二階の北側にある大部屋。そこには大きなピアノが置かれており、かつては音楽室として使われていたようだった。
その部屋の隅に、うずくまる少女。霊ではない、生身の人間である彼女は間違いなく、サツキだった。
「……サツキ」
俺たちが呼び掛けると、サツキはビクリと体を震わせる。
「来ないでッ!」
その有無を言わせぬ剣幕に、俺たちは思わず立ち止まってしまった。
「全部……タカキから聞いたんでしょ? 私のこと……怖い女だって思ってるんでしょ?」
サツキは泣いていた。泣き腫らした目がこちらへ向けられ、そこから止め処なく涙が溢れてくる。
「分かるわよ、そんな目をしてれば。お願いだから、私に構わないで……」
全てを――自分自身さえも否定し、殻に籠ってしまったサツキ。そんな彼女の心を開くなんて困難極まりないけれど。
それでも俺は、タカキから託されている。なら、なんとかしてみせなければ。
「俺たちがどんな目してるって? そんな泣きっぱなしの視界じゃ、俺たちの顔なんてぼやけて見えてやしないだろ。……こんなところに死に場所を求めるなよ、一緒に帰るぞ」
「帰れるわけない。私が一番嫌いな人間に、私自身がなっちゃったのよ? そんなの、許せない。許されないのよ……」
自身の境遇ゆえ、暴力を否定してきたサツキ。
にも拘わらず、恋人も、自分自身もその暴力に囚われて。
許せないと思う気持ちは、当然のことだろう。
でも……たとえ自分では許せなかったとしても。
他の誰かが、そして長い時間が罪を洗い流してくれることもあるのだ。
「サツキ。タカキは元に戻ったとき、サツキを許してあげてほしいって頼んできたんだよ。どうか、責めないでと」
「……タカキ、が」
「ああ……あいつは、お前のことをよく理解してたよ。お前がタカキの正体を知って苦しんだだろうこと、タカキを殺してもっと苦しんだだろうこと。それを理解して、あいつは言ったんだ。そんなに傷つかなくてもいい、全ては自分のせいだし、サツキはもう十分に苦しんでるからってさ……」
たとえ突き放されたとしても。
たとえ命すら奪われたとしても。
あいつは、最期まで山口貴樹らしくあろうとした。
その日々から得たものを愛し、礼を返そうとしたのだ。
そして一番大きかったものは間違いなく……サツキだった。
「……あいつは、馬鹿よ」
サツキは、ポツリと呟く。
「人がそんな簡単に変われるわけないって、酷いこと言って拒絶したのに。あいつはそれでも変わろうとして、ずっと馬鹿正直に突っ走って。それで私に殺されてまで、あいつはまだ優しくあろうとしてたなんて……そんなの、とんでもない大馬鹿よ……」
嗚咽はやがて、慟哭へと変わる。
自らが愛し、けれども手にかけてしまった少年を想って。
サツキは、わんわんと泣きじゃくった。
それを止めるような無粋な真似は、俺たちにできるはずもないのだった。
「……ね。一緒に帰ろう?」
泣き疲れ、彼女の声が聞こえなくなってから。
ハルナは優しく、手を差し伸べた。
「タカキくんはサツキちゃんを、許してくれたんだから」
「……お前が自分を許せなくても。そんなお前を許してくれたタカキのために、生きてくれよ」
許されたのならば、死ぬ必要なんてない。
そう、許されたのならば……。
「……うん。私、皆と一緒に帰る。帰って……罪を償う」
何度もしゃくり上げながら、サツキはなんとかそう答える。
だから、俺たちはようやく安堵することが出来た。
もう、大丈夫だろう。
俺たちは、タカキの願い通りにサツキの心を救えたのだ。
「ごめんね、こんなに迷惑かけて……」
「いいのよ、サツキちゃん」
励ますように、ハルナはポンとサツキの背中を叩く。サツキは未だ流れ落ちる涙を指でそっと拭った。
……それから、こう口にした。
「……あの、でもね」
「何だ?」
「私たちが聞いた声、あるじゃない? 人殺しに罰をって。皆は、それがタカキのものだったって解釈してたけど……それは絶対に違うの」
「……違う?」
あの声。人殺しに罰をと頭の中に響き渡った声が、タカキのものではない……。
サツキがそう語るのには、一つの根拠があった。
「だって、それを私が聞いたのは――」
そう。
……順序だ。
「――タカキを殺してしまう直前のことだったから」
刹那。
世界が赤く染まった。
激しい明滅。
繰り返される赤と黒。
絶望の心象風景。
助けてと懇願する声。
目の前に、悪霊の姿があった。
もう人間であったことも忘れてしまったような、無数の霊たち。
それらが一瞬で、サツキを取り囲むと――。
「……ッあ……ぁ……」
噴き出す鮮血。
止める間などなく。
断ち切られた、首と胴体。
墜落する彼女の頭――。
「サツキちゃんッ! 嫌あああああッ!」
救えたのに。
こんなにもあっさりと。
命が、刈り取られて。
伸ばして、繋がれた手は力を無くして……。
「ちくしょおおおッ!」
舞い踊るような霊たちの揺らめき。
そこに、新たに一つの霊が降臨する。
その霊だけは、まだ人としての形を保っていて。
俺たち三人ともが、その正体をすぐに見極められた。
「ま、まさか……ナツノ」
「ひっ……」
ナツノ。
何年もの間、未練によって縛り付けられた魂。
悔やんでも悔やみきれない、張り裂けそうな想いの奔流――。
彼女はにじり寄って来た。俺たち三人を、引き摺り込むために。
一番近かった、ハルナから。
……駄目だ、それだけは。
せめて彼女だけは、巻き込んでしまうわけにはいかない。
「ミツヤくん!?」
咄嗟の行動だった。
ハルナを突き飛ばした俺は、そのままナツノの霊と接触し、そして――。
――まやくん、
まやくん、
まやくん、
助けて、
まやくん、
助ケテ――
セピア色の風景は、赤の絵の具をボトリと垂らしたように、じわじわと赤く滲んでいく。
霧夏邸の前庭。そこにナツノともう一人、何者かの人影があった。
ナツノは怯えている。向かい合う誰かの手には、大きな石が握られている。
人影は明確なる殺意を以て、ナツノに近づいていた。
「やめて……来ないで……」
死の恐怖に震えながら、ナツノはゆっくりと後退る。
けれど、草に足をとられて、転んでしまう。
「助けて……」
動けなくなったナツノに、人影は無情にも拳を振り上げ。
助けに来てよ、まやくん……。
――世界が、真っ赤に染まった。
「うう……ナツ、ノ……」
奇跡的に、俺は生きていた。
だが、これ以上近づいてしまえばまず間違いなく、死んでしまう。
そのギリギリのところで、ハルナが俺を引っ張ってくれた。
彼女のおかげで、俺は絶体絶命のピンチから脱することが出来た。
「ミツヤくん、大丈夫!?」
「助かった、ハルナ」
「二人とも、早く逃げよう!」
「ああ……!」
もどかしいが、ここに留まっても意味はない。
俺たちは全速力で音楽室から逃げ去るのだった。
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