文禄の役で抜群の働きをした木村家は、他の大名たちから一目置かれる存在となっていた。
中でも、吉清の与力となり、名護屋に参陣した東北の大名たちからは高い評価を獲得していた。
豊臣政権における重鎮である、徳川、前田。それらと比肩する影響力を奥州で持つに至ったのだ。
そうした経緯もあり、津軽、松前、南部、秋田から当主の息子や重臣の子息が送られてきた。
表向きの理由としては、彼らを小姓として、吉清の元で勉強させて欲しいとのことだ。
実際には、小姓というテイではあるが、木村家にとっては事実上の人質であり、必要とあれば本家に情報を流すスパイの働きもする。
だが、それ以上に利益の方が大きかった。
将来、彼らが家中で要職に就き影響力を増せば、労せず親木村派の大名が誕生するというわけだ。
そうした大人の事情がありながらも、子息たちは希望を胸に木村領行きの船に乗り込んだ。
木村家で知識や教養を身に着け、家の役に立ち、願わくば重臣として重用されること。
それが、大名の子として生まれながら、後継者の道が閉ざされた彼らの新たな生きる道であった。
木村家への出向は、そうした彼らのキャリアアップとしては最適と言えた。
期待に胸を膨らませ、木村領へ向かった彼らは、それからすぐに思い知ることになるのだった。
──木村家の人使いの荒さを。
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