誰かが爆ぜるように叫んだ。
「逃げろ! 逃げろおおおおおお!」
それしかない。俺たちが選べる手段は、全力で逃げ惑うことだけ。
誰が襲われていようとも振り返らず、ひたすら遠くへ走り続ける。
――――だが、誰も動けない。叫んだ本人でさえだ。
包囲網を突破しようとすれば、最初の一人は必ず的になるだろう。
眼球を射抜かれた前迫の死が強烈すぎた。あんな風に、あれ以上に、惨たらしく殺されるとわかっていて先陣を切れるわけがない。誰もが足の裏を溶接されたみたいに立ち竦んでいる。
その中の一人、いや二人の前に、ホブゴブリンが重量感のある歩みで立ち塞がった。
田所真司。
父親が新聞販売店の所長をしているが、スマホの普及と若者の新聞離れに伴い顧客が減少。経営状況が危うい中、息子のあいつも新聞配達をして家計を助けている。あまり話したことはないけど、感心な奴だと思っていた。
そんな田所が膝を高速振動させ、一歩も動けないでいる。恐怖に顔を引きつらせているのか涙に濡れているのか、俺の位置からでは、背中しか見えないのでわからない。
グルル、と獣みたいな太い唸りを吐いたホブゴブリンが、ほんのわずかに上半身を捻った。それにあわせて巨大な鈍器が奴の腰に隠れてしまう。田所は……まだ動けない。
スコッ。
と、木製のバットで硬球を打ったみたいな、乾いた音がした。
ホブゴブリンが、片手持ちしていた鈍器を横薙ぎに振り抜いている。
しかし、田所は衝撃に吹き飛ばされることなく、今もそこに立っている。
空振りした? ……違う……全然違う。
何かが上空を、ここが球場であれば、外野フェンスに直撃しそうな飛距離を飛んでいった。
遠くで落ちたそれは、二、三度跳ね、赤いラインを点々と引きながら転がっていく。
俺はついぞ、田所の表情を見ることができなかった。硬直から解放された田所が、遅まきに両膝を地面についた。そのまま糸が切れた人形のように脱力し、正座の姿勢で再び沈黙する。
首から上を……失った状態で……。
血流が遅れて仕事を思い出したように、断面から奥田の時とは比べ物にならない赤い噴水が湧き上がった。離れていても届く、むせ返るほど強い血の匂いに思わず嘔吐きそうになる。
悲鳴は……上がらない。
身をもって知った。人は本当に恐ろしいと感じたら悲鳴すら上げられない。そこかしこからガチガチと聞こえる歯の音が、真夏の蝉のように合唱を奏でている。
そして、田所と並んでいたもう一人。
金平信之。
こいつには、あまりいい印象を持っていない。そう思っているのは俺だけじゃないはずだ。
金平は、自分の成績の良さを鼻にかけ、他人をよく見下していた。要するに、性格が悪い。
それでも、中学時代よりはマシになっているという。
理由は簡単。自分よりも成績の良い奴が、同じクラスにいるからだ。
金平にとって、由々敷睦琴というクラスメイトは、自身のアイデンティティーを脅かす目の上のたんこぶに他ならない。あいつが睦琴に向ける目は、いつだって憎しみに満ちている。
その様子を間近で見続けている俺が、金平に対して心象を悪くするのは当然のことだ。
ホブゴブリンは、田所の時みたいに鈍器を振りかざしたりはしなかった。
それどころか、震え慄く金平を優しく慰めるように。親戚の叔父さんが、久しぶりに会った小学生の甥っ子にするように。武骨な手を、そっと頭の上に置いた。
俺は金平が嫌いだ。
嫌いだけど、死ねばいいのにとまでは思わない。顔も見たくないとは思うけれど。
そんな風に思っていた金平が、いきなり俺の方を振り返った。
体を、正面に立つ巨体に向けたままで。
もう何度目かわからない鳥肌が立った。
単純な筋力という点において、あの個体は、生物としてのスペックが人間とは違いすぎる。
蛇口を捻る程度の軽い仕草で人間の首の骨を折れる奴と、どう戦えっていうんだ。
ホブゴブリンが手を離すと、フクロウみたいに可動域を超えて首を回転させられた金平が、ぎゅるっと白目を剥いてくず折れた。
「グルルォオオオオオオオオオオオオ――ッ!!」
敵に戦力なし。戦意もなし。今が狩り時だ。そう言わんばかりにホブゴブリンが咆哮した。
ボスの許しを得たゴブリンたちが、大口を開け、唾液をまき散らし、狂喜しながら次々に獲物へと襲いかかっていった。
「――――――――――ッ!!」
誰かが悲鳴を――……じゃない、断末魔を上げた。
幼い子供がオモチャを取り合うみたいに、5、6匹のゴブリンが一人に群がっている。
誰が襲われているのか、ゴブリンが顔から足に至るまで、馬乗りになって押さえつけているせいでわからない。かろうじて、緑色の隙間から学生ズボンが覗いた。ビク、ビク、と水揚げされた魚みたいに跳ねる足の下に、赤い水たまりができていく。
心臓が、凍てつきそうだ。
ゴブリンどもは手を止めない。耳障りな、品のない笑い声を上げながら、剣や槍を、鋭利な切っ先で肉を分断するかの如く、執拗に、入念に、相手が事切れても尚突き立てている。
違うよな。
あそこでメッタ切りにされているのは、聖士郎じゃないよな?
