「美幸、入るわよ?」
「あ、美子姉さん。美樹ちゃんも、美久君まで来てくれたの?」
姉の背後から姿を現した甥と姪に、美幸は自然に顔を綻ばせた。
「うん、連れてきて貰っちゃった」
「ケガ、だいじょうぶ?」
「大丈夫大丈夫。暫くは歩くのには苦労するけど、元気よ?」
「良かった~」
「しんぱいしたよ?」
「ごめんね~」
子ども達とそんなほのぼのした会話を交わしてから、美幸はベッドの横に視線を向けて身内を紹介した。
「瀬上さんと仲原さんは、美野姉さんの騒動の時に、会社に一緒に謝罪に来た美子姉さんは知ってますよね? あと姪と甥になります」
「どうも」
「お久しぶりです」
「こちらこそ、美幸がいつもお世話になっております」
三人が礼儀正しく挨拶を交わしている中、蜂谷だけは「……魔王様の奥方様」と呟きながら蒼白な顔で後ずさり、窓際の壁にへばり付いた。それをチラリと横目で見てからその横の棚の上に視線を向けた美子は、一瞬眉をしかめてから、美幸に向き直って薄笑いを見せる。
「……美幸?」
「何?」
「なんだか、随分面白いお見舞いを頂いているのね? どなたから?」
「え、えっと、それは~」
「…………」
途端にピシッと固まった蜂谷と、不気味な笑みを浮かべる美子を交互に見やって、美幸は咄嗟に口ごもった。すると美子は答えを待たずに、蜂谷に向き直ってにこやかに声をかける。
「そういえば……、そちらはどなたかしら? どう見ても美幸より年下だし、ひょっとして、話に聞いていた美幸の初めての後輩の……。ああ、そうそう、ポチさんと仰ったかしら?」
(私、蜂谷の事を、家でポチ呼ばわりした憶えは無いんだけど……。ひょっとして秀明義兄さんが?)
密かに悩んでしまった美幸だったが、そこで蜂谷が弾かれた様に一礼してまくし立てた。
「は、はいぃぃっ!! 私、お妹御の不肖の後輩の、ポチでございます! この度は奥方様のご尊顔を拝し奉り、誠に恐悦しどくにごじゃりましゅっ!」
「蜂谷、噛んでる」
「せめてハチって名乗れよ」
「そうね。一応名前が残ってるし」
呆れながら三人が呟いていると、美子が問題の鉢植えを指差しながら確認を入れてきた。
「なにやら、随分傍若無人な迂闊さんだと聞いていたけれど……、これはひょっとして、ポチさんが持参したのかしら?」
「そっ、それはっ」
「……したわよね?」
「は、はひっ……」
蒼白になりつつ弁解しようとした蜂谷だったが、美子ににっこりと微笑まれて、どもりながら首を軽く上下させる。
(美子姉さん、向こうを向いていて表情が分からないんだけど、背中が怖い……)
そんな緊迫した空気の中、美子が蜂谷に向かって一歩足を踏み出したと思ったら、一瞬の間に間合いを詰め、彼の胸倉を両手で掴んで引き寄せた。と同時にフレアースカートが乱れるのも構わず、勢い良く膝蹴りを繰り出したが、彼の下腹部にめり込む寸前でその動きを止め、低い声で恫喝する。
「ざけんなよ? この穀潰し野郎。文字通り潰されたいのか?」
「ひっ……」
前かがみになった状態で、蜂谷がくぐもった悲鳴を上げたが、次の瞬間、美子は何事も無かったかの様に手を離して足をおろし、「ふふっ」と優雅に微笑みながら美幸達の方に向き直った。
「なぁんてね。私なんかがこんなセリフを口にしても、本気にする人なんかいないわよね?」
「……美子姉さん」
「何?」
「本気にして、腰抜かしてるから」
美幸のその指摘に、美子が何気なく背後を振り返ると、蜂谷は壁にもたれたままずるずると床に腰を下ろし、怯えきった小動物の様に、プルプルと全身を震わせていた。それを眺めた美子が、困ったように小さく笑う。
「あらまあ。随分繊細な方なのね?」
「たっだいま~!」
「あら、あなた達、どこに行ってたの? それに、それはどうしたの?」
いつの間にか病室を抜け出し、手荷物を持って帰って来た子供達に、美子は勿論、他の者達も困惑した顔を向けた。しかしそんな大人達には構わず、二人は早速作業を始める。
「そこのナースステーションに行って、『人一人の人生がかかっているんです』ってお願いして、借りて来たの。美久、手伝ってね?」
「うん、できるだけながくきるんだよね?」
「そうよ」
そして美樹が腰の高さの棚から鉢植えを下ろすと、美久は先端が曲がっている包帯切断用ハサミを器用に操り、胡蝶蘭の茎を次々枝から切り離し始めた。一方で美樹は洗面器に水を張ると、その縁から縁へと紙テープを、約一センチ幅の格子状になる様に貼り渡し始める。そして切った胡蝶蘭を紙テープで作った四角の空間にゆっくりと一本ずつ差し込んでいくと、忽ち銀色の洗面器に盛り上がって浮かぶ、胡蝶蘭のアレンジメントが完成した。
