夕焼けが、最後の抵抗とばかりに紅い光を町へ落としている。
雑踏もどこか遠くへ消え去り、ともすれば全てが死に絶えたような静寂が満ちていた。
半分だけカーテンの開かれた窓から、射し込む紅をぼんやりと眺めながら、少年は短く息を吐いた。
「……もう夕方か。今日は帰ろうかな」
彼は組んでいた足を戻しておもむろに立ち上がると、同室していたもう一人に視線を投げかける。
「また明日、ね」
……しかし、その返事も、或いは見つめ返す視線すらも、相手から得られる事はないのだ。
この小さな病室のベッドで、少女はもう長い時間を眠り続けていた。
「いつになったら、彼女は目を覚ましてくれるんだろうな」
もう何度目かの自問。それを口にする度に心は揺らぐ。だから考えるべきではないと分かりつつも、極めて自然にその問いは浮かんできてしまうのだ。
いつになったら、僕は彼女と再会できるのか。
「……駄目だ、彼女にはもう僕しかいない。僕しか、彼女を見舞う人はいなくなってしまったんだから……」
あまりにも残酷な悲劇の連鎖。
その鎖は彼女だけでなく、彼女に関わる多くの者たちを貫いていったのだ。
「明日こそ……そう思い続けていれば、きっといつか目を覚ましてくれる。そう、信じていよう」
無理やりに自分へ言い聞かせると、僕――遠野真澄は、ふらりと病室を後にするのだった。
入院患者たちの個室が並ぶこの廊下は、どうしても見た目以上に薄暗く思えた。それは、今の自分の気持ちが重なり合っているからであろうことは、なんとなく理解しているのだが。
陰鬱な気持ちはいつの日も晴れることなく、むしろ次第にその重さを増していくようだった。
長い廊下。そこにようやく下り階段が現れたとき。
僕は突如として前方に生じた眩い光に呑まれ、思わず目を瞑ってしまった。
夕陽の反射加減か、とも思ったのだが、光は暗がりからふいに発生した。ならば、誰かがライトでも投げ入れたかとすら妄想したのだけど。
……事実は小説よりも奇なり、とはよく言ったものだ。
光が収まったとき、僕の目の前には半透明の人影が、確かに存在していた。
「え――?」
普通の思考では到底理解の及ばぬ光景に、僕は口をポカンと開けたまま黙り込んでしまう。
それをおかしいと感じたのか、目の前の彼女はくすりと笑った。
「き、君は……」
「ふふ、良かった。私のことが見えるみたいで」
何かの冗談ではないのか、と未だに思考は空転を続ける。
しかし、何度瞬きをしても、やはり半透明の彼女が消え去ることはなかった。
「まさか、こんな奇跡みたいなことが起きるとは思わなかったわ……久しぶりね、マスミくん」
「こ、これは一体、どういう……」
あり得ない再会。
あり得ない対話が、確かに成立していて。
これは悪い……いや、良い夢なのかと疑ってしまいそうだ。
頬を抓りたくなるような気持ちにすらなったが、流石にそれは止めておいた。
「信じられないだろうけど、マスミくん。私は今、魂だけの存在になってしまっているの。ある人物が行った降霊術の効果で、この三神院に……というか、伍横町に現れることができたのよ」
「こ、降霊……」
「こんなことになるなんて、私も想像していなかったわ」
あのときと変わらぬ屈託ない笑みで、彼女は話す。
「……本当に、君なのか?」
「もちろん。……ただ、少し事情があって。私はとある役目を担うために、こうして現れたの」
「役目?」
ええ、と彼女は頷く。
「……私は、救済のために来たの。ずっと待ち続けなければいけない苦痛から、あなたたちを救いに」
救済。そんなもの、もう訪れることなどないのではと、内心では諦めかけていた。
でも、現実にこんな、起こり得ぬ奇跡が起きているのだから……その言葉にも不思議な現実味が感じられるのだった。
「はは、そんな希望、本音を言えばもう消えかけていたんだけど……最後の最後で、ようやく願いが届いたってことかな。どうすればいい? 僕はどうすれば、あの子の眠りを覚ますことができるんだい?」
「すぐに信じてくれて、嬉しいわ。流石はマスミくんね」
僕に愛しき女性は、小悪魔的なウインクをこちらに投げかけた。昔のように、僕の心はドキリと高鳴る。
「……あの体に魂が戻らないのは、まだ魂が完全に回復していないからなの。だから、ボロボロになった魂を、治してあげないといけない。あの子の精神世界でも、こっちへ戻るために頑張っているみたいだけれど、その手助けをしてあげたいのよ」
「……抽象的すぎて、その説明は掴み辛いな。まあ、君がこうして現れたように、その治す作業とやらを実際に見れば理解できるんだろうけど」
「すぐに信じてもらえるかは分からないけれど、これからマスミくんにも手伝ってもらいたいの。お願い、マスミくん。……あの子のためにも、協力してほしい」
「そりゃあもちろん。他でもない君の頼みなんだから」
愛する人のために。残された人を救う。
それはとても当たり前のことだと思えた。
「ふふ……ありがと。もうすぐ日が暮れる時間なのに申し訳ないけど、早速行ってもらえるかしら?」
「何処へかな?」
何となくの予想を抱きつつ、僕は彼女に訊ねる。
彼女が返す口の動きは、その予想と違わぬものだった。
「最も思い出の詰まった場所――光井家に、よ」
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