猪娘の躍動人生

篠原皐月
篠原皐月

10月(6)美幸の暴走

公開日時: 2021年6月5日(土) 20:10
文字数:3,832

「あのっ! 係長!」

「何だ?」

 何とか追い付いた城崎に、乱れる息を何とか整えながら声をかけると、未だ機嫌を損ねているらしく無表情で用件を問い掛けられた。それに美幸は一瞬怯みながらも、何とか声を絞り出す。


「その……、そこまでご一緒しても構わないでしょうか?」

「ああ。好きにして構わない」

 普段のやり取りからするとかなり素っ気ない口調で応じた城崎だが、歩幅と歩く速度を美幸のそれに合わせて再び歩き出した。並んで歩きながらそれを認識した美幸は、少し安堵しながら慎重に声をかけてみる。


「あの……」

「先に言っておくが、不愉快な話題は振るなよ?」

「え?」

「少しでも気分良く、帰りたいからだ」

 先手を打たれた上、早々に釘を刺されてしまった美幸は、午後からの混乱しきっていた職場で張り詰めていた緊張の糸が、ぷっつりと切れたのを感じた。


「…………そっ」

「そ?」

「そんな事言ったって! 気になるんだから、しょうがないじゃないですかぁぁ!っ」

「藤宮さん!?」

 いきなりボロボロ泣き出したかと思ったら、両手で城崎のジャケットを鷲掴みにして盛大に文句を言い始めた美幸に、城崎は目を丸くした。


「何ですか一人で課長と一緒に全部聞いて、一人でブチ切れて怒って! 私だって課長の心情を想って、所構わずブチ切れたいですよっ! 係長ったら秘密主義の上、どケチだったんですねっ!」

「いや、その、藤宮さんは、今まさに所構わずキレてる状態だから、少し落ち着こうか」

 もう八つ当たり以外の何物でも無い訴えに、逆に城崎の頭が冷えて如何に美幸を宥めるかに頭をフル回転させ始める。


「さっさと課長が上のろくでなし連中から何を言われたか教えてくれたら、幾らでも落ち着きますよ!」

「それは駄目だ。君が益々キレる。課長は終始黙って聞いてたがな。それがそのまま、今の君と課長の力量の差だ」

「そ、そんな事は分かっ……」

 そこで堪えきれずに盛大に声を上げて泣き出した美幸の手を取り、城崎は近くの喫茶店に誘導した。そして店員に頼んでなるべく人目に付かない、奥のテーブル席を使わせて貰い、手早く注文を済ませる。

 この間、美幸はハンカチを顔に当ててぐすぐすと泣いていたが、目の前に数種類がブレンドされたハーブティーが置かれた辺りで、漸く涙が引っ込んだ。


「取り敢えず少しは落ち着いたか?」

 コーヒーカップ片手に冷静に問いかけられ、美幸は軽く自己嫌悪に陥る。


「はい……。すみません、係長がお疲れの時に、ご迷惑おかけしました。係長も色々腹に据えかねる事がある筈なのに、八つ当たりじみた事を言ってしまいまして」

(本当に、ブチ切れて係長に向かって文句って……。言う相手も内容も的外れでしょうが)

 しかし城崎は、大して気にも留めていない風情で言ってのけた。


「社内に課長を敵視してる連中がはびこってるのは前からだし、嫌味を言われるのにも慣れてるから、それ程気にして無い」

「その……、係長はどうして嫌味を言われるのが確実な、二課配属になったんですか?」

 城崎の淡々とした物言いに、つい前々から不思議に思っていた事を美幸が問いただすと、城崎は若干視線を険しくして美幸を見つめた。


「それこそ、色々な噂が乱れ飛んでないかな?」

「それはまあ、色々耳にはしましたが。でも課長の愛人説とか、社長に媚び売り説とか、反社長派から送り込まれたスパイ説とか、実際に係長を見てると信じられない噂ばかりなので、口にするのもアホらしくて……」

 真顔で美幸がそう告げると、城崎が思わずと言った感じで失笑する。


「アホらしい、か。うん、そう言う事をサラッと言える藤宮さんが好きだな」

(は? 『好きだな』って……。そっちこそ何をサラッと言ってるんですか!?)

 口元を押さえてクスクスと笑っている城崎を、最初は呆然と、次に狼狽しながら美幸が眺めていると、笑いを静めた城崎が真剣な表情になって告げた。


「さっきの答えは簡単だ。『自分の下に付いてくれ』と俺に頭を下げた人が、自分より有能で人望が有る人物だったからだ。それが偶々女性で、自分と三歳しか違わない社長令嬢だったからって、騒ぎ立てる連中の気が知れない」

 端的にそう述べた城崎の台詞の背景を、美幸はちょっと考えてみて口に出した。


「そうすると係長はそれ以前に、無駄に年だけ食ってて威張り散らしてる様な、無能な人間の下で働いた経験が有るんですか?」

 美幸は何気なく質問してみたのだが、それに城崎は視線だけが険しい、不気味な笑みで応えた。


「……一度そういう人間の下で、働いてみるか?」

「滅相もありません! 最初から柏木課長の下で働けて光栄です!」

「本当にラッキーだったな」

 物騒なオーラを感じ取れない程美幸は鈍くは無く、盛大に首を振って力一杯否定した。それを見て小さく笑った城崎は、再度真顔になって美幸に言い聞かせる。


「だが、これまでもそうだったし、これからもそう言った事で難癖を付けてくる連中が、居なくなる事は無いだろうな。課長の下で働くなら、多少当て擦られた位ですぐに激高しない様に、もっと自制心を強固にしておくべきだろう」