…………違った。
聖士郎は睦琴の傍で、ゴブリンを近づけまいと椅子を振り回している。
二人の無事を喜ぶが、安心には遠すぎる。しかしこのままでは、遠からず同じ運命を辿る。
「女神様、もう十分だろ! 終わりにしてくれ!」
姿は見えないが、俺は虚空に向かって声を張り上げた。
もう四人死んだ。今この瞬間にも誰かが切り刻まれているかもしれない。
奥田だって、ぜえぜえと呼吸が荒くなり、血の気が引いてしまっている。
異世界の脅威を体感させるのが狙いだっていうのなら、その目的は果たせたはずだ。
ゴブリン怖い。異世界怖い。これでいいだろうが。
時間制限はないが、数を半分まで減らしたら終了だと女神は言った。
絶対に無理だ。ただでさえ戦力差は歴然だったのに、さらに男子が四人死んだ。奥田が1匹倒したとはいえ、ここからどうやって半数ものゴブリンを倒せって言うんだ。
こちらの声は聞こえているのか、女神から返答があった。
『最初に言いましたよね。何があっても中断はいたしません』
「それじゃ、終わらないって言ってるんだよ! 確実に、俺たちが全滅する!」
『え? 何を言っているんですか? あと11人で終わりですよ?』
「じゅ、いち…………にん?」
決定的な食い違い。
ああ、そう。そういうことか。
ゴブリンの群れを半数倒したら終わりじゃなくて。
俺たちが半数殺されたら終わりなのか。
「はは……」
これも初めて知った。
人って、誰かを殺したいくらい、心の底から腹が立った時、笑ってしまうんだな。
「お前みたいな性悪、初めてだ」
『それは神を冒涜する発言ですよ。わたし、あなたのことが嫌いです』
声帯がブチ切れるくらい叫びたい。こっちの台詞だと。
可愛く拗ねたように言う女神に、俺はゴブリンに向ける以上の殺意を覚えた。
女神の言葉は、話しかけた俺にしか聞こえていないのか、誰も反応を示していない。
「教えろ。この体験学習って――」
『ブブーッ。その手の質問は受け付けていません。体験学習とはいえ、本番さながらの戦場を想定してもらわないと意味がないですからね。全ては皆さんのためを思ってのことです』
「くそ野郎」
『やっぱり嫌いです。ぷんぷん』
運がいいと言っていいのか。女神への怒りが、わずかに恐怖をまぎらわせてくれた。
惨劇を楽しんでいるかのように女神は声を弾ませ、『あと10人です』と経過報告をした。
また誰かが殺された。このペースで殺され続ければ、終了まで5分とかからないだろう。
クラスメイトが、あと10人犠牲になれば終わる。
だが、生贄の一人に入る気はない。俺はそんな自己犠牲に酔うタイプの人間じゃない。
そして、あいつらを生贄にする気も、さらさらない。
「ぐ、ぐぎぎ、いでえええ! いでええよおおおおお!」
奥田が激痛に身を捩るたび、太股に食い込んでいる鉈が肉からズレて、中身の少なくなったケチャップみたいに、ぶしゅ、ぶしゅ、と鮮血を噴いた。その傍らには、物言わぬ屍に変わり果てた前迫の死体が転がっている。
「ふ、不動ォ……いでえェェ。なんとかしろォォ」
「……すまん」
この謝罪は、助けられないことに対してじゃない。
俺は今、平時ならあり得ないことを考えている。
人のことは――いや、神のことは言えないな。この時点で、俺はクラスメイトの命の重さに優先順位をつけた。交友関係の狭さが幸いし、その順位決めは一瞬でできた。
奥田は、特に親しいわけじゃない。むしろ常日頃、俺のことをヲタクキメぇと蔑んでいる。
極めつけは、手の施しようがなく、放っておいても死ぬ。
そんな奥田の順位は、当然のことながら最下位に位置している。
「すまんって、なんだよ。まさか、お前、見捨てるつもりか? 俺を見殺しにする気か!?」
「許してくれ。武器も貰っていく」
「は? 武器って……。え、まさか……。おい、冗談だろ? おいって、やめろ、おい、やめえぎゃああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」
俺は強引に、奥田の足に食い込んでいた鉈を力任せに引き抜いた。
せき止められていた川が決壊したかのように、ドバドバと血が溢れ出す。
この出血の勢い、さっきまでと合わせて、既に1リットルくらいは流れただろうか。
そう間を置かずに奥田は死ぬ。それでも、細切れになった誰かみたいな殺され方をするより失血死の方がずっとマシだろう。もう一度謝る。すまん。
ついでに、転がっていた魔法の杖も拾っていく。
「不動ォ! デメエ、許ざねえがらなッッ! フドオオオオオオオオオオ――――!!」
後ろから浴びせられる怨嗟を振り払い、俺は優先すべき友人のもとへ走った。
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