あれから数日が経ち、島村もすべてが夢だったと完全に受け入れていた。そして迎えた裕子とのデート当日。待ち合わせの喫茶店に入り、窓際の席へと座る。時刻はそろそろ夕方に差し掛かり、街には照明が点灯され始めていた。
「いらっしゃいませ」
すぐに店員がやってきた。接客マナーも行き届いたアルバイトと思しき女性スタッフ。メニューを島村に手渡し、そしてコップに入った水をふたつテーブルに置いた。
「あの……ひとりですけど」
「えっ。し、失礼しました。さっきはお連れ様がいるように見えたものですから」
ひどく慌てた様子で店員は頭を下げた。
島村はホットコーヒーを注文し、別段気にした風でもなく裕子が来るのを待っていた。
だが待てど暮らせど裕子は来ない。かれこれ二時間近くになるだろうか。メールを打っても無反応。ましてや電話なんかしても出ない。さすがに何かあったかと思わないではなかったが、いまの彼に何かできるというわけでもない。
落ち着かない気持ちをどうにかしようと、四杯目のコーヒーを頼もうとしたときだった。
テーブルに置いていたケータイに、着信が入る。
ブブブっとバイブの振動音が、小気味いいリズムを刻んでいた。
ディスプレイを見れば待ち人の名前である。「やっとかよ」と悪態をつく反面、大いに胸をなでおろした島村は、通話ボタンを押してケータイを耳に当てた。
「もしもし裕子? いままでなにやって――」
堰を切ってあふれ出したはずの彼の言葉は、そこで勢いを失った。電波の向こう側ですすり泣く声は、明らかに裕子のものではない。
「裕子のお母さん……ですか? どうしてお母さんが……ええ……はい……は? まさかウソでしょう……はい……はい……わかり、ました。ではまた……はい。失礼します」
もっと言いたいことはあったはず。しかし何ひとつ言葉が浮かばない。
力なく通話を終えた島村は無意識の内に立ち上がっていた。そしていま耳にした事実を反芻するように小さく呟くのだった、「裕子が死んだ?」と。
不可解である。そしてあまりにも理不尽だ。つい数日前まで軽口を言い合っていた最愛の相手が、もうこの世にはいないなんて。
なぜだ。どうして?
込み上げる涙を拭いもせずに、島村はただその場に立ち尽くした。キーンと耳の奥がしびれるような感覚。まるで世界が自分だけを残して止まってしまったようだった。
ふと窓ガラスを見た。
そこには涙を浮かべて立ち尽くす無力な自分ともうひとり、テーブルを挟んだ向かい側に誰かが映っている。女だ。一見して年齢の分からない妖艶さを持つ女。
島村は慌てて視線をテーブルへと戻す。だが実際には、そこに誰も座ってなどいない。
恐る恐るもう一度、窓ガラスを覗き込む。するとそこには、あの恐ろしい形相をした女が映っていた。真っ白い素肌にぽっかりと空いた黒い目の穴。耳まで避けた三日月のような口。
嗤っている。おれを見て嗤っている――。
そう思った瞬間、島村は右手の小指に激痛が走るのを感じた。見れば指の付け根は、うっすらと赤く滲んでいる。そしてぷつぷつと音を立て、徐々に皮膚が裂けていくのだ。
「うわああっ!」
島村は気が狂ったように走り出した。実際、発狂寸前である。
うろたえる店員の制止も振りきり、半狂乱のまま店をあとにした。
それから彼は息の続く限りに逃げた。一歩でも先に『あの女』から遠ざかろうとして。進む方角などまったくのデタラメである。ただ一心不乱に駆け抜けたのだ。
だからこそ無意識の内に辿り着いてしまったのだろう。
ささやかながも島村が城主として君臨できる唯一の場所へ。
木造二階建て、六畳二間の彼の聖域。
安普請な戸板がバタンと悲鳴を上げて閉じられた。
もんどりうって飛び込んだ部屋は、いつものように彼を迎える。ホッとしたのも束の間、島村はあの木管を探した。すべてはあの木管を手にしてからおかしくなった。例の一夜以来、なんとなく不気味に思って目の付くところから隠しておいたのに。
だが、
「な、ないぃ? なんでだよ! あれがないと! あれがないと……」
箪笥を見ようと机の引き出しを開けようとそれはなかった。
たしかにしまったのに。それすらも全部夢だったのだろうか。
いや、だとすればこの指の痛みはなんだ?
