ゆーびきりげーんまん。うーそついたら、はりせんぼんのーます。
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付き合いたての頃というのは、毎日でも会いたくなるのが人情というもの。
しかし、そのせいで趣味に掛けられる時間がなくなってしまうのも、やはり納得がいかないものである。
「じゃあそういうことで。週末楽しみにしてるよ。え? ……ちょ、勘弁してよっ」
仕事帰りの道すがらである。
まだ陽も高く、人目も気になる時間帯。
ごく普通の会社員である島村一彦は、恋人の宮野裕子から電話越しによる『さよならチュー』をおねだりされていた。
声が漏れていたのか、それとも会話の雰囲気が伝わったのかは分からないが、近くを歩いている子供連れの主婦たちが「若いっていいわねぇ」と微笑んでいく。
島村は顔面がバーナーで焼かれたかのような熱さを感じつつも、電話を早く切りたい一心で舌打ちにも似たキスをした。
「これでいいだろっ。もう切るよ!」
そそくさとケータイをしまう手がぐっしょりと汗ばんでいる。「まったくもう」とため息をひとつ。しかし、それでもかわいいのが恋人だ。
彼女との他愛もない会話のあと、島村の足はそのまま家路へとは向かわなかった。なぜなら近づくにつれて少し足早となるその先に、数年来通っている古道具屋があるからだ。彼女ができたからといって疎かにすることのできない彼の聖域。それが趣味の骨董集めなのである。
一口に骨董と言っても、清朝の壷だとか、九谷焼だとか高価な芸術品などは庶民の手に届くはずもなく、また彼の趣味でもない。では島村が蒐集しているのは一体何かというと、いわゆる古民具と呼ばれるものである。大きいもので家具や建具、また箪笥や鏡といった生活用品にいたるまで。
彼は当時の庶民の暮らしぶりを、その風合いから感じ取るのが好きなのだ。
つい最近では、江戸時代の遊郭で使われていたという煙草盆を手に入れホクホク顔で帰ったところ、「タバコも吸わないのに何に使うのよ」と裕子に突っ込まれる始末。
まったく男の浪漫というヤツは、どうにも女性には不評である。
さてこの『明洞庵』と呼ばれる古道具屋。一体いつからそこに建っているのかというような外観である。雑居ビルや近代風の建物が列をなす中、幽玄とそこに佇んでいるのだ。柱や梁が醸し出す風格は、十年やそこらの年季ではない。見れば誰でも、この店ひとつが銘もなき名品なのだと分かるはずだ。
狭い店内に押し込まれるように陳列される珍品の数々。それを見張るでもなく番台に埋もれる老店主は、飴色に輝くパイプ片手に夕刊を覗き込んでいた。
この雰囲気。
すべてが島村を満たしてくれている、これこそが好事家のあるべき姿であると。
日頃社会で浴びてしまった俗世の垢を、いざここで洗い流さんとばかりに目端を利かす。
鉄瓶に小さな階段箪笥、杉の木で出来た手あぶり火鉢……。
次々と現れていく名品に心をときめかせていく島村であったが、イマイチ「これ」と呼べるような品はない。かれこれ小一時間は眼福にあずかったことだし、そろそろ帰ろうかと重い腰を上げたときだった。
「なんだこれ?」
それを見つけた島村は、思わず声を上げてしまう。
木管とでも呼べばいいのか、大きさにして両手に収まるくらいの円筒形をした木製の品物。ずんぐりとまるで賞状を入れる筒のような太さであり、またその外観には寄木細工のように複雑怪奇な模様が施されていた。
こんな物、この店にあっただろうか?
島村はしばし記憶を手繰るが、結局思い出すことはできなかった。
「おじさん。これちょっと触らせてもらってもいいですか」
老店主は鼻の上にチョンと乗せた眼鏡をずらして、小さく肯いた。顔全体を縦に伸ばすようにしてこちらを覗き込む様子は、まるでラクダのようである。
手にした木管は思いのほか軽く、今日びのケータイよりちょっと重い程度。木製でありながらその手触りは、なめしたての革のようだった。
「ん? これは動く……ぞ」
表面に細工された不思議な紋様を指でなぞると、わずかだが隙間ができる。それに気付いた島村は、自分の第一印象が間違いではなかったことを確信する。
これは寄木の細工箱と同じ……つまり木組みのパズルで構成された一種の宝箱であると。
ということは中には一体何が?
高まっていく島村の好奇心。目にした瞬間から彼は木管に魅了されてしまっていた。値札もろくに見ずそれを番台まで持っていくと、新聞を丁寧に折りたたんだ老店主は深いため息をひとつついた。
「お客さん、こっちも商売だ。アンタが欲しけりゃ売るのは当たり前だが、そいつはちょっとオススメできねえな」
「え? なんで?」
「いわく付き……ってほどでもねえが、どういうワケだか何度売っても戻ってきちまうんだよ。こんな商売やってりゃ割とあることだがよ、そのマニ車の出来損ないだけは何か気味が悪いんだよな」
「マニ車?」
「チベット仏教で使う法具の一種さ。マントラの彫られた筒の中に経文が入っててさ、回した分と同じだけ読経したことになるんだと」
たしかに木管の紋様は寄木細工に似ているというだけでなく、どこか曼荼羅を思い起こさせるような意匠をしており、マニ車のなんたるかを毛ほども知らない島村であったが、老店主の言わんとすることはうっすらと理解できた。
「まあ実際は、知名度が低いだけの箱根の民芸品ってとこかな」
「この寄木細工はやっぱそうですかね?」
「みやげ物じゃなくて、どっかの誰かが作らせた一品物ってこともあるからな」
「ああなるほど」
「で、どうするね? 本気で欲しいなら負けとくよ」
老店主はずれた眼鏡を掛け直す。島村は「う~ん」と唸ってはみるものの、腹の中ではもう購入を決めていた。税込み二千五百円。得体の知れない筒ひとつ買うには、ちょっと出し過ぎるくらいの金額である。
きっとまた彼の恋人による厳しい査定に、より一層の拍車を掛けることになるだろう。
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