この世には、バタフライ効果という言葉がある。どんなに小さいことでも、どこか意外なところで大きな結果が出るという意味だ。日本にも風が吹けば桶屋が儲かるということわざが同じ意味を指していたはずだ。
この言葉を借りるなら恐らく、今回の詐欺事件の犯人は時間はかかるが、そこまで複雑な手は打っていない。それこそ、準備があれば水の上をただ指でつついて波紋を作るだけでいい。
それだけのことにも関わらず、この波紋のような罠にかかる人間が多く出ているし、これからもきっと増える。
……蜘蛛の巣にかかる蝶のように。
彼が霞ヶ関駅に着いた時、彼の腕時計の針は午後5時を指していた。
駅を出ると、すぐ車や歩行者の出す都会の喧騒が鼓膜を振るわせる。すこし、視線を上に向けるとビルの明かりとそこで作業をするサラリーマンたちが目に入ってくる。
ここにいる人たちは今、起きている事を知らないし、興味もない。ただ、自分の人生を生きるだけ。それだけで彼は、自分が限りなく人間に似たアンドロイドになったかのような孤独を覚えるのだった。火星から逃げてきた8人のアンドロイド達も、最初はこんな気持ちだったのだろうかと、最近読んだ小説を思い出し、感傷に浸りながら歩く。
だが、そんな感傷も警視庁に着くころにはすっかり頭の中から消してしまう。彼は気持ちを切り替えながら刑事局の方へと向かっていった。
彼が刑事局に着いた時はまだ会議は始まっていなかった。どうやら、鈴木涼が来ていないらしい。
刑事局には、生活安全局の刑事も来ていたが、その表情は概ね険しかった。今回は額が額だけに場合によっては経済にまで影響を及ぼす事件になりかねないからだ。何としても、被害は抑えなければならない。
彼が到着してから2分後、どこかへ行っていたらしい鈴木涼が息を切らせたまま入室し、停滞していた空間そのものを巻き戻すかのように会議が始まった。
前に立った生活安全課の刑事が緊張からか若干震える声で、今回の概要を説明する。
「え、えーと、まず手口から。手口は前回同様に不明なままです。銀行からの電話が来て、初めて気づいたと。被害者たちは、特におかしな目には合っていなかったようです」
どうやら1件目の被害者のようにストーカーの被害には合っていないようだ。
「ただ、不自然な点がひとつあります。
1件目とは違い、銀座駅南口すぐのカフェ[カスレフティス]という場所に被害者が固まっていたようです」
「ちょ、ちょっと待ってください。じゃあ2件目はそのカフェのみで犯行が行われていたということですか?」
白谷の質問に、その刑事が首肯する形で答える。
確かに、これはおかしい。1件目は駅や電車の中など、電車に関係する施設で発生していた。だが、実際に被害にあった場所は新宿、中野、代々木と距離が離れていた。
しかし、2件目は一つの場所で1件目の倍以上の10人という被害が出ているのだ。
ここから、導き出されることは少なくとも2件目はそのカフェの中、あるいはその近くに犯人がいたと推測を立てることができるということ。彼は若干疲れた頭を気合で動かしながらそう思考した。
すると、ここで「これ、実際に見にいって確かめた方がいいのではないかね?」と大津が提案する。
「ほら、もしかしたら犯人がいたとしたらそのカフェの中かその周辺の可能性が高いだろう。実際にこの目で見てみないとわからないことだってある。役には立つと思うが・・・」
「僕は大津さんに賛成です」と白谷が賛同の意を示した。
そして、「匠くんはどう思う?」と質問を投げてくる。これを彼はキャッチボールをするかのようにすぐに返答を投げ返した。
「ええ、実際に行ってみるのはいいと思います。現場をよく観察して得られるものは意外と多いですから」
できるだけ、安直に返したつもりだったが、何かを感じ取ったのだろう、大津がじっと彼を見つめていた。
結局、そのカフェに行くのは大津と白谷の二人(匠は学校などがあるためキャンセル)になった。あとの捜査メンバーは、刑事局唯一の女性刑事、国本有栖と生活安全局主任刑事、鈴木を主体にして手口などに関していろいろ洗うことが決定づけられ、会議は明日に持ち越しとなった。時間にして30分も経っていなかった。
「明日も来れるかな?」