きっとあの木管は開けてはいけないものだったのだ。中に入っていた指は、『あの女』のものに違いない。ではもう一本の指は――。
コンコン
妙に静かな安アパートに、戸板を叩く音だけが鳴り響く。
自然と手の止まった島村の首筋に、いやな汗が流れ落ちる。そして右手の小指からはポタポタと血が滴り、ささくれ立った畳表を赤く染めた。「コンコン」と、何度か戸板は鳴らされる。そして島村が出ないと分かるや、今度はドアノブが「ガチャガチャ」と乱暴に回される音に変わった。
島村は動けなかった。またしても金縛りである。
いや、仮に金縛りでなかったとしてもどうしたらいいのかなど分かるはずもない。
ただひたすらに恐ろしく、抗う気力さえそがれていく。
ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャ――。
不規則に刻まれる音が、ドアの向こう側にいる『何者か』を強烈に意識させる。もしあのドアが破られたら――そう考えるだけで島村はどうにかなってしまいそうだった。
真っ暗闇の部屋の中。
そらすことのできない視線。
島村は見た。ドアの隙間から漏れる、廊下側のわずかな照明が揺らぐのを。
そしてその直後、ドアノブを回すあの不快な音が突如として消えた。
「終わった……のか……」
拍子抜けするほど突然に訪れた安堵感に、島村はどこか置いてけぼりを食らったような気分を味わう。金縛りもいつしか消え去り、身体には淡いしびれだけが残った。だが腰が抜けているのか、思うように立ち上がることはできない。
果てしない緊張からの脱力感。
島村は畳を背にしてごろんと横になった。仰向けのまま、おぼろげに天井を見る。しかし、そこには彼を見下ろす白い顔があった。大きな目を開け、耳まで割け切った赤い口は暗闇に弧を描く。
動けない島村の頭上から、まるで覗き込むように『あの女』が見ている。
ヒタヒタと嗤うだけのその女は、島村のおびえる表情をすすり飲むかのように言う。
やくそくしたものねぇ
女の顔は見る間に溶けて、垂れ下がる皮膚は細い何かへと変貌する。それは縫い針だ。一本一本がきわめて鋭利な裁縫針。あっという間に女の顔は原型を失い、髪の毛を生やした大量の針となる。だが島村はこの恐ろしい光景を前にしても、声ひとつ漏らさなかった。なぜなら針は、すでに彼の口の中へと注ぎ込まれていたからである。
*****
その日もいつものように店を開け『明洞庵』の老店主は、愛用のパイプ片手に朝刊の文字を拾い読みしていた。老眼をくいっと上げ、小さな地方欄の記事に視線を落とす。
『交際中の男女が相次いで怪死。女性は撲殺。男性会社員は自宅アパートでショック死。体内からは大量の縫い針が発見――』
「ぶっそうだねぇ……」
老店主は眉根を寄せてわずかに首を振った。
しばらくして朝一番の客が来る。一見して年齢の分からない、どこか品のある女だ。
女は店内に陳列されている珍しげな品物にはわき目も振らず、まっすぐに老店主の座る番台へとやってきた。そして言葉少なに、複雑な紋様が施された木管を取り出す。
木管を手にした右手には、小指が一本欠けていた。
「もう値段はつかねえよ。それでもいいのかい?」
すると女は静かに首肯して、そのまま店をあとにした。
老店主は重い腰を上げ、おもむろに木管を掴んで陳列棚へと歩き出す。曲がった腰をかばうようにヨタヨタと。
「やっぱり戻ってきちまったか。これで何度目だい」
陳列棚の一番奥。雑多な品物が置かれるその目立たない空間に木管を載せると、老店主は誰に言うでもなく呟いた。
「それにしても買ってく客は毎回違うのに、なんだって売りに来るのはいつもあの女なのかねえ」
そうして老店主は番台に座り、まるで眠ったように夕刊が来るのを待つ。
ゆーびきりげーんまん。うーそついたら、はりせんぼんのーます。
〈ゆびきりさん/了〉
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