「ここも問題なく開けられそうだ」
ソウシが鍵を挿し、解錠して扉を開く。
蝶番が今にも外れてしまいそうな扉が開き切ると、その先には一辺がほんの五、六メートルほどしかない空間が待っていた。
まるで洗面所のような場所だったが、もちろんそんなわけはなく。
部屋の中央には盛り上がった部分があり、その中心部だけが窪んでいて、窪みには澄み切った水が揺らめいているのだった。
間違いない、これが……。
「これが清めの水、か。一見普通の水って感じだが……」
スマートフォンのライトを当てつつ、ソウシはじろじろと水を確認する。だが、どれだけ確認したところでただの水に見えることには変わりない。
そのうち彼は諦めて、
「とりあえず、水筒に入れて持っていかなくちゃな」
「ああ、さっさと戻ろう」
俺たちは水筒の蓋を開け、中身が無いことを確かめてから、それを清めの水の中へと沈めて満杯まで汲み取った。
これがただの水ではないと、確かめる方法でもあれば良いのだが……。
「――ん?」
そんなことを考えているとき。
何かが視界の隅で揺れ動いたような気がした。
今度は鼠でも虫でもなさそうだ。
だとすると、今のは……。
「……ミツヤ、あれ」
ソウシが入口の方を指さした。扉は開けっ放しになっており、牢のある部屋がここから見える。
彼が示しているのは、こちら側からその部屋へ移動していく――半透明の存在だった。
「今のは……」
「……はは、笑うしかねえな。今のも霊らしいぜ、それも……子どもの霊だった」
背丈からすると、ソウシの言うようにあの霊が子どもなのは間違いなさそうだ。精神的な面では不明としても。
近付いても大丈夫かどうかは分からないが、いずれにせよ帰路は一つしかない。追いかけてくるようなら逃げる、そういう心積もりでいればいいだろう。
なるべく足音を殺しながら牢屋まで戻ると、鉄格子の向こうに子どもの霊は浮かんでいた。こちらを向いていたので驚いたが、その振舞いを見る限り、敵意はないようだ。
俺とソウシは互いに顔を見合わせる。このまま霊をスルーしても良かったが、何かを訴えているようなあの子の目が、俺たちの良心を苛んだのだ。
その場で動けないでいると、子どもの霊は鉄格子をすり抜けてこちらまでやって来た。やはり霊体は障害物をすり抜けることもできるようだ。感心しながらも、その距離感には流石に怖くなり、俺もソウシも少しばかり仰け反ってしまう。
『……ふふ、大丈夫だよ。僕は何とか、悪霊にはなってないから』
「……え?」
霊が喋った。当たり前のように、微笑みさえ浮かべながら。
こんなにも明確な意思疎通が可能とは。正直言って予想外だった。
その子はふらりふらりと漂いながら、俺たちに語り掛けてくる。
『このお屋敷に人がいるのは、久しぶりなんだ。そう……あの男の人以来かな』
「あの男って……湯越さんか?」
『名前は知らないけど……大人の男の人』
大人の男なら、やはり思い当たるのは湯越郁斗しかいない。しかし、この子が実験の犠牲者だとすると辻褄が合わない。
この子が恨みを抱いているようには見えないからだ。
『ねえ、お兄さんたち。よかったら、僕も他の子みたいに旅立たせてくれないかな。実験室にある僕の体を、どうかその水で清めてくれないかな……』
「他の子みたいに……ってことは、君以外にも霊がいて、その子たちはもう旅立っていったのか?」
『うん。あの人が旅立たせてくれたから』
「それって……」
伍横町で広まっていた、湯越郁斗による人体実験の噂。
それが今、覆されようとしている。
彼は人を殺めた罪人ではなく。
霊を現世の軛から解放した、心優しき人物ということなのだろうか……。
「……実験室、か。君を救うには、そこで君の体を見つけて清めの水を振りかければいいんだな?」
『うん。お願いしてもいい?』
「断るわけにもいかないだろ。……行ってくるよ」
