猪娘の躍動人生

篠原皐月
篠原皐月

1月(2)驚愕の事実

公開日時: 2021年9月10日(金) 13:31
文字数:3,871

 その後も美幸は城崎から聞いた内容について固く口を閉ざして漏らさず、何事も無く十日程が経過して、彼女が担当している入札当日になった。


「それでは、これから入札に参加してきます」

 午後になって持参する封筒が鞄に入っているのを確認した美幸は、席を立って課長席に向かい、清人に向かって挨拶した。すると彼は見ていた書類から視線を外し、美幸に向かって微笑する。


「はい、ご苦労様です。成果を期待しています」

「お任せ下さい! 皆さんに教えて貰いながら、練り上げたプランですので。絶対取って来ますから!」

 そう言って胸を叩く動作をして見せた美幸に、清人が笑みを深めた。


「それは頼もしいですね」

「藤宮。それは」

「城崎係長?」

「…………」

 何故か急に自分の席から口を挟んできた城崎を、清人が薄笑いで制する。それを受けて不自然に黙り込んだ城崎と清人の間に、何とも言えない緊張感が漂った。


(何? 何か微妙な空気なんだけど)

 何となく奇妙に感じたものの、周囲が何も口にしない為、美幸は気を取り直して挨拶をした。

「それでは行って来ます」

 そこで軽く一礼して出発した美幸は、すぐに先程の事は忘れ去り、出向いた先での事に意識を集中した。


 その入札会場には区役所内の会議室の一室が用意されており、開始時間前に余裕を持って到着した美幸だったが、さすがに一人で任された初めての仕事である事と、周囲から浮いている状況に、さすがに若干緊張した。


(やっぱり緊張するわね。他社の担当者は、皆年上のおじさんばかりだし。担当者が若いからって、偏見を持たれないでしょうね?)

 そんな事を心配しながら、一応遠慮して部屋の後方の席に座っていると、時間きっかりに担当者らしい職員が入室して来て、入札の開始を告げた。


「皆様、お待たせしました。それでは入札事案、E-25号の入札受付を開始致します。それでは申し込み順に各社の名前をお呼びしますので、こちらに提出をお願いします。まず株式会社新栄さん」

 そして呼ばれた社の担当者が無言で立ち上がり、前方に出て担当者に書類を手渡す。そんな風に淡々と四社分が進み、次に美幸の番になった。


「次に柏木産業さん」

「はい」

 そして緊張しつつも慌てずに立ち上がった美幸は、封筒を抱えて担当職員の所に向かった。


「宜しくお願いします」

「……はぁ、どうも」

 笑顔で分厚い封筒を差し出したものの、何故か担当者は虚を衝かれた表情になって、気の抜けた返事をしてきた。それを見た美幸は、僅かに眉根を寄せる。


(なんだろう? 何だか妙に、覇気の無い人ね)

 怪訝に思ったものの、ここで変な事を言って心証を悪くしたくは無かった美幸は、黙って席に戻った。

 そして参加予定全社からの提出が終わり、担当者が入札の終了を宣言してから、結果報告の日程について簡単に述べて、解散となった。


(さあて、無事終了。後は結果待ちか。楽しみだわ)

 美幸は手早く荷物を纏め、鼻歌でも歌い出しそうな位上機嫌で鞄片手に会議室を出て歩き出したが、すぐに背後から声をかけられた。


「ちょっと、柏木産業さん」

「はい、何でしょうか?」

(この人……、確か、各務商事の担当者よね。何の用かしら?)

 先程会議室で見かけた五十代に見えるその男は、自分から名乗りもせず、いきなり言い出した。


「あんた、書類の提出を頼まれた事務員か?」

(何なの? この失礼な人、名乗りもしないで。だけど仕事なんだから我慢我慢)

 その横柄な態度に正直ムッとしたものの、美幸は苛立ちを抑えて愛想笑いをしつつ、名刺入れから自分の名刺を取り出す。


「いえ、今回の入札事業の計画や資料の作成を担当しました、企画推進部二課所属の藤宮美幸と申します。お見知り置き下さい」

 そう言いながら相手に向かって名刺を差し出した美幸だったが、男はそれを受け取るどころか、変な物を見る様な目つきになって美幸を眺めた。


「あんたが作った?」

「はい。他の社の方には申し訳ありませんが、受注には自信があります」

「はぁ? あんた、あの仕事を本気で取る気か?」

「当たり前です。仕事ですから」

(この人、何言ってんの? 頭おかしいわけ?)

