「そんな……」
アサド州侯の言葉に、震えるアシュリー。
それもそうだ。地獄からようやく抜け出して、安全な場所に避難してきたのだ。だというのに、間髪入れずに兵を南下させてきた。
二万の兵――それは、絶望すら感じる数字だろう。
「二万……二万、ですか」
「ダリアス……南方騎士団は?」
「南方騎士団は、総数が三千です。北方と西方に、主に戦力を分散しておりますので。南はローレシアの領域ですから、侵攻をそもそも前提としておらず……」
「南方騎士団にも、ひとまず伝令は出しております。ですが、敵の侵攻に間に合うかが分からない状態ですね……」
二万の兵に対して、戦える騎士団は僅かに三千。
それも今ここにいるわけではなく、伝令が必要なほどの距離にいる。しかも敵の侵攻に対して間に合うかどうかも分からない。
それに加えて、南方はそもそも敵の侵攻を想定していない場所。その練度も低いだろう。
何をどう考えても、希望の一欠片もない。
「ひとまず、直近の東方騎士団にも伝令を出してみましょうか。距離によっては、間に合う可能性もあります」
「州侯、敵軍が王都を出発してここまで来るのに、早ければ三日です。わたくしたちでさえ、三日で辿り着いたのですから」
「東方騎士団に伝令を出すにしても、片道で五日はかかるでしょうね……それから出発してくれたとしても、さらに日数がかかります。とても間に合うとは……」
「いや、ダリアス将軍。南方騎士団がやってくるのが早ければ、籠城して耐え抜くことはできる。その籠城している間に、東方騎士団が間に合ってくれれば……」
「東方騎士団も、その数をかなり削減しているんですよ。多く見積もっても、恐らく五千といったところでしょう」
「くっ……」
州侯の提案を、ばっさりと切り捨てるダリアス。
北方と西方に戦力を集中している以上、それ以外が手薄になるのは仕方ないことだ。
敵は二万。
そんな大軍に対して、集めることのできる戦力は三千の南方騎士団、かなりの時間がかかって五千の東方騎士団。合わせても、半分にも満たない。
むしろ、二万の兵に対して五千の援軍が来たからといって、ろくな戦力の足しにもなるまい。
紅蓮は、黙って話を聞く。
今のところ、絶望しかない報告を。
「炭鉱夫を、どうにか戦力として捻出できませんか? 民兵という形にはなってしまいますが、それでも数がいないよりは……」
「炭鉱夫は、せいぜい千人ですよ。しかも、戦える手段は持っていません」
「では、イズラード市の住民たちに、どうにか……せめて、石を投げてもらうとか」
「その場合、塹壕を作ることから始まりますね。町の前に大きな塹壕を作って、そこで敵を迎え撃つ……そんな塹壕を、僅かな時間で作れるとは思えませんが」
「むぅ……」
「そもそも、籠城には適さないですからね……壁があるとはいえ、壁の上から射撃もできませんし」
むぅ、と三人が眉を寄せながら、必死に考えている。
もしも壁の上に通路などあり、そこで兵が待ち構えられるならば、籠城もすることができるだろう。だけれど、この町を囲んでいるのは本当にただの壁だ。
壁の幅もそれほどないし、壊そうと思えば容易に破壊できる。
つまり、籠城は最初から不可能だと考えていいだろう。
「では、一体どうすれば……」
「いっそのこと、この市を放棄する……そして、大神殿まで住民全員で逃げるというのは?」
「住民には、年寄りも女も子供もおります。大神殿に到着する前に、敵軍に捕まってしまうのではないかと……。それに、大神殿にこの市の人間が、全員暮らせるような場所はありません」
「そこはどうにか……いや、不可能か……」
ダリアスが、必死に考え込みながら顎に手をやっている。
様々な策を、一生懸命考えているのだろう。絶望的な状況において、それを覆すための手段を探しているのだ。