『えへへ。ありがとう、お兄さんたち』
「ってことで、ちょいと寄り道するけど構わないか、ミツヤ」
「このタイミングで聞くなよ。それこそ断るわけにもいかないだろ」
「はは、そう言ってくれると思ったぜ」
確信犯だな、コイツ。……断るつもりは毛頭なかったけど。
「清めの水の効力を試す良い機会にもなる。早く行って、解放してやるとしよう」
「了解。さっさと行こうか」
俺たちが歩き始めると、後ろから男の子もついてきた。足音はなかったが、幽霊にも足がしっかり存在していたのはちょっとした発見だった。
実験室へ続く扉。そこに掛かっている鍵の番号については、男の子にも分からないようだった。以前住んでいた男は何度か中へ入っていたらしいのだが、流石にどんな数字だったかまでは見ていないそうだ。
「虱潰しでやるか……?」
苦々しい表情でソウシは言う。まあ、それが現実的でない方法なのは分かっているだろう。一万通りも試している暇なんてない。
恐らく、どこかに手掛かりが隠されているはずだ。
部屋の中にあるものを手当たり次第に見ていくことにした俺たちは、北と南で分担して作業を開始した。本棚や木箱など、怪しい所は沢山ある。
「うわっ……汚ねえ」
虫の死骸などが転がり出てきたりしたので、精神的な負担はもしかしたら数字を虱潰しにあたるよりも大きかったかもしれない。しかし、
「お……これはツイてるぞ」
ソウシが僅か五分ほどでヒントとなる紙切れを発見できたのは、まさにツイてるとしか言いようがなかった。
「数字が書かれてるのか?」
「いや、いわゆる謎解き系だな。いつの時代かは知らないが、セキュリティを考えて直接は書かなかったらしい」
本の間から見つけたというその紙切れには、こう書かれていた。
【我が隊の叡智の結晶たる成果物。其れに付与された季節と、いずれ量産を計画している山の名を暗証番号とす】
「……我が隊?」
「いつの時代かって、こりゃあ……」
俺たちは二人……戦慄する。
この地下室は、まさか。
数年前にできたものなどではなく、もっと昔。
戦時下に造られたものなのではないか。
そして、ここを造ったのは――。
「……この紙切れ、本の間に挟まってたんだけどよ。どうもここに並んでるのがおかしいジャンルだなって疑問だったけど、これもヒントか」
本のタイトルは日本の名山。紙が挟まっていたのは、ちょうど摩耶山を紹介するページだった。
なら、山の名というのは摩耶山のことだろう。数字で表すならば、08……というところか。
「半分はこれでいいとして、もう半分……叡智の結晶たる成果物って何だよ」
「それが何なのかは分からない。……でも、ソウシ。名前を推測することならできる」
「……待て待て。それは」
季節が付与されていること。
この屋敷の地下に実験室があること。
二つのヒントから導き出される尤もらしいワードは一つだ。
「――霧夏」
霧夏邸という名前を、ぼんやりとだが人の名前だろうかと考えたこともあったけれど。
事実は恐らく、まるで異なっているのだ。
「夏。数字にすれば72……か。二つ合わせると」
7208。ソウシが錠のダイヤルを回してその数字に合わせたとき、錠は簡単に外れ、地面に転がった。
「正解、だったみたいだな」
「……ああ」
喜びが沸き上がる反面、この先に待つものが恐ろしいとも感じる。
扉の向こう、実験室にあるのはまず間違いなく、霧夏と名付けられた叡智の結晶たる成果物なのだ。
遠い昔、非人道的な実験を繰り返して作られたのであろう成果物。
それが良いものだとは、とても思えなかった。
「……覚悟はいいか」
「聞く意味もないだろ」
結局、進むしかないのだ。
そこにどんな真実が眠っていようとも……。
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