 美幸としては控え目ながらも、当然の主張をしたつもりだったのだが、何がおかしいのかその男は、いきなり腹を抱えて「ぶははははっ!!」と爆笑し始めた。

 それを見た美幸は当初呆気に取られたが、すぐに不愉快な表情を隠さずに問いかける。


「失礼ですね。何がそんなにおかしいんですか?」

 すると相手は何とか笑うのを止めて、皮肉っぽく言い出した。

「柏木産業ってのは、酷い所だな。何も知らないお嬢ちゃんに、散々無駄骨折らせるとは」

「はぁ?」

 全く意味が分からず、当惑する美幸に、彼は今度は哀れんだ視線を向ける。


「本当に聞いてないんだな。今回のこれは、最初からうちが仕切る事になってんだよ。あんたがどんな資料を作ったか知らないが、事前に各社で申し合わせた金額になってる筈だぜ? 当然うちが最安値だ」

「何ですって!? そんな筈は……」

 思わず血相を変えて噛み付こうとした美幸だったが、ふとその日の午前中の、清人とのやり取りを思い出した。


(待って。そういえば最終確認って言われて、昼前に課長代理に入札書類をチェックして貰って、その場で封をしてた……)

 顔色を変えて黙り込んだ美幸を見て、その男は何を思ったのか、嘲る様に言い出した。


「上司に騙されて、そんな出来レースに余計な手間暇かけるなんて、阿呆のする事だろ。しかも臆面もなく『受注には自信がある』とか言い放って、間抜けも良いとこだよな?」

「…………」

 押し黙り、手に持ったままだった自分の名刺を美幸が無意識に握り潰した時、横から咎める口調で声がかけられた。


「各務商事さん、その位で。仮にも年長者として、そういう態度はどうかと思いますが。各務商事さんの評判にも係わってきますよ?」

 その声に美幸が顔を上げると、今回入札に参加した人間が何人か周囲に立っており、揃って目の前の男に非難がましい視線を送っていた。それに気付いた男が、舌打ちして悪態を吐く。


「はっ! こっちは気の毒なお嬢さんに、物の道理って奴を教えてあげたつもりなんだがね。失礼するよ」

 そんな捨て台詞を残してその男が去ると、周りの者達も散っていき、その場には美幸と、先程声をかけてきた男だけが残された。その白髪混じりの男は、名刺を差し出しながら穏やかに声をかけてくる。


「今回は災難だったね。だが、あまり気を落とさないで。私はこういう者だが、君は柏木産業に入って何年目だい?」

「二年目です」

 反射的に名刺を受取りながら答えると、その男は軽く顔を顰めた。


「二年目か……。彼女の時もどうかと思ったが、入って間もない社員に説明も無しにやらせるとは、何を考えているんだ」

 何やら彼がぶつぶつと呟いていたが、それは耳に入っていなかった美幸が、低い声で確認を入れた。


「これって……、要するに談合、ですよね?」

 その問いに、男は誤魔化す事無く答える。

「はっきり言えばそうだね」

「こんな事して、良いと思ってるんですか!?」

「だが現に、そういう仕事を処理する為の部署や人員が、どこの会社にも居るものだよ」

 その冷め切った口調から、美幸はある事を推察した。


「……あなたも、そうなんですか?」

 それに余計な事は言わず、苦笑いだけが返ってくる。

「君は今回、偶々任せられただけだろう? これから他の事で頑張りなさい」

「…………」

 そんな事を言われて何とも言えずに黙り込んでいると、彼がふと思い出した様に問いを発した。


「そうだ。柏木産業なら、柏木真澄という女性の事を知っているかな? 営業部勤務の筈なんだが」

 その予想外の問い掛けに、美幸は完全に怒りを忘れて答えた。

「それはうちの、企画推進部二課課長の事ですよね?」

 美幸が困惑しながらそう告げると、相手は美幸以上に驚いた表情を見せる。


「彼女、課長になったのかい?」

「はい、営業部から企画推進部に六年前に異動して、四年前に課長に就任されました。今は産休に引き続いて、育休の取得中ですが」

 美幸がそう告げると、彼は感慨深そうに何度も頷いた。


「そうか……、彼女、課長に昇進して、結婚もしてるのか。いや、本当に良かった。大したものだ」

 どうやら本心から真澄の事を喜んでくれているらしいと感じた美幸は、完全に毒気を抜かれて、尋ねてみた。


「あの……、あなたは課長のお知り合いなんですか?」

 しかし彼は少々照れくさそうに笑って、詳細については語らなかった。

「大した知り合いじゃないんだが、以前仕事で何度か顔を合わせた時、立ち話をした事があってね。何かの折りに課長さんに私の名前と、課長就任のお祝いを伝えて貰えるかな? これからの活躍を期待しているとも」

「はい、分かりました。お伝えします」

 受け取った名刺をしっかり上着のポケットに入れると、相手は穏やかな笑みを浮かべて別れの言葉を口にした。


「それじゃあ、あまり気を落とさないで。頑張って」

「はい。ありがとうございました」

 善意から言ってくれたのは分かっていた美幸は、素直に彼に頭を下げて立ち去って行くのを見送った。そして自身も帰社する為歩き出したが、一歩歩く毎に清人に対する怒りがこみ上げて来る。


(漸く分かった……。この仕事に関して、皆が何か言いたそうにしていたわけ。絶対あの腹黒野郎が、裏で口止めしてたって事よね?)

 そして区役所を出たところで、我慢できずに盛大に吐き捨てた。


「あの最低最悪のど腐れ野郎! 今度という今度は、我慢できないわ!」

 そう怒鳴った美幸は、驚いた周囲の通行人の視線を浴びながら、憤怒の形相で会社に戻って行った。


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