人気のない受付を通り過ぎ、廊下まで進んでいく。
電気系統がまるで機能していないので、そのままでは数メートル先も判然としなかった。
僕とミオくんはスマートフォンのライト機能を使い、進む先を照らしつつ歩いていく。
……スマートフォンの画面は、圏外を示していた。
「ちょっと待って」
後ろをついてきているヨウノが小さな、しかし緊張感を孕んだ声で僕たちを制止した。
「誰かいるわ」
この空間は霊によって隔離されているらしい。ならば、無関係の人間は排除されていそうなものだが。霊感が強いせいで巻き込まれてしまったとか、そういうこともあるのだろうか。
とにかく一般人なら助けてあげないといけないかもしれない――そんな思いで前方へ光を向けたのだが。
「なッ……?」
慌ててライトをそいつから逸らす。
一瞬だけ照らし出されたその姿は――明らかに人間のそれではなかった。
「何だ……あれは」
血と肉塊が混じり合ったような、おどろおどろしい赤の物体。
辛うじて人型を保っているようなその怪物からは、絶えず赤い雫が滴っていた。
べちゃりべちゃりと音を立てながら、怪物は廊下をゆっくりと歩き回っている。
目的もなく、ただ彷徨っているようだ。
「黒木のように……怪物に成り果てた魂、なのかな。あれは、悪霊になった霊が突然変異的にああなってしまうのかもしれない……」
あのような怪物については、どうやらハルナちゃんも知らなかったらしい。悪霊というのも気になるが、今見た怪物はそれよりも恐ろしい存在なのかどうか。
「何にせよ、やばそうな奴だ。近づかれたらおしまいだろうね」
「私とヨウノお姉ちゃんはともかく、ミオくんとマスミさんは隠れる場所を探さないとですね」
「うん、気を付けて進むことにしよう」
あの怪物に顔はなく、視覚によって見つかる可能性はないように思えた。
ならば音を立てずに進めればなんとかなりそうだ。
人差し指を口の前に立て、静かに進もうと指示してから、僕たちは慎重に、階段へ向かって歩いていく。こんなときに変なたとえをしてしまうが、それはさながら忍者のようでもあった。
もう少しで階段まで辿り着く……そう思って安心しかけたとき、すぐ後方で音が鳴る。
ぴちゃりという、水を打つ音が。
「……ぁ……」
怪物の滴らせた赤い液体を見落として、ミオくんがそこに足を下ろしてしまったのだ。そう、あの怪物にとってはそれがトラップのようなものなのかもしれない。血溜まりを踏み、音を鳴らした者を狙う……そういう仕掛け。
バレていないように、という祈りはすぐ意味を無くした。怪物の粘着質な足音が近づいてきたからだ。距離からすれば階段までは間に合わない。一度どこかへ身を隠すべきだろう。
僕たちはとりあえず、廊下を北側にずっと進んだ突き当たりの部屋へ入ることにした。多少の物音はもう関係ない。なるべく素早く、部屋の中へ滑り込む。
「……ご、ごめんなさい」
扉の内鍵を閉めたところで、ミオくんが小さな声で謝ってきた。自分の不注意だと悔やんでいるようだ。
そんなことを気にしなくてもいいのだが、責任感の強い子だ。謝らずにはいられないのだろう。
「こんな滅茶苦茶な状況だ。どれだけ注意してても想定外は起こるよ。……だからまあ、僕がやってしまったときも許してくれ」
「……はは。ありがとうございます」
ちょっと冗談交じりに言う方が、こう言う場面では効果的だろう。思った通り、ミオくんは笑顔を見せてくれた。
それでいい。
「優しいですね、マスミさんは」
「でしょう? 私の彼氏だもの」
「……聞こえてるから恥ずかしいよ」
「あら、ごめんなさい」
分かってて言ってるんだろうなあ、ヨウノは。
僕は思わず苦笑した。
「……しかし、ここは何の部屋かしら」
偶然入った部屋は、どうも資料室のように思われた。幾つもの棚が並び、その一つ一つにカルテのファイルらしきものがびっしり収まっている。
見てはいけないと思いつつも、興味を覚えて軽く確認したくなる。試しにマ行を調べてみると、すぐにアキノの名前が見つかった。
転落事故。その手術の際のカルテだ。今も入院中である彼女のファイルはときどき追加されているのだろう、他のものよりも分厚い。
ヨウノやツキノちゃんのカルテも並んでいる。それ以外には、ハルナちゃんのものも。僕はミオくんもこの医院はたまにお世話になっているが、カルテが見当たらないことから、この辺りは単なる病気でない特殊ケースの棚なのかもしれない。
犬飼真美、玉川理久、山口貴樹……色々な名前を目で追いながら別の棚に移ると、今度は契約書のようなものが乱雑に積まれていた。相当古いもののようだ。
波出製薬……その名前はたまに耳にする。かつてこの伍横町に本社があった製薬会社だ。随分前に他県へ移転したのだが、今でも元代表者の実家はここにあるとか。
確か……その製薬会社でも事件が起きていたような記憶があるが。
まさか、ね。
他にも気になる資料は並んでいたが、一際異彩を放っていたのは怪しげな参考書だった。
医学書かと思いきや、そのタイトルは魂、という文字から始まっている。『魂の学問的理解』というその書籍は、風見照という学者によって著されたものだった。
魂とは抽象的な概念ではなく、人間の情報が詰まった何らかのエネルギー体ではないかという大胆な仮説から始まり、魂が存在する位置情報を正確に捕捉でき、なおかつ魂に干渉できるエネルギーがあれば、魂の操作を行うことも不可能ではない筈だと、その操作法についてあれこれ思案している。
そしてもしも魂の操作法が確立されるのなら、技術を医療に転用できることもあるのではないかと考え、死者の蘇生や、多重人格者の人格乖離などの治療を一例に挙げている。
中身を要約すると、ざっとこんな感じだった。
風見照、という人物の名前はどこかで聞いたことがあるような気もするけれど、思い出せない。
この参考書は中々古そうだし、少なくとも過去の人物であることは間違いなさそうだが。
「……そろそろいなくなったかしら」
怪物の足音は既になくなっている。あとは待ち伏せしていないかどうかが不安だが、そこはヨウノが壁をすり抜けて確認してくれた。
向こう側にはもう、怪物はいないようだ。
「よし。それじゃあ気をつけながら四階まで上がろう」
「……はい、そうですね」
頷くミオくんの目には、もう失敗したりはしないぞという強い意志が感じられた。
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