「おねえちゃん。スタンピードだって」
「そうみたいね」
「ここ、該当地域になってるよ」
「ええ、そうね」
テレビからスタンピードが発生したというニュースが流れた。
普通ならば慌てるようなところを、私は平然と受け止めている。
どうしてか、大丈夫なんて、根拠のない自信が湧いていたから。
姉も似たような感じなのか、取り乱すこともなく穏やかで。
何だったらお湯まで沸かしている。
「避難はしなくていいの?」
「するわよ。まずは恵美のお話を聞いてからね」
私は椅子に深く腰掛け直し、呆れた溜息を吐きながら頬杖をつく。
「避難場所でも話せるだろうに」
「あら、避難場所はプライバシーなんてあってもないようなものよ。他人の秘密を話すだけで聞き耳を立てられるような場所で、恵美は大事な話をしたいと思う?」
肩を竦める。
私の顔には苦笑が浮かんでいることだろう。
「思わない」
「でしょう」
同意をする私に、どこか嬉しそうに相槌を打つ姉。
彼女は、さて……。と前置きをした後に口を開く。
「何から話せばいいかしらね……」
そんなに話すことが多いのか。
悩む素振りを見せる姉に対して、私は口火を切る。
「私は何かを忘れているの?」
問いかけに対し、姉は首をひとつ振る。
肯定の動作。
「そうね、恵美の記憶がないのは確かよ」
煮え切らない返事。
確信を話そうとしない姉に対し、焦る気持ちが先走る。
「私、何を忘れているの?」
姉に回答を急かすと、彼女はしばらく瞑目する。
やがて、口を動かす。しかしそれは求めていた答えではなかった。
「それを、以前に教えたことがあったの。記憶が戻らないのを見かねて。そうしたらね……」
姉は一度言葉を切る。
やかんの中身がこぽり、と音を立てた頃、彼女はまた、話し出した。
「よっぽど辛い記憶だったのか、恵美はパニックになったのよ。鬱状態とでも言えばいいのかしら。塞ぎこんじゃってね。しばらく部屋から出てこれなかったわ」
語られるのは私の話。
けれど、私の記憶にない私の話。
「ようやく部屋から出てこれたと思ったら、恵美はまた、その記憶と教えられる前後の記憶をなくしていたわ。覚えていたのは、その時にあった勘違いした記憶だけ」
まだ現実味がない。
私の話をされているのに、だれか別の、他人の話をしているように感じてしまう。
姉は、静かに言葉を落とす。
「それで、恵美が自然に思い出すか、本当に思い出したいと強く願うまで、見守るように関係者で取り決めたの」
姉も、雄大兄ちゃんも、病院の先生も……陽夏も。
私を守るために嘘の記憶に合わせて芝居を打ったのだと、彼女は語る。
ただ、私だけ、それが分からない。
それが悔しい。
思い出したい。
私の頭を埋めるのは、強く感じたその感情だけ。
「おねえちゃん、私、思い出したい」
姉は伏し目がちだった目を上げる。
その目には驚きの様なものは見当たらず、穏やかな、私を試すような光だけが凪いでいる。
「本当に? また忘れてしまうかもしれないわよ。また、忘れられて傷つく人が出るかもしれないわ」
陽夏のことだけじゃない。
私が記憶の彼方から忘却しているという、その人のことも思い出したい。
姉は試すように、あるいは念を押すように私へと問いかけてくる。
「それでも本当に思い出したい?」
ひとつ、深呼吸。
姉の目を見る。
じっと見つめながら、はっきりとした口調で告げる。
声は震えなかった。
「……思い出したい」
再び瞑目する姉。
沈黙が降りた部屋の中で、空気を読まずにやかんが甲高い音を鳴らす。
お湯の沸けた音。
それを合図として、姉はゆっくりと目を開く。
「そうね。それなら、少し長い話になるけど……。ああ、ちょっと待ってて」
彼女が手に取ったマグカップがふたつ。
瓶に入った液体を流し入れ、その上からお湯をかける。
マドラーでくるくると回したそれを、姉は机の上に置いた。
「はい、これを飲みながら話しましょう」
「これは?」
湯気に乗って鼻をくすぐるのは、嗅ぎ慣れたアッサムの匂い。
夏場のアイスティーでも好んで使われていた茶葉。
姉はふうふうと冷ましながら、一口、それを飲む。
「ティーシロップのお湯割り」
「どうしてこれを?」
姉は微笑む。
そして、彼女は裏口へと視線を向ける。
どこか懐かしい思い出でも覗き込んでいるように。
「実はね、恵美がショックを受けずに自然と記憶を取り戻せるシロップやポーションを探していたの。だけど、その素材を探しに行ける身体じゃないでしょう? わたし」
姉の自虐に返す言葉が見つからない。
そんな私の内心を知ってか知らずか、彼女は話し続けている。
「だからね、頼んでいたの。おすそ分けをよく持ってきてくれる集荷のお兄さんが来ていたじゃない? あれ、雄大だったのよ」
「雄大兄ちゃんが?」
初めて知る情報に目を丸くする。
そんな私を見て、姉は楽しそうに目元を緩めた。
「ええ。色々な素材を探してはこれはどうか、あれはどうかって試行錯誤ができるようにね。でも、結局見つからなかったわ」
「……これは、記憶を戻すシロップでも、ポーションでもないんだね」
「ええ。だから、記憶を戻すのは恵美自身に頑張ってもらうしかないの。わたしにできるのは話すことと……。このシロップを、作ってあげることだけ」
もう一度香りを嗅ぐ。
嗅ぎ慣れた、落ち着く香り。
「このティーシロップは、心を落ち着ける効能しかないわ。でも、ショックを少しでも和らげてくれるって信じている」
少し冷めた頃合いか。
私はそっと、マグカップに口を付ける。
騒めいていた心が、凪のように落ち着いて行くのが分かる。
心なしか、思考もクリアになっている。
私は姉の方をそっと見た。
彼女は一回、力強く頷いた。
「それじゃあ、お話しましょう。少し長い思い出を」
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