「どこからどう話せば良いかしら? そうね……、まず就職先を柏木産業にするかどうか、大学時代に随分悩んだの。親が社長を務めている所に入社したら、色眼鏡で見られる事は分かりきっていたし」
「それならどうして入ったんです?」
「実は今まで誰にも言った事は無かったんだけど、祖父の影響なのよ」
「会長の影響ですか?」
ちょっと予想外の展開に高須が戸惑った声を出すと、真澄が小さく笑って続けた。
「ええ。幼稚園の頃だったかしら? 『お父様やお祖父様はどういうお仕事をしているの?』って尋ねた事があるの。総合商社って位置付けが分からなかったのね」
「まあ、それはそうでしょうね」
「その時、お祖父様から『物を売り買する卑しい仕事だ』と言われて、子供心に驚いたわ」
「はぁ? なんですか? それは」
完全に面食らった風情の高須に、真澄は淡々とやり取りの説明をした。
「お祖父様曰わく、『自分では何も産み出さず、物をやり取りするだけで金を稼ぐだけならな。だから柏木は呉服商の頃から、生糸の生産や染織技術の革新に資金をつぎ込み、付加価値を高めて売り手買い手双方に喜んで貰える様な商売をしてきた。勿論周りの困っている人達に、折々に施しもしてきたぞ? その精神は今も変わらん。儂は物を売り買いするならば同時に人々に幸福を運ぶ、そういう心構えで働いているから、卑しい商売かもしれんが自分に恥じる所は一切無い』だそうよ。その後『真澄にはまだ難しかったかの?』と付け加えられたけど」
そこで話を区切った真澄に、高須は呆気にとられた表情で声をかけた。
「……はぁ。課長はそれを聞いてどう思ったんですか?」
「『お祖父様は皆にキラキラの笑顔を運ぶお仕事をしてるのね!?』って感動したわ」
「キラキラっ……」
「笑って構わないわよ?」
思わず口走ってから片手で口元を押さえた高須を見て、真澄が幾分拗ねた口調で応じる。しかし高須は何とか笑い出すのを堪えながら感想を述べた。
「いえ、きっと会長に向かってそう言ったんですよね。孫娘にキラキラの笑顔でそんな事を言われて、あの会長がデレデレに笑み崩れた所が想像できました」
一度だけ入社式で見た、壇上の厳めしい顔つきの老人を思い出しつつ高須が想像力をフル稼働させていると、真澄が小さく肩を竦めて話を続けた。
「それがあったから、『将来柏木に入ってお父様やお祖父様を助けてあげるんだ』って思ってたの。尤も私が中学以上になったら『浩一と違ってお前は女なんだから、勉強なんかしないで花嫁修行でもしてろ』って五月蠅かったし。ハナから私が仕事をする事自体反対だったしね」
「それはちょっと酷いですね。明らかな男女差別じゃないですか」
些か棘のある口調で高須が評したが、真澄はそれには触れずに話し続けた。
「それで……、そんな反対をされていた分、入社してからは頑張ったのよ。女で、しかも経営者の身内なんて、周囲と同程度働けたって認めて貰えないと思ってたから、他人の三倍働く気構えで頑張ってたわ」
(ああ、母さんも似たような事を言ってたな……。『そんなに無理して働かなくても良いだろ?』って言った時、『女が外で働こうと思ったら、男の三倍働く位の気持ちでいなくちゃ駄目なのよ』って)
何となく目の前の上司に共感を覚えながら高須が黙って話を聞いていると、唐突に話題が変わった。
「そんな風に脇目も振らずに頑張ってたんだけど、最近、某重役から内密に相談を受けてね」
「何ですか?」
「要は『こういう不祥事を起こした社員が居て、処分として閑職に回されているんだが、有能な社員でこのまま腐らせるのは惜しいんだ。柏木産業の業績向上の為に、君から社長や会長に彼らの職場復帰をお願いして貰えないだろうか』という話だったの」
「それは村上さん達の事ですよね? それで、社長達にお願いしたんですか?」
「しないわよ、そんな事」
「は?」
てっきりそうかと思い込んだ高須は思わず目を丸くしたが、真澄は平然と正論を繰り出した。
「その場での即答を避けて、その時渡された名簿を元に事実関係と詳細を調べたけど、明らかに犯罪行為、職場の倫理規定に逸脱する行為があった事は事実で、それは誤魔化しようが無いもの。閑職に回されたのは当然の処置なんだから、そのトップの処置を覆して職場復帰なんてさせたら、不正が横行するのが目に見えているでしょう?」
「ごもっともです」
「その重役はね、本気で名簿に上がった人間の職場復帰を狙ってたわけじゃ無いのよ」
「どういう事です?」
話の流れに付いていけずに本気で首を傾げた高須に、真澄は説明を加えた。