「分かりました。努力します」

 最後はお互いにそんな神妙な会話をしてから店を出て、城崎が拾ったタクシーに乗って美幸の家に向かった。そして車内である事に気付いた美幸が、恐る恐る横に座る城崎に声をかける。


「あの、係長? 本当は課長達みたいに、帰りに飲んで帰るつもりだったんじゃ無いんですか?」

「うん? ああ、チラッと思ったけど止めた。大泣きして化粧が崩れてみっともない顔になった藤宮さんを放置して行けないし、電車で乗り合わせた人も驚くだろう」

「ええと……、すみません。じゃあ家に着いたら、心置きなく飲みに行って下さい」

 地味に(そんなに酷い顔になってるわけ?)とダメージを受けつつも、美幸が城崎を気遣う台詞を口にしたが、城崎はあっさりとそれを否定した。


「いや、やっぱりこのまま飲まないで帰る。一応気分は落ち着いたし」

「そうですか?」

(そう言われても……、何か申し訳無いわ。確かに、もう怒ったりはしていないみたいだけど)

 そんな事を考えた美幸は、思うまま口にしてみた。


「係長、課長と係長が随分精神的にお疲れの様なので、来週以降、何かお手伝い出来る事とかありませんか?」

「お手伝い?」

「はい」

 不思議そうに問い返した城崎に美幸が頷くと、城崎は少し窓の外を見てから美幸に向き直った。


「……メール」

「はい?」

「メルアドと携番、教えておいただろう」

「確かに以前一緒にリサーチに出かけていた時に教えて頂きましたね。それが何か?」

「内容は何でも良いから、偶に送ってくれたら気分転換になる」

「はぁ……、分かりました」

(何かもっと仕事に関わる事とか……。でも確かに、まだ仕事で大したお手伝いは出来ないから、更に気を遣わせてるとか?)

 唐突に言われた内容に戸惑いつつも、以前にやり取りをしていた事もあり、美幸は素直に了承した。そしてそれから大して時間を要さずに、美幸の家に到着する。


「じゃあお疲れ様。また来週」

「はい、お疲れ様でした」

 門の前で一人タクシーを降り、頭を下げてそれが走り去るのを見送ってから、美幸は溜め息を吐きつつ門をくぐって玄関に向かった。


(はぁ……、今日は昼から色々有りすぎて疲れた……。何も食べないで寝ちゃおうかな?)

 そんな事を考えながら鍵で玄関を開けて上がり込んだ時、美幸は至急自分がするべき事を思い出して渋面になった。


「あら美幸、お帰りなさい」

「美野姉さん……」

 偶々廊下の向こうを歩いていた美野が、普段と変わらない様子で声をかけながら美幸に近寄って来る。それに冷静に対応しようと考えていた美幸だったが、続く美野の台詞で早くも我慢するのを放棄した。


「仕事の方はどう? この前城崎さんが」

「気安く係長の名前を出さないで! 本当に無神経ね。それ位じゃないとストーカー紛いの事なんか出来ないでしょうけど!」

 いきなり盛大に怒鳴りつけてきた美幸を、美野は目を丸くして見やったが、美幸の勢いは止まらなかった。


「何を言ってるのよ。私は単に、あなたの職場での話を聞いているだけ」

「その職場が今ただでさえ大変なのに、無関係な人間が纏わり付いて、係長や皆の神経を逆撫でしたら、私が許さないわよ!? 姉だろうが何だろうが、殴り倒すからそのつもりでいて!!」

 ガンッと拳で壁を叩きながら美幸が恫喝すると、流石に口答えしたら拙いと思ったらしい美野は、しおらしく謝ってくる。


「分かったわ……。暫く目障りにならない様にするから」

「ありがとう。それじゃあねっ!!」

 皮肉たっぷりに礼を述べた美幸は美野の横をすり抜け、自室まで小走りで向かった。そして部屋に入ってから後ろ手にドアの鍵をかけ、深々と溜め息を吐き出す。


「……やっちゃった。仲原さんに『喧嘩腰で言わないように』って言われたのに」

 そしてひとしきり落ち込んでから、ひとりごちる。


「でも……、考えると、係長ってやっぱり紳士だよね。今日、川北さんに言った時の様な表情と口調で姉さんに『ウザい、失せろ』とか何とか言ったら、絶対姉さんなんか近寄らないわよ……」

 そして再度重い溜め息を吐いてから、美幸は携帯を取り出した。


「取り敢えず、姉さんにピシッと言っておきましたって事と、お茶を奢って貰ったのと、送って頂いてありがとうございましたって事の、メールを打とう」

 そうして律儀に打ったメールで、結構城崎が気分を良くしている事に美幸が気がつかないまま、それが徐々に習慣化していった。


読み終わったら、ポイントを付けましょう!

ツイート