「さぁて、これなら鉢植えじゃなくても、花は楽しめるわよね?」
「うん、きれいだねぇ」
ニコニコと満足げな笑みを浮かべつつ、子供二人が自分を見上げてきた為、美子は小さく溜め息を吐いて頷いた。
「……見なかった事にしましょう」
「よかったね、おにいちゃん。おとうさんにはナイショにしてくれるって」
「間抜け過ぎるわよ。それでも本当に社会人なの?」
二人が対照的な表情で蜂谷の前に仁王立ちになると、彼は弾かれた様に膝を付き、歓喜の涙を流しながら勢い良く頭を下げた。
「おっ、お嬢様! お坊ちゃま! ありがとうございます! このご恩は一生忘れません!」
「じゃあちょっと馬になって」
「これくわえてね?」
「畏まりました! 犬でも馬でも、お望み通りに!」
「え? あ、あの、美樹ちゃん? 美久君?」
サラッととんでもない事を口にした美樹の隣で、どこから調達したのか美久が細い紐で作った輪を取り出す。そして美幸達が呆然としている間に蜂谷は四つん這いになり、美久が差し出した輪を咥えると、その背中に子供二人が跨いで座った。
「じゃあ、ちょっとこのフロアを一回りしてくるから」
「いってきま~す」
「職員の皆さんのお仕事の邪魔はしないのよ?」
「は~い」
そんな三人を平然と見送った美子に、(言う事が違うんじゃ……)と他の三人は思ったが、口には出さなかった。しかし今の出来事を目の当たりにした瀬上と理彩は一気に精神的に疲れたのか、そそくさと荷物を纏めて立ち上がる。
「え、ええと、藤宮。私達、帰るわ」
「お大事に。また来るから」
「……ありがとうございました」
互いに微妙な表情で別れの挨拶をしてから、美幸は一応姉に声をかけた。
「美子姉さん……」
「馬になる位、どうって事無いでしょう? 秀明さんに知られる位なら」
「そうですか」
引換条件なら頑張るしかないわねと、美幸が諦めて遠い目をしていると、ノックの音と共に今度は城崎が顔を見せた。
「藤宮、気分はどう」
「あら、こんにちは。城崎さん」
「……ご無沙汰しております」
美子の姿を見た途端、盛大に顔を引き攣らせながら頭を下げてきた城崎に、美子がにこやかに声をかけた。
「まあ、そんなに畏まらないで? 主人から聞きましたけど、今度美幸と付き合う事になったそうね」
「はい」
「主人が城崎さんの事を『物の道理を弁えた“紳士”』だと評しておりましたから、私としても安心ですわ。美幸の事を、今後とも宜しくお願いします」
「……こちらこそ、宜しくお願いします」
(美子姉さん。今『紳士』の所が微妙なアクセントだったような……)
美子は相変わらずにこにこと、城崎も硬い表情のまま世間話に突入していると、どうやらフロアを一周したらしい三人が戻って来た。
「係長? いらしてたんですか?」
「蜂谷……、お前、何をやっているんだ?」
「うわぁ、おっきくてこわいねぇ?」
「美久、失礼よ? 美幸ちゃん曰わく、『顔は怖いけど、仕事ができて頼りになる係長さん』なんだから」
「ええと、美樹ちゃん? そんなに顔が怖いってわけじゃ無いから」
「すみません、子供達が失礼な事を」
「……いえ、お気になさらず」
その後、美子が荷物を片付け終えると、妙に子供達に気に入られてしまった蜂谷を引き連れて、美子達は帰って行った。そして二人きりになってから、城崎がぼそりと呟く。
「俺が藤宮家でどんな風に話題になっているのか、大体の所は分かったな……」
そんな事を言われてしまった為、美幸は冷や汗を流して頭を下げた。
「係長、本当にすみません!」
「いや、本当に気にするな。怪我人なんだし、勢い良く身体を動かすとまだ痛むんじゃ無いのか?」
「はぁ……」
実はちょっと今痛くなった、なんて言おうものなら盛大に心配されそうな気がして、美幸は笑顔を取り繕った。
「まあ、入院中は大人しくしてろと言っても、一向に聞かないだろうが」
「なんですか。その断言っぷり」
ちょっと拗ねつつ言い返すと、その表情が面白かったのか、城崎は笑いを堪えながら持参した紙袋の中身を、ベッドサイドのテーブルの上に乗せた。
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