学校中にキーンコーンカーンコーンと六時間目の終わりを告げるチャイムの音が鳴り響く。
ホームルームが終わって放課後になると、僕は荷物をカバンの中にまとめて早々に教室を立ち去った。
いつもどおり図書室に向かう途中、窓の外では秋の糸雨が降っていた。雨が窓枠に当たって、元気に跳ねている。
雨が降り注ぐ校庭では野球部が必死にランニングをしているようだ。
中でも長谷川は先頭を切って時々後ろを振り返り、口を動かし、チームメイトを励ましているようだ。
僕には到底あんな真似できない。誰だってそうだろうが、しんどいことは嫌いだ。
階段を降りてすぐ左、僕は図書室の前で立ち止まった。
霧が丘高校の場合、放課後に残って勉強する生徒のために自習室が設けられており、町には図書室なんかよりも多くの本を管理する図書館があるため、図書室を利用する生徒はあまりいない。
いつものように、部屋の中にはカウンターで居眠りをしている司書の先生以外、誰もいない……と思ったら小さな背中をこちらに向け、部屋の一番奥の席に座り込む一人の女子生徒が。
椅子の後ろに黒い髪を伸ばし、シャンとした姿勢で小説を読んでいるようだ。
その女子生徒は僕が入ったことに気づいていないようだ。読書に集中しているのだろう。
邪魔にならないよう、その女子生徒から一番離れた席につこうと椅子を引くと、椅子の足が床に擦れ、ガガガと音を鳴らしてしまった。
流石の彼女も、その音で教室に自分以外の生徒がいることに気づいたのか後ろを振り返り、その顔をのぞかせる。
右の目元には、ここしかないという完璧さで小さなホクロがある。
その女子生徒は今日転校してきた、竹内渚|《たけうちなぎさ》だった。
僕が椅子の背もたれを持ちながら固まっていると、竹内渚は一瞬目を見開いてパタンと本を閉じた。
二人とも一瞬の間見つめあい、先に口を開いたのは竹内渚の方だった。
「あ、えと、こんにちは!」
僕の存在に気がついた彼女は自己紹介の時みたく元気に声をかけてきた。
視界の隅に映る先生は体をビクッと震わせて、一瞬起きそうになっていた。
背もたれから手を放し、僕も挨拶で返す。
「……こんにちわ」
普段、長谷川以外の生徒と話すことがないこともあいまって、転校してきたばかりの、しかも女子に、なんと話しかければいいのかわからない。
「……あのっ私、今日転校してきた竹内渚っていって。君って同じクラスの白瀬陽翔|《しらせはると》くんだよね?」
もう一度二人の微妙な空気を破り、話しかけてくれたのは竹内渚だ。
それにしても、なぜ僕の名前を知っているのだろう。一日で僕のような陰キャの名前まで覚えたのだろうか。
「……そうだけど……なんで僕の名前を知ってるの?」
いつも通りだが今日も学校でとくに目立つことをした覚えはない。ましてや僕は委員長でもなければ居眠りしていたわけでもない。
「それはね……君がずっと本を読んでたからだよ。休み時間も読んでたしホームルーム中もこっそり読んでたしね」
いたずらを思いついた子供のようにニヤリと笑いながら竹内渚は指摘してきた。
「たしかにホームルーム中も読んでたけど…そんなことで転校生に名前を覚えられるとは思わなかったよ」
「転校生じゃなくて竹内渚っていう名前があるんだよー」
「それは悪かった、じゃあ竹内さん……でいいかな?」
いきなり下の名前で呼ぶなんてことはハードルが高すぎて気が引けた。
「うーん……まあ、いっか」
竹内さんはニコッと右頬にだけえくぼを出して笑った。
彼女はぽつぽつと落とし物を拾うように、手に持った本を何度もパラパラと親指でめくりながら少しずつ近づいてくる。
「転校初日だからさ学校を探検してたんだけど、放課後の図書室ってこんなに人がいないもんなんだね。図書室で勉強したりするものだと思ってたよ」
竹内さんは机の周りをぐるりと回りながら、聞いてもいない事情を話しだす。
竹内さんのまるで放課後の図書室を知らないような物言いに僕は違和感を覚えた。
「……まあ、勉強は放課後に開けられる自習室でやるように決められてるから」