「第一に、話を真に受けて進言した私と、父や祖父との間に隙間風を吹かせたかっただけよ。万が一復帰させる事態になっても、社内の不満を私のわがままから規律を曲げたと攻撃する材料にするつもりだったんでしょう。そんな見え透いた策に、誰が嵌るかってのよ。低脳じじぃが」
「ちょ……、何ですかそれはっ! その重役って誰ですか!?」
最後は吐き捨てる様に告げられた内容に、高須は思わず声を張り上げた。それを真澄が軽く手を振って宥める。
「今名前を言わなくても、そのうち分かるわ。食事時に不愉快な名前を口にしたくないの」
そんな風に言われたら蒸し返す事も出来ず、高須は黙り込んだ。それを受けて真澄が再び淡々と話し出す。
「だけど調べてみたら、確かに埋もれさせておくには惜しい人材なのよ。それで考えたの。社長令嬢なんて堅苦しい肩書きを背負いながら、今まで何の為に頑張ってきたのかって」
聞かなくても何となく分かったものの、高須は一応尋ねてみた。
「それで、課長はどういう結論を出したんですか?」
「私、自分が思っていたより、柏木産業が好きだったみたい。少しでも業績を上げて、従業員やその家族をより幸せにしたいと思ったわ。その為には率先して泥を被っても良いって腹を括ったの」
「だから、能力があっても問題を起こした社員ばかりを引っ張ったんですか?」
「ええ。処分前の職場にそのまま復帰させたら、さすがに周囲に波風も立つでしょうけど、社長令嬢の気まぐれで引っ張られた挙げ句、畑違いの職場でお守りをさせられる羽目になるなら妥当でしょう? 勿論直接面接をして、本当に見込みがありそうな人だけを厳選したし。もし問題が生じたら、我が儘を言った私が責任を取って辞めれば良いだけの話よ。現に重役連中の半分はそう思ってるのよ?」
にこやかにそんな事を言いきられて、高須は殆ど反射的に問いかけた。
「課長はそれで本当に良いんですか?」
それに真澄は楽しそうに笑ってから付け加える。
「だってこんな力業、社長令嬢の私位しか出来ないわよ。この春編成したばかりだから上半期の決算では流石に無理でしょうけど、下半期では売上高トップの座を取って、ぬるま湯にどっぷり浸かった重役連中に冷や水を浴びせてやるわ。それだけの面子は揃えたんだもの。それが出来ないのはひとえに私の力量不足よ」
(そうか……、課長は愛社精神がきっと誰よりも強い人なんだ。それに人の本質ってのも見誤らない人で……。だからあの人達と一蓮托生でも、絶対後悔しないんだろうな)
そこでストンと自分の中で納得した高須は、晴れやかな笑顔で真澄に向かって宣言した。
「良く分かりました。入ったばっかりの俺なんかじゃ、まだ全然戦力にならないと思いますけど、少しでも課長の手助けができる様に頑張ります!」
「ありがとう。二課はそんな事情で配属希望の社員が居なくてね。高須さんにはこれからも色々苦労させてしまうと思うけど宜しくね?」
「はい、こちらこそ!」
(うん、俺、尊敬できる上司を持てて良かったかも。確かに苦労は多そうだけど、やりがいは有るよな? 絶対課長を敵視してる重役連中とやらに、一泡吹かせてやる!)
そう決意した高須は、それからは真澄と和やかに会話をしながら、食べ続けたのだった。
そして食べ終わった二人は店を出て、真澄が呼んだ迎えの車を道路沿いで待っていた。
「美味しかったわ、また来たいわね」
「あ、じゃあいつでもお付き合いしますよ? 声をかけて下さい」
「本当に? じゃあ偶に付き合って貰おうかしら?」
「はい、是非!」
互いに満面の笑みで会話していた所で、目の前に高級車が滑り込んできて大した音もなく停まった。それを見て真澄が高須に声をかける。
「じゃあ車が来たから、ここで失礼するわね」
「はい、今日はありがとうございました。あの、課長!」
「何? どうしたの?」
いきなり空いている手を取られた真澄が怪訝な声で高須に問いかけると、高須は真澄の左手を両手で包み込むようにしながら、力強く宣言した。
「これから色々大変でしょうが、負けないで頑張りましょう! 俺、どんな事があっても課長に一生ついて行きますから!」
「ええ、ありがとう。頼りにしてるわ。それじゃあね」
「はい、お疲れ様でした」
笑顔で応じた真澄の手を離し、高須は軽く頭を下げてから真澄を乗せて走り去る車を見送った。
(しかし車で送迎か……。やっぱりお嬢様なんだよな、課長。でも仕事に対する意識も力量も卓越してるし、そのギャップがなんとも……)
そんな事をぼんやりと考えていた時、体の側面に唐突に衝撃を受ける。
「っ、てぇ!?」
歩道に転がって、高須は誰かに追突されたのが分かった。するとその相手らしい男が、体を屈めて片手を差し伸べてくる。
「失礼、こちらの不注意でぶつかってしまって申し訳ありません」
