その翌朝、始業時間間際になって、何故か企画推進部の部屋に紙袋を提げた美野が姿を現した。
「おはようございます」
「え? 姉さん、どうしたの?」
「おはようございます。美野さん、朝からどうかしましたか?」
怪訝な顔で美幸や城崎が声をかけると、美野は清々しい笑顔で紙袋から小さな箱を取り出し、声をかけながら手早く相手の机の上にそれを乗せて歩いた。
「はい、皆さんにチョコを差し上げたくて、持参しました。どうぞお受け取り下さい、城崎さん、瀬上さん、高須さん」
「え?」
「あの……」
「これはどういう……」
男達が戸惑った視線を向けたが、美野は悪びれない笑顔のまま説明した。
「はい。以前私が纏わり付いてご迷惑おかけした上、年の近い皆さんには、特に美幸がお世話になっていると思いましたので。仲原さんも、宜しかったら召し上がって下さい」
「……どうも」
続けて受け取った理彩が微妙な表情で礼を述べると、そこまで傍観していた美幸が盛大に噛み付いた。
「ちょっと姉さん! 義理チョコは法務部の皆さんに配るんじゃ無かったの? 昨日どれだけ買ったのよ」
「買ったのは法務部の皆さんの分だけよ? これは手作りだもの。だって『義理チョコ』じゃなくて『感謝チョコ』だし。お父さんやお義兄さん達に渡すのと同じ、感謝の気持ちを込めて作るのが道理でしょう?」
「あのね……」
キョトンとして見返してくる姉に、美幸はプルプルと握り拳を震わせて呻いた。そんな美幸の心情を逆撫でする如く、美野がスタスタと課長席に歩み寄り、真澄に向かって一礼してから同様の箱を差し出す。
「そう言う訳ですので、柏木課長も宜しかったらお受け取り下さい。就職の際には口を利いて頂いてありがとうございました。柏木課長の顔を潰さない様に、精一杯これからも務めますので」
「……それはどうも、ご丁寧にありがとうございます」
ここで露骨に拒否する事もできずに真澄が受け取ると、美幸が先程以上に吠えた。
「あぁぁぁっ!! ちょっと姉さん! 何抜け駆けして課長にチョコを渡してるのよっ!?」
「別に抜け駆けしたわけじゃ無いわよ? これは義理チョコじゃないし」
「そんな理屈が通ると、本気で思ってるわけ? 私が涙を飲んで、課長に義理チョコを渡すのを諦めたって言うのにぃぃっ!!」
「ちょっと待て! 落ち着け、藤宮」
「さ、さぁ、美野さん、そろそろ法務部に戻らないと。もうすぐ始業時間ですし」
まさに美幸が美野に掴みかかる一歩手前の状態で城崎と高須が駆け寄って二人を引き剥がし、高須が美野を法務部に送り届け、城崎は始業時間までの僅かな時間で美幸を落ち着かせる為に多大な苦労をする羽目になった。
その日一日、不機嫌なまま過ごした美幸は、しなくても良い残業をして職場に残っていた。そして作成した書類を纏めて城崎に提出すると、ざっと目を通した城崎がそれを机に置き、立ち上がりながら有無を言わさぬ口調で美幸に告げた。
「取り敢えず、今日はもう良いだろう。帰るぞ」
「いえ、もう少し」
「急ぎの仕事は無いし、集中出来ない状態で残業しても効率が悪い」
「集中してますが」
「そういう台詞は変換ミス三カ所、書類の揃え間違い、単位の取り違えが皆無な仕事をしてから口にしろ」
「……申し訳ありません」
提出したばかりの書類の内容を淡々と指摘された美幸は、面目なさげに俯いた。それに苦笑した城崎は他の課で残業中の人間に軽く挨拶し、美幸を伴って部屋を出る。そして廊下を進みながら、一歩後ろを歩く美幸に声をかけた。
「少し遅くなったし、夕飯でも食べて行くかと言いたい所だが……、今日はこのまま帰った方が良いだろうな」
「どうしてですか。食べていっても全然支障ありませんけど」
「ありまくりだろう。家に帰りたくないから残業するなんて、もっての外だ」
「…………」
鋭く指摘されて黙り込んだ美幸に、城崎は溜め息を吐いてから困った様に言い聞かせた。
「美野さんだって悪気は無かっただろうし、帰りに呼びに来た時にすげなく追い返されて、気落ちして帰っただろう? 謝りたくて妹の帰りを待っているだろうから、今日は早く帰った方が良いな」
「……係長、意地悪です。私より姉さんの気持ち優先ですか?」
幾分拗ねた様に美幸が応じたが、城崎は苦笑しながら言葉を重ねる。
「藤宮の方もちょっと冷たくし過ぎたかと、密かに反省している様に思えるんだが? こういうのは早ければ早いほど、しこりは残さないものだと思うがな。明日以降、気持ち良く過ごしたくないか?」
(確かに腹は立ったけど、これ位でいつまでも拗ねているのもね。たかがチョコだし……)
そんな風に自分自身に言い聞かせた美幸は、顔を上げて城崎に告げた。
「分かりました。今日は帰って家で夕飯を食べます」
「その方が良いな。じゃあ駅まで一緒に行くか」
そして再び歩き出した城崎だったが、すぐに美幸が呼び止めた。
「あの……、係長」
「どうした?」
足を止めて振り向くと、美幸が自分の鞄から何やら取り出している所だった。そして手にしたそれを差し出された城崎は、当惑した顔を見せる。
「昨日のお店のチョコなんです。店長さんに係長の好みのチョコを選んで貰いましたので、良かったら食べて下さい」
「えっと……、どうして俺にくれるのかな?」
「係長にはいつも一番お世話になっていますし、良いお店を紹介して頂きましたし。でも係長だけに渡すのを見られたら他の皆さんにお世話になっていないみたいなので、どのみちこっそり渡そうと思っていたんです」
冷静にそう告げた美幸に、城崎は再度確認を入れる。
「課長も貰っていないのに、俺が貰って良いのか?」
「課長には『義理チョコ』を渡そうと思って断念しましたが、元々係長には『感謝チョコ』は渡そうと思っていましたので」
そう真顔で断言した美幸に、城崎は嬉しさ半分で考え込んだ。
(やっぱり姉妹だな。美野さんといい彼女といい、判断基準と思考回路が、今一つ理解できない……)
しかし断る理由など存在する訳が無く、ありがたく受け取る事にする。
「分かった。味わって食べさせて貰うよ」
「本当に美味しいですよね。また今度行こうっと」
そうして笑顔で小箱を鞄にしまい込んだ城崎と、既に機嫌が直りかけている美幸は、揃って職場を後にした。
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