「へえーそうなんだ! 自習室とか開くんだね、教えてくれてありがと」
竹内さんの声で先生が起きてしまわないか心配になりカウンターを覗いた。
……起きる心配はなさそうだ。先生が起きたからと言ってなにかあるわけでもないのだが。
やがて竹内さんは僕が座るつもりだった席の右斜め前に座り机に肘を乗せ、指を絡めて手を組み、その上に顎を乗せ話しかけてきた。
「ねえ、陽翔くんは放課後はいつもここにいるの?」
「……っ!」
下の名前で呼ばれたことになぜか驚きと嬉しさを感じ、しだいに顔が火照っていく。
慌てて下を向き顔を隠した。
同級生の女子に名前で呼ばれたことが無いからか、嬉しさと恥ずかしさがこみあげてくる。長谷川とはわけが違うようだ。(すまん、長谷川。)
「陽翔くん、どうしたの?」
また、その声で名前を呼ばれる。温かいような懐かしいようなそんな声の響きに、また、僕の頬は赤くなる。
濃い茶色をした瞳が、僕の顔を覗き込む。赤くなっている顔を見せないように顔に手を当てて「なんでもない…」と返した。顔が熱い…。
「もしかして陽翔くん照れてるの……?」
しばらくどこかの賢い人のように顎に手を当てていた彼女からそんな鋭い質問が飛んできた。
とても楽しそうにニヤニヤしている竹内さんの表情は随分と楽しそうだ。
「照れてるわけないでしょ……」
「うっそだー!だって顔赤いし!さては陽翔くん、女の子に下の名前で呼ばれたことないんでしょ……?」
一応誤魔化してみたもののそれも虚しく、さらに痛いところを突かれてしまった。
思いっきり失礼なことを言われているが間違ってはいないので否定できない。
「……うるさいな、呼ばれたことがないからなんなのさっ」
「んー、なんでもー」
開き直り少しでも抵抗しようとしたが、彼女は柔らかく微笑みながらその黒く長い髪を左右に揺らし誤魔化してきた。
「そういえばさ、あの司書の先生っていつも寝てるの?」
竹内さんはカウンターの椅子に背を預けて幸せそうに眠る先生に目を向け、尋ねてくる。
「いつもではないけど、よく寝てるかな」
「毎日来てるの?」
「そうだよ」
「飽きないの?」
「飽きないよ」
昔から一人でゆっくり過ごすことが好きだった僕にとって、この学校の図書室は心休まる唯一の場所だった。飽きる飽きないの問題ではないのだ。
「……それくらい本が好きな君を、この私が試してやろう」
竹内さんは、胸を張ってこの時を待っていたかのようにそう言った。
なにか問題でも出されるのだろうか……?
「……?」
「今からこの本を読むから知ってる本だったら言ってね」
急な展開に驚きつつも、落ち着いて話を聞くようにする。
竹内さんは手に持っていた本のはじめのページを開き、んんっと喉を鳴らした。
エアコンの駆動音と窓に当たる雨の音がしだいに遠ざかり、彼女の吐息と親指で挟んだ紙のこすれる音だけが聞こえるようになる。
「半年前に余命宣告を受けた。
私の身体はひどく悪いらしく、入院してもあと数年で私の命は尽きるそうだ。急な入院から数週間後に病棟の狭い一室で告げられた普通に暮らしている人間は到底知らないような病名を聞き、頭が真っ白になった。
病気についての説明を受け終わると隣に座る嫁の表情はぐにゃりと歪み、泣き崩れた。医者にしがみつき『夫は助からないのか』と答えの知っている問を何度も聞いていた。私はなにも言わずに嫁の背中を撫でて落ち着かせた。
病院からの帰り、嫁はごめんねと謝ったり、話題を変えて励まそうとしたりと終始不安定な様子だった。家に帰ると息子は待ち構えていたのか『おかえりー!』と言いながらぎゅーっと元気に抱きついてきて私も優しくぎゅっと抱きしめた。
結婚して四年、都内の大手企業に就職し小説を書きながら家族三人で順風満帆に暮らしてきたが、神様はそんな私を気に入らなかったらしい。
しばらくなにも考えられず、入院生活を続けていると、ふいに息子の成長して行く姿を見られるはずだったのに、嫁とは老後の生活も楽しく過ごすはずだったのに、とどこにどうぶつければいいかわからないやるせなさが胸の中からわき起こり、その日私は、ずいぶんと久しぶりに泣いた。