だが諦めたように、アサド州侯が顔を伏せた。
「……でしたら、やはり」
「州侯、まさか……!」
「降伏を、すべきでは……」
「アサド州侯!」
アサド州侯の言葉に、アシュリーが激昂と共に立ち上がる。
まぁ、その選択肢になるよなぁ――そう思いながら、口は挟まず紅蓮は成り行きを見守っていた。
向こうは一応、降伏を促してくれているのだ。無駄な殺戮をしようとは考えていないはずである。
ならば、降伏という選択肢が、最も無難だろう。
「降伏など、絶対に許されません!」
しかし、アシュリーは気丈にそう告げた。
「王国民として、このアスティーン州ならびに大神殿は、決して他国に渡してはならぬものです!」
「ですが……姫様。現実的に、敵軍が迫っているのです……」
「しかし!」
「ここで戦いを行い、大神殿が傷つけられるよりは、むしろ降伏をする方が……」
アサド州侯が、アシュリーから目を逸らす。
その目は、決して保身に走っているからではない。むしろ、アサド州侯自身も苦肉の決断であるのだろう。
「姫様……今は苦汁を舐めることになりましても、生きてさえいれば、必ずや光明が見えます。今は降伏し、耐え、時が来ればローレシア連合と力を合わせて大神殿を取り戻せば、それで良いではありませんか……」
「カーマルディン殿……!」
「私の方から、降伏にあたって幾つかの条件を出します。姫様のお命、それに大神殿を決して傷つけないこと……そういったことを、約束させます。ですから……姫様」
「……っ!」
アシュリーの、歯軋りすら聞こえるようだった。
絶望的な戦力差に、降伏しなければならない歯痒さ。両親を殺され、王都を奪われ、そしてようやく辿り着いた安全な地でさえ蹂躙されようとしているのだ。
アサド州侯が、そんなアシュリーに対して頭を下げる。
「どうか、どうか姫様、ご理解ください……姫様のお命のためならば、この老骨の首を差し出しても構いませぬ……」
「う、うっ……しかし、わたくしには、アリファーンの誇りが……!」
「誇りで、民は救えませぬ……どうか、ご了承ください……!」
何度も何度も、頭を下げるアサド州侯。
そして、それを受け入れることのできないアシュリー。
ダリアスもまた、絶望にその顔を翳らせながら考え続けている。
「なぁ、アシュリー」
そこで、空気を読まない紅蓮は、口を挟んだ。
はっ、と顔を上げるアシュリー。そして、目を見開くダリアス。
「貴様、姫様に何という口の利き方を!」
「ああ、州侯はちょっと黙っててくれ。俺が相手にしてんのはアシュリーなんだよ」
「貴様っ……!」
「少し、お黙りください。アサド州侯」
「うっ……」
激昂したアサド州侯を、アシュリーが止める。
そして肩越しに、後ろに控えていた紅蓮へと振り返った。
真剣な眼差しで、透き通る青い瞳で、紅蓮を見て。
「グレンさま」
「ああ」
「帝国の兵が、二万、南下してきております」
「ああ」
「比べてこちらには、出せる戦力がありません」
「ああ」
一つ一つ、確認するように紅蓮に告げるアシュリー。
紅蓮はその言葉の全てに、頷いた。
「グレンさまは、この状況を打破することが、できると思いますか?」
「ふざけんじゃねぇぞ、アシュリー」
ごうっ、と紅蓮は左手から炎を出す。
それは天井に届くかのような、激しい炎。その熱さに、僅かにアシュリー、アサド州侯が身じろぎする。しかし紅蓮にしてみれば、この程度は篝火のようなものだ。
「俺が二万程度の人間、焼けねぇと思うか?」
アシュリーの安全さえ確保してくれるのならば。
紅蓮は、自由に動けるのだ。
元、最強の召喚獣――『九印御庭番長』が一柱である紅蓮が。
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