今からお出掛けですか?」
「係長と蜂谷の住所で待ち合わせって……」
呆然自失状態の義妹達の問いかけを無視しつつ、夫婦二人で爽やかに笑い合ってから秀明はその場を後にした。
そして彼は翌日の夕方に上機嫌で帰宅したが、その不気味な笑みを目にした美幸と美野は、どちらも留守にしていた間の詳細について、尋ねる事はできなかった。
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