「ええ、恐らく」と出口に向かって話しながら歩いていた白谷と彼のバッテリーだったが、白谷が公安局に呼び出されたため、彼は一人で自販機で缶コーヒーを買い、茶色のほろ苦い液体をちびちびと飲んでいた。
すると、
「さっきのセリフだが…」
「あれは、君の師匠からの受け売りだね?」
と、いつの間にか隣にいたのか、大津が彼の隣のベンチに座り聞いてきた。
普段の彼ならば普通に驚いていただろうが、[師匠]という単語がでたせいか、急激に頭が冷えていく。
「ええ、まあ師匠もフランスの作家からの受け売りと言っていましたから」
大津は笑いながら「そうか」と一言だけ。その後は何か聞いてくることはなく、彼をただ見ているだけだった。
彼が最後にその[師匠]を見たのはもう2年も前だったが、今でも鮮明にその日々と最期がフラッシュバックしてくる。
自分を強引に立ち直おらせてくれた師匠、推理小説だったりSFだったりありとあらゆる本を勧めてきた師匠、すこし不機嫌な師匠、笑っている師匠。
そして……プラスチックの中で動かない師匠。あの時の師匠は鏡恭弥の仕掛けた蜘蛛の巣にかかった哀れできれいな1匹の蝶だった。
あの時ほど、彼は自分を呪い、責め、傷つけたことはない。それこそ、人格が歪み、2つに分かれてしまうほど。その激情が伝わってきたのか、大津は少し声を落として聞いてくる。
「やっぱり、まだ未練はあるのか?」
「別に、師匠のこと好きだったわけではありませんよ。ただ恩人として、一人の人間として尊敬していただけです。ただ、失ったことへの未練はまだ・・・充分に。ただ、今は師匠のしていたことと同じようなことをしているだけです」
「そうか。君はどうやら飼いならせるほうの人間か」と大津が独り言のように呟く。
「どういうことです?」
大津はその問いにただ、淡々と、だがすこし切なさを織り交ぜた声で答える。
「刑事という職業柄、大切な人を失った人の激情はもう何度も見た。それこそ、殺人事件が起きるたびにな。だが、多くの人はその激情に支配されながらも法の鎖に縛られ、何もできない。それでも何人かは最終的に法の鎖を引きちぎって、その犯人だったりその家族だったりを手にかけてしまう。時には自分の命さえもだ。しかし、激情を飼いならせる者は、なんていうかこう、理性的なんだ。激情という強い感情があるはずなのに、それを押さえつけ、なかったものにできる。そのエネルギーをどこか別の方に向けることができる。君はそういう人間だ」
「そういうもんですかね」
「ああ、そういうもんだ。ただ気を付けてほしい。激情という感情は誰にでもあるが、それを飼いならすのは難しい。言ってしまえば、肉食の凶暴な獣を心の中の檻で飼っているようなもんだ。その檻は大人になっていって経験を積むごとに強くなっていく。だが、君はまだ若い。それに君の心の檻は、あの1件で1度壊れている。次はどう暴走するか誰にも予想はつかない。だから気を付けた方がいいぞ。その獣は最終的には自分の身も食い殺すことになる」
「……はい。気を付けます」と笑顔で返すと、大津は満足したかのように去っていった。携帯電話を握りしめていたので恐らく、家族に電話でもしに行くのだろう。
「それにしても…」と彼は大津の話を思い返しながら、首を曲げ、白の無機質な天井を見る。
「もう押さえつけられていられる時間は、長くないんだろうな」
彼は、心の中の獣が自分の檻を食い破ろうとしているのをはっきりと感じながら、そうつぶやいたのだった。
一方、公安局に呼び出された白谷は、公安局主任刑事である蛇谷光にある依頼を受けた帰りだった。蛇谷光は30代前半の銀髪の刑事だった。
公安局から呼び出されるとは何事かと思ったが蛇谷はただ一言だけ
「公安局として、嘉村匠の情報が知りたい。できれば持ってきてくれないか」と頼んできた。
「とりあえずは簡単なものでいい。別に住所とかは知ったとしても意味はないからね」とも。
公安局は全国民の個人情報だったり、所有財産などを把握するのも仕事の1つだ。
それに、協力者任務を司っているのも公安局なのだ。新たな犯罪を抑制するために。ただ、協力者任務や協力者の監視などに対して蛇谷は前の主任刑事より少し厳しかった。
とりあえず白谷は彼のデータを持ってくるべく資料室へと急いだ。
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