「いやいや、これ、逃げ場なんてもうないですよってか?」
「ユーぅ。強酸耐性みたいなのぉ、あるぅ?」
「鎧が堪えれればワンチャン」
大久保雄大は体を完全にヒュドラの方へ向かせ、大剣の切っ先を突き付けるように構える。
瀬名さんはハンマーの頭を支えながら、手持ちを持っている。
「ネア、悪いけど」
「ああ、後は任せろ」
そう言って、ネアは由人さんから結衣ちゃんを受け取る。
見た目は両脇に女の子二人を抱えている男の図。
間抜けにも見える。この際文句は言いっこなし。
「ゆうにい……?」
「だーいじょうぶだ。結衣、お前は一足先に上へ行ってろ。すぐに追いつく」
安心させるためなのか、軽い調子で言う彼の視線は、ヒュドラから固定されたまま動かない。
今生の別れ。
その言葉が頭を過ぎったのか、結衣ちゃんの目には涙が浮かんでいた。
「また口から出まかせですか!」
私の声が空気を切り裂く。
彼は決して振り向きはしないけれど。
「今度も嘘を言ったら、絶対許さない!」
ヒュドラの首がもたげられる。
強酸が地面に垂れ、雪を、その下にある土を溶かす音が聞こえてくる。
「絶対生きて戻って来てよ! じゃないと、結衣ちゃんが悲しむ!」
「ネア、行け!」
ネアの背中を押し出す声。
弾かれたように走り出すネアの背後、彼らが段々と小さくなっていった。
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「とっても愛されているじゃないのぉ」
一寸の油断も許されない状況で、緊張した面持ちのまま、瀬名が雄大に話しかける。
「恵美はツンデレ、らしいからな。結衣曰く」
「しかも純粋に素直でいい子よねぇ。顔に言いたいことがありありと浮かんで来てぇ、面白かったわぁ」
「えー? 純粋は分かるけど、素直? 僕には大分、素直になれなくて拗らせているように見えたけど」
「あらぁ、親戚のお兄ちゃんと仲良くなりたいけどきっかけを掴めない、小さな子に見えたわよぉ」
雄大は首をぽきっと鳴らす。
大剣は、雪の光を反射する。
「作戦はどうする?」
「そうだね、最終目標は?」
「できれば生還。できなければ……」
雄大は脳裏に、恋人とデートした日を思い出す。
にっこり笑む脳内の彼女は、あの素直になれない妹をよろしく。と言っているように映っては消えていく。
その、素直になれない妹は、たった今、雄大に生きて戻って来いと言ったばかりだ。
(約束を守れなければ、今度こそ嫌われるな)
雄大はふ、と微笑む。
とても穏やかな気持ちだった。
「……できなくても生還! ただし、先に上がってった三人を逃がしてからな!」
「オーケィ! それならヒュドラの首を切り落とさずに潰せ! 速度を上げさせるな!」
「無茶を言う! 瀬名、得意分野だろ!」
「もっちろんよぉ!」
言うが早いか、雄大はヒュドラの足元に切り込んでいく。
叩き込んだ斬撃はヒュドラの脚を切り落とすまではできなかったが、彼の身体を大きく傾けるだけの威力はあった。
強酸を撒き散らせながら、ヒュドラは地面へとよろめく。
その好機を逃すまいと、ヒュドラの頭上から、人間が扱うにしては大きく重い、金属の塊が振り下ろされる。
落下運動の威力も手伝って、瀬名が振り下ろしたハンマーは、ヒュドラの頭、九つあるうちのひとつを潰す。
ゴキ、と、頭蓋骨が粉砕された音が鳴る。
「―――――!!」
不気味な、ひどく不気味な地を這う叫び声が、辺り一面に響く。
残った八つの頭が、痛みに悶え、苦しむようにのたうった。
「避けろ! 酸が降る!」
由人の注意喚起。
しかし、咄嗟に回避できなかったものがひとり。
「ぐぅっ!!」
ヒュドラのちょうど足元にいた雄大だ。
彼は降りかかってきた酸のすべてを避けきることができず、頬から首筋にかけて焼かれてしまう。
肉の焼けるにおいが鼻に突く。
「ユー!」
「があぁっ!! 来るな! 俺に構うな! もうひとつ潰せ!」
肉の溶ける激痛。
彼は、それをものともしない超人にはなれなかった。
痛みに悶え、それでも必死にその場を避ける。
その間に、態勢を整えようとするヒュドラの頭のもうひとつが潰された。
「追撃、行けるか?!」
「いや、無理だ!」
由人はふたりに、走れ! と檄を飛ばす。
言われるがまま、ふたりは由人の方へ駆け寄る。
彼はそのまま背を向け、宝石の道を目掛けて走っていく。
「後追い厳禁ってか?!」
「いや、違う! とにかく今は走れ!」
「理由はぁ?!」
「理由なんてすぐにわかる!」
必死にヒュドラから背を向けて走る三人を追いかけるように響く地鳴り。
雄大はヒュドラが追いかけてきている足音か、と思ったものの、どうもその種類が違うことに気が付く。
言ってしまえば、ヒュドラの足音は、時々不協和音が如くリズムが崩れる、一定のリズム感を持った地鳴り。
しかしこの地鳴りは、連続して響いている。
そう、まるで、大量の魔物が後から追いかけてきているような。
「……雪崩かよ!」
魔物よりもはるかに厄介な、稀に起こるはずの、平原の雪崩。
それがヒュドラの背後から、彼らを責め立てるように流れてきていた。
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