体育館を抜け出し、本館に戻ってきたところで、オレたちは新たな障害に遭遇した。
怪物ではない。肉体を伴わない存在――悪霊だ。
「お、お母さん――」
ミイナちゃんが呟く。……オレにも分かった。その姿は人ならざるものに歪んでしまっても。
間違いなく彼女は、オレの大切なミイちゃんだった。
「待ってろ、すぐに助けてやるから……!」
ミオさんから託されたビンを強く握り締めながら、オレはミイナちゃんとともに、二年一組目指して走り出す。
幸いにも、悪霊となったミイちゃんの動きはそこまで速くなかった。ミイナちゃんに気を遣いつつも、急いで中階段を駆け上がり、二年一組の教室前まで到着する。
閉まっている扉に鍵を挿し込み、ガチャリと回してから、鍵を乱暴に抜いてオレたちは教室内へ飛び込んだ。
「……ミイちゃん」
どれだけ長いこと、君は俺を待っていたんだろうな。
ナイフを突き立てられた亡骸の前に、オレはそっと膝をつく。
「ごめん。……今、助けるよ」
そうしてビンの蓋を外し……ミオさんがやっていたように、清めの水を彼女の体に振り撒いて。
静かに、祈りを捧げた。
「お母さん――」
刹那、光が室内を満たす。
とても温かな、包み込まれるような光。
この悪しき空間に満ちた邪気を振り払うかのように放たれた光は、やがて一つの人影になる。
ほかでもない、オレの大切なミイちゃんの姿。
「……ここ、は……」
正しい魂の在り方を取り戻したミイちゃんが、驚きながら自身の両手を見つめる。
大人びた彼女の姿に、オレは愛おしさを感じつつも、同時に残酷な時の流れもまた感じた。
二十年。長すぎる時間だ。
「……ユウくん?」
亡骸の前のオレに気付いた彼女は、オレのあだ名を呼んだ。
たとえ体が息子のものであっても、彼女はすぐに分かってくれたようだ。
「本当に、ユウくんなの?」
「……うん」
泣きそうになるのを堪えながら、オレは気障ったらしく答えてみせる。
「オレは正真正銘、新垣勇作だよ。あの日のままの、さ」
「ユウ、くん……」
だけど、駄目だった。
遮二無二抱き着いてくる彼女に、オレは結局、最後まで涙を我慢することなんて、出来やしなかった。
*
「……はあ」
用具室の地下階段を下りた先。
中世の地下牢にも似た研究室の中で、円藤深央は重い溜息を一つ、吐いた。
黒木圭――彼の友人であった少年。今はもう、狂った怪物に変わり果てたその少年との攻防の末、彼は清めの水がある場所まで怪物を誘導し、掬った水を浴びせて何とか退けることに成功したのだった。
「あいつはまだ、あいつなのかな。それとももう、ただの怪物なのか。まあ、元から怪物だったと言えばそれまでだけど……」
出会った当初……表向きは今時の大学生という印象しかなかったケイは、とある事件でその異常性を発露させ、ミオや周囲の人間から悉く幸せを奪い去っていった。
事件の後になってから、彼の本性は詳らかにされていったのだが……ミオは今でもまだ、信じられないという思いが完全には拭いきれていなかった。
どうして、ケイは。
「……ん?」
物思いに耽っていたところで、ミオは自分しかいない筈の室内で、奇妙な音がするのに気が付く。
注意深く耳を傾けると、それは音ではなく女性がすすり泣く声だった。
声のする方へ、ミオは足を向ける。
すると壁に背中をつけ、膝を抱えて座り込んでいる少女の霊がいた。
三年生の教室でミオが浄化した、吉元詠子という女子生徒だ。
「……君、エイコちゃん……だったね?」
「……はい」
「……大丈夫かな」
「ええ……もう、平気です」
そう口にするものの、とても平気とは思えない。ミオは頷きつつ、彼女から本心を聞き出そうと更に言葉を重ねる。
「……でも、何か心残りがある」
「……私、謝りたかったんです。ただ、それだけだった……」
「どういうことかな?」
「……私は、何も知らなかったんです。いえ、まだ何も知らないままなんでしょうけど」
涙をそっと拭って。
エイコはミオの方へ顔を上げる。
「数日前、私はユウキくんに……告白したんですよ」
「告白……」
「……はい」
でも、と彼女は呟く。
「ユウキくんは……寂しそうに微笑んで、私の元から去っていったんです」
そして彼女は、自らと新垣勇気を巡る物語を、打ち明け始めた。
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