「下の階の者ですが、どうかなさいましたか」
あっと思い、島村は正気を取り戻した。ここの住人は、壁一枚を隔てて生活音をやり取りする仲である。お互い顔は知らなくとも、なにかあればすぐに分かるのも肯けた。ましてやこの時間。階下の住人が不審がるのも無理はない。
「す、すいませんっ」
慌てて居間の電気をつけた島村は玄関を開けた。するとそこには寝巻き姿にカーディガンを羽織った妙齢の女性がいた。背は低く、しかしメリハリの利いた体型は寝巻き越しにも島村の男を刺激するには充分だった。そしてノーメークの顔がやけにかわいらしく、自分よりも年上だろうことは明らかなのだが、いくつとも断定できない感じの人だ。
「まあ……顔色がよくないわ。真っ青になってる」
白く柔らかな手が、そっと島村の頬に触れた。
「怖い夢でも見たの?」
「そうかも……しれない……」
まるで保育士にでもあやされるように、島村は口走っていた。
「ふふふ。でも、もう大丈夫みたいね。今度はいい夢を――」
女性はそう言って彼の前から去ろうとしていた。
「あのっ」
「はい?」
「もうすこしお話できませんか。ちょっと今晩はひとりでいたくないんです。もの凄くその……恐ろしい夢を見まして……」
島村はさっきまでろくに顔も知らなかった階下の住人を部屋に招き入れる。普段であればそれがどんなに軽率なことかも理解できただろう。しかし、女性のほうも彼の様子から何かを感じ取ったのか、意外にもすんなりと島村の願いを受け入れてくれたのである。
そして心を落ち着かせるようにして、炭を焚き。自慢の火鉢で湯を沸かし始めた。
「これがその不思議な木管?」
火鉢に掛けた鉄瓶が鳴き始めた頃、女性は和室へと足を踏み入れた。なぜか四つん這いの姿勢で、のそのそと。突き出された尻を前に、島村は目のやり場を失う。
「全然普通だし、恐くもないんだけど」
と、いつの間にか元の姿に復元されている木管を手に、彼女が微笑む。「そんな馬鹿な」と驚いた島村は、お茶を淹れるのもそこそこに、彼女からひったくるようにして木管を手にした。
「あれ? あれ?」
しかし、どうしたことだろう。いくら触ろうとも、木管はビクともしなかった。紋様にはわずかな隙間さえ開くことがなく、ただ平面の寄木模様となっているだけ。
あれは夢だったのだろうか?
そんなことを島村が考えていると、隣にいたはずの女性は煙草盆を持って居間へと消えており、火鉢の横でゆうゆうとキセルをくゆらせていた。その姿がまたなんとも妖艶で、秘蔵のコレクションを勝手に使われていることすら、島村には気付かせなかった。そしてにっこりと微笑んで「いい趣味ね」と。
恋人にすら手痛いダメだしを食らった煙草盆。
それを彼女は、郭の遊女を彷彿とさせるような仕草でカンと吸殻を落とすのだ。ちょっとはだけさせた寝巻きの胸元。何を考えているのか分からない上目遣いの瞳。
どうしてこうなったと、夜明け前の布団の中で考える島村。ただ事実として存在するのは、裸の男女が一夜を共にしたということだけ。
「恋人はいるの?」
甘い声で彼女がささやく。事後に聞くのは反則級の質問だ。島村は「いない」と答えた。
裕子への罪悪感がないではなかったが、このときはそう答えるべきだと思えたのだ。男の本能だとはいえ、弁明できる要素は微塵もない。
「本当?」
「ウソじゃないよ」
「私のこと好き?」
「勿論だよ」
「永遠に愛してくれる?」
「そうだね」
彼は、我ながら曖昧な返事だと思った。
「じゃあ指切りして」
きゅっと絡み合う二本の小指。島村はそこで初めて気が付いた。『あの指』もこうして何かを誓い合っていたのではないかと。急激にあわ立つ肌を感じながら、島村は「遅かった」と念じた。
永遠の愛を誓い固く結ばれた小指。いまその根元には、彼女が手にした和鋏があてがわれている。島村はまたしても金縛りにあっていた。だがその恐怖は、木管から『あの指』を見つけたときの比ではない。額からは湯水のように冷や汗がしたたってくる。
「ゆーびきーりげんまん。うーそついたら、はりせんぼんのーます」
美しい童女のようなわらべ歌。彼女は楽しそうにそう唄う。
しかしその刹那、表情は一変した。目は見開き、瞳孔は墨で塗りつぶしたように光なく。口は耳まで割け、真っ赤に潤んでいる。ただひとえに呪いを噛み潰したように歪んだ笑顔は、島村の背筋を一瞬の内に凍りつかせた。そして、
ゆーびきった
鮮血と共に飛び散った二本の指は、シミだらけの天井にぶつかったあとどこかへ消えた。
「ああああああああああああああああああああああああああ!」
あり得ない痛みと、その原因に島村の心は苛まれる。
いくら抑えようともとめどなく流れる緋色の血潮は、やがて六畳二間の彼の城を侵食していった。絶え間ない後悔と死の恐怖。
そんなどうしようもない状況の中、彼は目を覚ました。
「ぁああああ……あ、ぁ……」
窓から見える空はすでに白んでいて、小鳥も元気に鳴いている。道路にはバラバラと安っぽい排気音を立てて、新聞配達が朝刊を配りに来ていた。
「ゆ、夢?」
居間にある火鉢には炭は焚かれておらず、当然、煙草盆も手付かずである。
切り落とされたはずの小指は何事もなく薬指の隣に生えており、痛みもまったくない。血に染まったはずの部屋も綺麗なままだ。そして例の木管はといえば、夕飯前に置いた文机の上にしっかりと鎮座している。分解はおろか動かされた形跡すらない。
ピピピっとケータイのアラームが鳴る。起きる時間だ。
すべては夢だったのか?
しかし、一体どこから……。
腑に落ちない気持ちを抱えながらも、島村は否応なしに日常へと引き戻される。そして階下に誰も住んでいないことを発見したのは、その日の帰りのことだった。
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