私が死ぬまでになにかできないかと考えたとき、すぐに思いついたのは小説を書くことだった。
だから私はこの本を残して行く。自分がこの世界にいた証を遺して逝く。
この作品を読んでくれる人々に、私の思いを言葉で紡ぐように……。」
きりのいいところまで読んでもらい、僕は静かに告げる。
「……この作品、知ってるよ。作者は白瀬湊|《しらせみなと》、僕の父さんだ」
時々小さな息継ぎを挟ませ、読んでいるときに緊張感をただよわせながら、ゆっくりと撫でるように読み進められたその本は、父さんの病気が発覚してからの家族三人の実話をもとにして書かれたた父さんの最後の作品だ。
「そう、やっぱり君のお父さんなんだね……」
「……なんでその本の作者が僕の父さんだって知ってるの……?」
僕らはお互い、確認し合うようにゆっくりと言葉を交わしていく。
わからない。
なぜ僕の父が小説家だったことを知っているのか。
「それはね……風の噂っていうことで」
「なんだ、それ? 教えてくれたっていいじゃないか」
「まだダメー」
竹内さんはニコッと右頬にだけえくぼを作ってはぐらかした。
どうやら教えてくれるにはまだまだ関係が浅いらしい。
「それにしても、その本どこで見つけたの?」
くされながら、もう一つ抱いていた疑問を尋ねた。
父さんはもともとあまり売れている作家ではなく、最後に書いたその本も書店に多く置かれるような作品ではないのだ。
「……たまたま本屋さんで見つけて、タイトルが気になったから買ってみたんだ。そしたらすごい好きになっちゃって今じゃ私の一番好きな小説なの」
竹内さんは少しの間黙りこくると、すぐさま取り繕うように言った。
おそらく彼女は嘘をついている。これでは、僕の父が小説家であることを知った理由にならない。
「ねえ、白瀬陽翔くん。君は小説家を目指してる、そうでしょ?」
突然立ち上がり僕の目の前までやってくるとやけに真剣な声音と表情をして竹内さんはそう尋ねてきた。
突飛で、なおかつこのタイミングで聞いてくる質問に僕は思わず気圧されてしまう。
「どうしてそう思うの……?」
「知ってるからね」
どこかを見つめる彼女の瞳には、僕には想像もできないなにかが映っている。
全身でそう感じた。
「……そうだよ、僕は小説家になりたい」
少し後ずさりながらも僕は素直に答えた。
「それはどうして?」
もう、そんな目をされたら、答えるしかないじゃないか……。
上目遣いで見つめてくる彼女の長い髪からは柑橘系の匂いがする。
「小説を書いているときの父さんは、いつも楽しそうだった。自分がもうすぐ死ぬっていうのに、その時だけは目が輝いてたんだ。だから僕はそんな父さんがいつもどんな気持ちで、なんのために小説を書いていたのか、知りたいんだ……」
不思議と彼女になら伝えてもいいと思えた。
今日初めて会ったのに、彼女なら、僕になにかを与えてくれる気がした。
病院のベッドでいつもうたた寝をしていると隣から聞こえるパチパチとキーボードを叩く音で目が覚めた。必死にキーボードを叩いては頭を抱える父さんの瞳の輝きが必死に生を噛み締めているその姿が未だに脳裏に焼き付いている。
「それなら、書こうよ。君と私でこの世界に、残り続けるような物語を、書こう」
彼女のその言葉の重みが、覚悟が、ひしひしと伝わってくる。
まるで濁流のように押し寄せてくるそれは、僕を殴りつけてくる。それは、僕にささやいてくる。お前には無理だ、と一度夢を諦めたお前には無理だ、とそれは、恐れは、悲しみは、怒りは、憎しみは、様々な負の感情が、囁いてくる。
それでも僕は白瀬陽翔は陽の光を浴び白い羽でそれらを振り払って翔ぶ。
「僕は、父さんがなんのために小説を書いていたのか知りたい」
「私は、この世界にいた証を遺したい」
僕らは静かにお互いの覚悟を伝えあった。
「「僕たちで(私たちで)この世界に、残り続けるような物語を、作ろう」」
もう、雨は降っていなかった。
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