「……ちょっとだけ、現実の世界を見せられる力はあったみたい。魂は、もうほとんど回復してるね」
モノクロの世界で、私とアキノは二人、色のついた現実の世界を見下ろしていた。
滅茶苦茶に欠け落ちた部屋はこちら側とあちら側の境目のようになっていて、大穴の中に現実世界の映像が映し出されていたのだった。
「ありがと、アキノ。最期にミオくんたちの姿を見れて嬉しかったよ」
「……うん」
本心から答えたのだが、やはり強がっているように思われたのだろう。アキノは悲しそうに眉をひそめる。
「ツキノお姉ちゃんが現世に行けなかった理由は、もう分かってるよね?」
「私は死んだばかりで、おまけに魂も壊れかけてた」
「そして、この世界に連れて来られていたから、だよ」
「……ここって、私の記憶で作られた世界なんだもんね」
「……お姉ちゃんの魂を回復させる世界、だよ」
あまり違いがあるようには聞こえなかったが、アキノはそう訂正する。
それが大事なことなのかは分からないけど、私にとっては小さな差異だ。
「……私の役目も、あともう少しだ」
「うん。……ずっと嘘をついて、苦しい思いをさせて、ごめんね」
「いいんだって。もう気持ちの整理はついたんだから。あとは……この魂をお姉ちゃんに与えて、アキノと二人で……一緒に」
アキノと二人、旅立てるのなら怖くはないと思う。
最後に残ったヨウノお姉ちゃんの役にも立てるのだから。
アキノも同じ気持ちでいてくれると思い、彼女の方を見つめたのだが、どうも彼女の表情は晴れなくて。
どうにかその表情を和らげようと、彼女の頭に手を伸ばそうとしたときだった。
「……あのね、ツキノお姉ちゃん――」
アキノが何かを告げようとするのと同時に。
世界は激しい揺れに襲われ、ガラガラと大量の瓦礫が降り注いできたのだった。
「きゃあッ!?」
咄嗟にアキノを押し倒し、瓦礫を躱す。
衝突の危機は回避できたが――今度は総毛立つような悪寒を感じた。
この感覚は……。
「こんなときに……!」
違う、こんなときだからだ。
全ての記憶が戻ろうとする今だからこそ、恐怖もまたその力を増幅させたのだ。
世界の修復と世界の崩壊は紙一重。
私の魂の力が戻るか戻らないかも、紙一重。
ならば、この最後の試練を乗り越えて。
私は完全な魂をヨウノお姉ちゃんに捧げて逝きたい――。
「お姉ちゃん、病室に向かって! 魂の力を奪われる前に……その力で目を覚まさせて!」
「うん!」
アキノの言葉を受けて。
私は全速力で、これまでの旅路を遡り始めた。
私の部屋。
チェス盤とぬいぐるみが置かれた、最も思い入れのある部屋。
この部屋が最後に待っていたのは当然のことだろう。
これほどまでに『ツキノ』を意識させられる部屋なのだから。
部屋を抜け、長い廊下へ。
黒き影は、執拗に私を追ってくる。
この人型はきっと、黒木圭そのもの。
私の記憶に強烈に刻み込まれた、最後にして最大の恐怖。
その毒牙に刺し貫かれないよう、私は走る。
長い長い階段を、上っていく。
「はぁ……はぁ……!」
次は、アキノの部屋だ。
私たちの可愛い妹、アキノの部屋。
五月三日の誕生日を、お姉ちゃんとともに祝ってあげようとして。
けれどもそれは結局、事件のせいで叶うことはなかった。
――あれ?
流れゆく思考の中で、妙な引っ掛かりを覚えたけれど……どうにもその正体は掴めず、まあいいかと気にしないようにする。
今は何より、ここまで修復された魂を病室に持っていくことが肝要だから。
「……お守り……」
部屋の片隅にある勉強机を目にして、ふいに思う。
アキノのお守りを持っていたとき、黒き影を退けることができた。
なら、保険としてお守りを持っていれば、今追いかけてきている影たちもやっつけることができるんじゃないか。
試してみる価値はありそうだ、と。
アキノの部屋を抜け、歪な廊下を抜け。
ヨウノお姉ちゃんの部屋まで戻ってくる。
一番最初の部屋であるこの場所で。
私は赤いお守りを見つけたのだ。
「確かここに……!」
ヨウノお姉ちゃんの勉強机。
その引き出しの中に、赤いお守りがちゃんと入っていた。
影たちは私を貫こうとにじり寄って来る。
そんな影たちに私は――思い切りお守りを投げつけた。
「えいッ!」
お守りが影たちに触れた瞬間、またあのときと同じ皮膚の爛れる音がして。
彼らはギイギイと気味の悪い断末魔の悲鳴を上げながら――消滅したのだった。
世界は、静寂に満たされた。
「……追い、払えた」
消えてくれればラッキー、という考えだったけれど、思惑通りに影はいなくなった。
これで、病室に戻るまでの危険は取り除くことができたわけだ。
記憶世界の崩落も、今は止まっている。
あとは悠々と病室に向かえばいいだけ。
……それだけ、なのだが。
「……誕生日、か」
落ち着いて考えられるようになると、疑問が頭をもたげてくる。
私はどうしてアキノの誕生日を思い出して、違和感を抱いたのだろう。
私が認識していることと、現実の記憶に……微妙なズレがある。
見落としてはいけない、何らかのズレが。
「……お守り」
机の中に入っていたお守りは、赤色だった。
でも……お姉ちゃんが最初に持っていたのって、黄色じゃなかったっけ?
それをアキノが欲しがって、私が諭して……それで結局、そのままの色で納得したんじゃなかったっけ?
なのに……。
「……あの子は」
あの子はいつも、私たちに憧れて。
色々なものを知りたがって、欲しがって。
それが嘘になることも何度かあって。
だから……。
「ねえ、アキノ?」
返事はない。
また、アキノは私の傍からいなくなっていた。
考えたくないけれど……嫌な予感がする。
彼女がまだ何かを隠しているという、確信めいた予感が。
「病室で、待ってるのかな……」
あの場所でこの旅が終わるなら。
そこにきっと、彼女は待っているはずだ。
あの子に、訊ねてみよう。
この魂を捧げるのは、それからでも遅くはない筈だから。
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