「疲労が溜まっているのでしょう」
「疲労……ですか?」
幼いころから世話になっている、家の近所の個人病院。
個人経営でやっているそこは、確か今年で四十周年を迎えるらしい。
随分と長く続いている病院の院長は、ロマンスグレーの髪を整えた紳士。
老若男女、分け隔てなく優しく接してくれるから、町内でも人気の先生だ。
「恐らく、疲労による頭痛、それに伴う白昼夢のようなものを見たのでしょうね」
「でも先生、白昼夢ってはっきりと見えるものなんですか?」
果たしてあんなにはっきりと、知らない情景が映るものなのだろうか。
問いかけに微笑む先生は、「そういうこともあるでしょう」と肯定とも否定とも取れない、曖昧な返答を返す。
「とにかく、今日はゆっくり休んでください。ちゃんと食事をして睡眠をとること。明日、体調が優れない場合は、学校をお休みすることも視野に入れた方がいいかもしれませんね。頭痛が再発した時用に、頭痛薬お出ししておきます」
それではお大事に。
そう、診察室を出された私は、釈然としない思いを抱えたまま受付前のロビーへと向かう。
「おつ。どだった?」
「なんかね、疲労だって」
「疲労かぁ。……ま、メグ夏休み中ずっと頑張ってたみたいだし。体調良くなるまで休めばいいさー」
「うーん、なんかすっごく腑に落ちないけど……。そうするよ」
支払いを終え、病院を出る。
家路につく足並みは揃い、西側に傾き始めた夕焼けが私たちを照らす。
やけに赤いその光に目を細めると、いつの間にか頭痛が収まっていることに気が付く。
「なんか、頭痛治まった」
「お、よかったじゃん。でもちゃんと休めー? また頭痛くなるかもしれんしさ」
「うん。今日は帰ったらすぐ休むよ」
陽夏の忠告に、素直に頷く。
いつの間にか家に辿り着いていた。
「ちょっとカナタさんに状況説明だけしとくわ。メグは着替えてきなー」
「ありがとうね、陽夏」
「どってこと。あ、ただ病院の診察はメグから説明しなね? ウチ、診察室までは同行してないし」
「もちろん」
裏口の扉を開けてすぐ、見慣れたキッチンが目に入る。
姉は見当たらない。店の方か、それとも部屋か。
「お帰り、ふたりとも、早かったのね」
「ただいま、おねえちゃん。ちょっと頭痛くなっちゃって」
「あら、大丈夫?」
心配そうに近付いてくる姉は、部屋の方から出てきた。
私は靴を揃えて上がり、陽夏に向き直る。
「お願いします」
「ん、任せとけ」
陽夏が姉に説明を始める。
その声を背中に聞きながら、私は自分の部屋へと入り、扉を閉める。
(……落ち着く)
慣れた自身の匂いに包まれ、人心地つく。
そうして私は、白昼夢だと断じられたあの映像を思い返す。
(……顔は見えなかったけど、知らない人だった。女の子の声も、聞いたことがない)
それなら、あれは誰だったのだろう。
何故私は、知らない人たちの風景を見たのだろう。
何故私は、その映像を見て頭痛を起こしてしまったのだろう。
考えれば考えるほどわからなくなってくる。
頭痛は治まったが、今度は知恵熱が出てきそうだ。
(……新月。ネア・セリニ……?)
ああ、そういえば同じ読みの同じイントネーションを持った名前の人が、ひとりいた。
私は前髪に隠れたあの目を思い出す。
茶色みも青みもかかっていない純粋な黒。
あれも、きっと新月に似ている。
(ネアは新月……? まさかね。新月って名前の人、見たことないもん)
そもそも、あの男の人はきっとネアじゃない。
雰囲気は似ているような、似ていないような。
ただ、顔も表情も見えない人。きっとネアじゃなかった。
(もしかして、ネアが好きだって感情が、似た人物像を白昼夢として見せた? ……どうしよう、ありえるだけに何にも言えない……)
顔に集まった熱を冷ましながら、部屋から出る。
静かなキッチンには、姉だけがいた。
「陽夏、帰ったの?」
「ええ。メグの体調を心配してくれてね」
「そっか。また学校行ったらお礼言わなきゃ」
「そうしなさい。……それで、お医者さんはなんて?」
姉に促されて座った席。
正面には、心配そうな姉の顔。
「疲労だって。記憶にない映像も、白昼夢のようなものだって言われたよ」
「そう……。大事ないならよかった」
心底安堵した風に、姉は深いため息を吐く。
「頭痛ももう治まっているし、問題ないと思うけど、今日は早めに休むね」
「ええ、そうした方がいいわ」
夕飯は姉が作ってくれると言ってくれたため、それに甘えることにした。
部屋に入る直前、ふと思い出し、私は姉を振り返って見る。
「そういえば、ネアの本名って新月?」
不意を突かれたと言いたげに、姉は一瞬固まり私を見る。
しかし、その首は緩慢な動作で横に振られた。
「いいえ、違うわよ」
「そっかぁ。だよね、新月って名前の人、見たことないし……」
いたとすれば、ずいぶん珍しい名前だな、なんて思って記憶に残る自信がある。
姉に、「どうして?」と尋ねられたから、「なんでもない」と誤魔化して部屋に入る。
閉じられた扉が、やけに重く感じた。
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