「そろそろ行くか」
地下で長い時間を過ごしてから、紅蓮は立ち上がった。
時刻は既に、夜と言って差し支えないだろう。ランプの灯が常に照らしている地下では分からないだろうが、恐らく外はもう暗くなっているはずだ。
落ち込み、眠そうにしているメイド――エイルールと、何かを考えていたらしく俯いていたアシュリーが、紅蓮の言葉に顔を上げる。
「もう、よろしいのですか?」
「ひとまず、敵が来る様子はない。ここまでアシュリーを追ってきた連中は、功を焦って報告しなかったんだろうな」
「そう、ですか……」
「王族が逃げるための隠し通路は、向こうか?」
「……ええ、この先にあります。その通路の先は、王都の端に繋がっています」
紅蓮の問いに、アシュリーが指を差して答える。
暫く待ったが、誰も地下まで追いかけてこなかったのだ。つまりこの地下通路は、余程入り組んだ場所にあるのだろうと考える。むしろ、それだけ入り組んだ場所でなければ、王族が逃げるための隠し通路など用意はするまい。
ならば、恐らくもう安全だろう――そう判断して、アシュリーとエイルールを立ち上がらせる。
「それじゃ、行くぞ」
紅蓮を先頭に、中央にアシュリー、後方にエイルールという形で向かう。
仮に後方から敵が現れた場合でも、アシュリーに手を出させないためだ。エイルールもそれを理解しているのか、紅蓮の指示に従った。
暫く無言で、地下通路を歩く。
「あの、グレンさま」
「どうした?」
「王都の端には出ることになりますが……恐らくもう、宮廷の方は制圧されていると思います」
「そうだろうな。俺もそう思う」
最初から、制圧されている場所に出るつもりはない。
正直、王族だけが知っている隠し通路であるならば、近くの山の上にでも繋がるように作ればいいのに、とさえ思っている。既に、王都は全体が制圧されているか、もしくは帝国軍の性質によっては、既に虐殺すらなされているかもしれないのだ。
端とはいえ、そんな場所にこれから出るのだ。どうにか敵兵の凶刃から、アシュリーだけでも守らなければならない。
「王都さえ脱出できれば、南に、アスティーン州があります。そちらは、まだ敵兵も来ていないと思います」
「その貴族は、信用できるのか?」
「昔から、王家に従ってくれている州侯です。緊急のときには、アスティーン州のアサド州侯を頼るようにと……昔から、父にも言われています」
「……ふむ。まぁ、行ってみてからだな」
父――王がそう言ったのならば、まだ信用はできるか。
北の貴族領のように、既に敵の手に落ちている可能性はあるが、かといってどこに逃げればいいのか紅蓮には分からない。まずは、アシュリーを信じてそこに向かえばいいだろう。
そこも既に敵がいるならば、そのときに考えればいい。
「こちらです。こちらのレバーを引くと、道が……」
「これだな」
突き当たりの、功名に隠された小さなレバー。アシュリーが示したそれを、紅蓮は引く。
それと共に起こるのは、僅かな振動。そして目の前にあった岩が、ゆっくりと横に動いてゆく。
「へぇ……」
恐らく、絡繰り式の隠し通路なのだろう。岩の向こうは、ランプの光すらないトンネルが続いている。
紅蓮は指先に火を灯して、そのまま浮かせる。僅かな光ではあるが、それでもないよりマシだろう。
「足元に気をつけろ」
「えっ、グレンさま……その火の玉は……? 魔術ですか? しかし、魔力は何も……」
「ああ、俺はイフリートだからな。この姿でも、ある程度の火なら操れる」
「そう、なのですか……?」
不思議そうに、目を見開きながら驚くアシュリー。
まぁ、いちいち説明しても仕方ない。そういうものだと思ってもらうしかないのだ。
恐らく、暫く使われていなかったのだろう。埃っぽく湿った洞窟を、紅蓮は先頭に立って進む。
特に分岐点もない一本道を、暫く進んで。
「エイルール……やはり、グレンさまは……」
「しかし、姫様……そんなに簡単に信用すべきでは……」
「いいえ、火を操るグレンさまは、間違いありません。わたくしたちは、最高神ハシュトさまの加護があるのです」
「ですが、突然現れた男がハシュトさまだなんて、そんなにも都合の良いことが……」
「どういうことだ?」
アシュリーとエイルールの会話に、そう口を挟む。
別段興味があったわけではないが、何分手持ち無沙汰なのだ。ただ暗い洞窟の中を歩いているだけで、他に娯楽も何もない。
本来なら、さっさと仕事を済ませて今頃『竜宮』に戻っていたのに。
そんな紅蓮の問いかけに、アシュリーが慌てた様子で手を振った。
「も、申し訳ありません、グレンさま。エイルールが、失礼なことを……」
「いいや、別にいいさ。メイドにしてみれば、俺は突然現れた不審者だろうよ」
「そ、そんなことは……!」
「それより、最高神ハシュトってのは一体何だ? この辺に伝わる神様か?」
「は、はい」
紅蓮の問いに、アシュリーが頷く。
国によって、崇める対象というのは異なるものだ。神様が人の形をしている文化もあれば、獣の姿をしている文化もある。中には、化け物のような姿をした神を崇めている場所だってあるのだ。珍しいところでは、まだ生きている少女を神様として崇める風習だってある。
そして、大体の宗教に存在するのが、火の神だ。
火は人に明かりを与え、温もりを与え、食物を加熱するという文化を与えた。その反面、山火事などの災厄を招くことにもなる火というのは、神として祭られることが多い。
「最高神ハシュトさまは、アリファーン王国の国教である、ファズマ教の唯一神です」
「ほう」
「アリファーン王国がまだ何もない島だった頃、火をお与えになってくださったのがハシュトさまとされています。人々はハシュトさまに与えられた聖なる火を用いて生活を豊かにし、聖なる火によって外敵を退け、繁栄したとされています。そんなハシュトさまのお与えくださった大聖火が現在も、アスティーン州に存在する大神殿の中で燃えているんですよ」
「へぇ……」
アシュリーの言葉に、紅蓮は笑みを浮かべながら頷いた。
火が神として崇められ、祭られることは珍しくない。だけれど、その神が残した火がまだ燃えているという話は珍しい。
まぁ、恐らくその神殿の者が管理をしているのだろうけれど。それは、信心深いのだろうアシュリーの前では言わない。
「あ、そろそろ出口です。出口は、そちらのレバーを引いて……」
「ああ、これか」
「はい」
分かりにくい位置にある、小さなレバーを再び引く。
それと共に、先程と同じく岩の壁がゆっくりと動き、出口が姿を現した。
やれやれ、ようやく地上に出られる――そう、安心した瞬間に。
「何者だ貴様っ!!」
一瞬早く、紅蓮はその殺気に気付いた。
僅かに体を退け、目の前を白刃が過ぎてゆく。もう一歩踏み出していれば、紅蓮の首を斬っていただろう斬撃が、紅蓮の前髪を揺らす風だけ残した。
叫び声と共に、その一撃を放ってきたのは、鎧を着用した男。
自然、紅蓮は身を屈め、己の腰に差した刀の柄に手を伸ばした。
目の前に敵がいれば、殺す。
それが、紅蓮の役割であるがゆえに。
「おやめなさい! ダリアス!」
「……ひ、姫様っ!?」
しかし、敵と思われたその男は、アシュリーのそんな制止と共に止まり。
そして白銀に輝く、その胸当てには。
帝国のものと異なる、炎を模した紋章が刻まれていた。
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