蠣崎行広は蝦夷を治める大名である松前慶広の三男として生まれた。
松前家の後継者が兄の盛広に確定してしまったため、松前の旧姓である蠣崎を名乗っており、本家とは一線置かれてしまっていた。
今回、木村家行きを志願した理由としては、木村家で知識や教養をつけつつ人脈を広げ、願わくば木村家の後ろ盾を得て、松前宗家を相続──もとい乗っ取るためであった。
(父上が木村様に一目置いているのは明らか……。その木村様が、私に松前家を継がせると言えば、いかな父上でも無視できまい)
そうした思惑もあり、蠣崎行広は木村家にやってきていた。
小姓として吉清の身の回りの世話をしつつ、軍略や教養、上方での文化を学ぶ。
その傍ら、吉清から気に入られよう。行広はそう計画していた。
しかし、船から降りると、目の前の光景に絶句した。
京どころか、畿内ですらない。
吐く息は白く、海模様も見覚えがある。
周囲の光景は蝦夷とよく似ていた。
「なぜ私は北蝦夷島へ来ているのだ!」
蠣崎行広がやってきたのは、木村領最北端の土地──樺太であった。
樺太にやってきた蠣崎行広を、商人でありながら樺太奉行を務める目加田屋長兵衛が出迎えた。
「ようこそおいでくださいました。こちらの手配した仕事をお願いします」
「待て! 私は松前慶広の三男である蠣崎行広だ。木村殿の元へ人質として出向きはしたが、これは何かの手違いだろう! 木村殿に会わせてくれ!」
長兵衛は「ふむ」と考えた。
「しかし、木村様が意味のないことをするとは思えませぬ。……きっと、これも何か考えあってのことに違いありませぬ……」
そう言われると、そんな気がしてしまう。
木村吉清は突然30万石の大名の任命されはしたが、堅実に領地を治め、明侵攻でも一番の武功を持つ名将だと聞いている。
その木村吉清がそう命じたのなら、この采配にも意味があるというのか……。
そうして、蠣崎行広は長兵衛に渋々従うのだった。
樺太に築かれた町の中で最大規模を誇る町──樺南に足を踏み入れ、蠣崎行広は驚愕した。
松前家が渡島半島を治めて100年余りが経過した。時にはアイヌと戦い、時には協力して和人地を栄えさせてきたが、木村家の樺太統治はその比ではなかった。
松前最大の港町である宇須岸の10倍はあろうかという町並みに、和人の商人とアイヌが混ざって生活を営んでいる。
交易や商業が盛んで、蝦夷よりも寒い土地だというのに人々には熱気が溢れていた。
「ずいぶんと栄えておりますな……」
「始めは何もない原野でしたが、土地を拓き商いの元に発展させたのです。米が採れぬことを除けば、案外豊かな土地です」
そう言って、長兵衛は笑った。
蝦夷より北にある樺太でさえこれなのだ。同じことを蝦夷でもやれば、ここを上回る発展が見込めるのではないか。
まだ見ぬ未来に思いを馳せ、蠣崎行広は密かに興奮するのだった。
長兵衛の元で奉公をして、いくつかわかったことがある。
それは、武士ではなく商人主体で町を発展させており、武士は商人から税を徴収していることだ。
そうして、各地に築かれた漁村で魚を捉え内地の村へ売り、その見返りに芋や麦を買っている。
松前家では蝦夷では米が採れないと諦め、内地との交易によって米を獲得していた。
しかし、木村家の統治はそもそも米にこだわる必要がないのだと暗に言っているようであった。
武士として米経済の元に生きてきた蠣崎行広にとって、まさに青天の霹靂であった。
帳簿を見て、蠣崎行広は驚愕した。
「蝦夷の海で採れた魚や海藻が、内地でそれほど高値で売れるのですか!?」
「北の海で捕れる魚は油が乗っており、京でよく売れます。それに、日干しにしておけば痛みにくくなりますゆえ、いくらとっても損はありません」
行広の帳簿をめくり、次のページを開く。
「また、昆布は日ノ本のみならず、遠く明国でも売れます」
「しかし、明は遠いぞ。それこそ、九州や朝鮮の向こうにあるのだろう? そんなところにまで売りに行くというのか?」
「いいえ、樺太の西へ行けば、大陸がございます。そこで暮らす民を仲介すれば、わけなく明と交易ができるのです」
松前家でも蝦夷に住むアイヌとよく交易をする。
その時は深く考えずアイヌの産物と交換しているつもりだったが、その先に明があったのか。
この方法を使えば、明との朱印状を得られずとも、大陸とも交易できる。
かつて、大陸との交易で栄華を極めた家をいくつも知っているだけに、樺太はまだまだ発展するのだと思い知った。
木村家の治める樺太を見て、蠣崎行広は自らの考えを改めた。
何も、既に跡継ぎの決まった松前家に固執する必要はないのだ。
木村家の支援を得て蝦夷の地を開発する。
そうして、新たに分家を興し、樺太に負けない町を作るのだ、と。
後に、千島列島に領地を得た蠣崎行広は、カムチャッカやアラスカまで食指を伸ばし、同地に日本人町を建設していくのだった。
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