「……いえ、こちらこそ、ぼんやりしていまして」
その手に掴まって立ち上がると、相手が感情を感じさせない声で問いかけてきた。
「お怪我はありませんか?」
「いえ、大丈夫だと思います」
「そうですか。それでは失礼します」
自分とそう身長が変わらない男の、何となく不気味な雰囲気に文句を言う気も失せ、黙ってみおくってから高須は小さく悪態を吐いた。
「何なんだ? 夜にサングラスってありえないだろ? 全面的にそっちのせいだろうが」
そして(せっかく気分が良かったのに台無しだ)などと思いながらも、自宅に戻るために最寄りの地下鉄構内に入り、定期を取り出そうとして異常が発生した。
「さて定期はっと。あれ? 何か入っ……」
常とは異なる感触に首を捻りつつ、手に触れた物を指先で摘まんでポケットから取り出してみた途端、高須はそれを放り出しながら悲鳴を上げた。
「うっぎゃあぁぁぁっ!! ク、クモっ!?」
その悲鳴に周囲の人間もギョッとした目を向けたが、床に落ちた身動きしない黒い大グモをまじまじと眺めた高須は、呆然とそれを見下ろした。
「……じゃなくて、オモチャ? 凄いリアルだな……、だけど何でこんな物がポケットに?」
そんな不可解な事があった翌朝、高須は職場で険しい顔つきの城崎に出迎えられた。
「おはようござい」
「高須! 大丈夫だったか!?」
「係長? 朝からいきなり何ですか?」
自分の顔を見るなり自分の席からすっ飛んできた城崎に、高須は若干引きながら問いかけた。すると僅かに後ろめたそうに、城崎がとんでもない事を言い出す。
「その……、昨日帰り道で、車道に突き飛ばされたり、工事現場の足場から鉄骨が落ちてきたり、マンホールの蓋が開いてた所に落ちたりとかしなかったか?」
「係長……、そんな事があったら、多分俺、今ここに居ません」
呆れながら高須が常識的な事を口にしたが、城崎はまだ疑わしそうに問いを重ねる。
「それはそうだが……、何か変わった事は無かったか?」
「変わった事?」
重ねて問いかけられた高須は首を捻り、取り敢えず思い当った事を口にした。
「そう言えば……、何故かジャケットのポケットに、凄くリアルな大蜘蛛のゴム製のオモチャがいつの間にか紛れ込んでいて、取り出した瞬間悲鳴を上げましたね。それ位でしょうか?」
「そうか、それなら良かった。変な事を言ってすまん」
「いえ、構いません」
そうは言ったものの、高須は内心(係長も色々苦労が多くて、ちょっと錯乱気味なのかもしれないな)と密かに同情したのだった。
※※※
そんな新人時代もあっという間に過ぎ去り、入社四年目の現在、高須は当時の事を懐かしく思い返していた。
「……取り敢えずこちらの契約書の見直しを今日中に。加えて佐合金属との打ち合わせを来週中に設定して下さい。あとはクレージュ・レインのイベント企画案は本決まりです。細かいスケジュールを設定して下さい」
(課長の下で働き始めた頃、課長の事を仕事の鬼だって思った事があったが……)
目の前の課長席に座っている男性を眺めながら考え事をしていた高須に、鋭い声がかけられる。
「高須さん? 私の話を聞いていましたか?」
「は、はいっ!」
「それでは通しで一字一句漏らさず復唱を」
「…………っ」
淡々と命令されて、高須は思わず顔を引き攣らせた。
(この人は……、何でこう人をいたぶる様な真似を……。第一俺は課長の部下で、こいつの部下じゃ)
「『第一俺は課長の部下で、こいつの部下じゃねえ!』とでも言いたそうな顔だな」
(あんたエスパーかよ!?)
思っていた事を言葉にされて高須は完全に絶句したが、対する現在仮の上司たる男は、先程までのすました表情と丁寧な口調をかなぐり捨て、底光りする眼で高須を見上げつつ低く恫喝してきた。
「思った事が顔にでる様ではまだまだだな。真澄が復帰するまでに、まともに使い物になる様に、鍛え直してやるぞ。『どんな事があっても課長に一生ついて行く』んだろう?」
(は? それ、課長から聞いたのか?)
確かに口にした覚えのある台詞に高須が戸惑っていると、相手はふんと小さく笑ってから手で追い払う素振りをした。
「とっとと席に戻って仕事しろ。生憎俺は真澄程甘くない。真澄の復帰までにそれなりのレベルに到達できなかったら、ここから叩き出してやるからそう思え」
(鬼の旦那は、他人を手のひらの上で転がす、悪魔だったって事か……。こう言ってはなんですが、もの凄くお似合いです)
がっくりと項垂れながら自分の席に戻った高須は、悪魔の配偶者たる鬼課長の、一日も早い復帰を心の底から願ったのだった。
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