「……ここは」
長い眠りから覚めたように、ゆっくりとまぶたを開いて彼女は呟く。
「……そうか。戻れたのね、私……」
自身の手を、足を見つめて。彼女は……湯越留美は、心から安堵したように涙を零した。
「君たちが、私を?」
「まあ、成り行き上というか」
なぜかソウシは照れ隠しするようにそう答えた。女性の涙に弱いのかもしれないな。
「ありがとう、二人とも。おかげで、ようやく私もお父さんと同じ場所へ行くことができる。でも、ここへ来た子たちを酷い目に遭わせちゃったんでしょうね……それについては、本当にごめんなさい」
「いや。留美さんの意思じゃないだろうってのは分かってたんで。それは……謝ることじゃないです」
「……まあ、きっかけを作ってしまったのは、君たちなわけだしね」
俺たちが霧夏邸にやって来ることがなければ、降霊術に興味を持たなければ、こんな惨劇は起きていない。それは確かなことだ。
まあ、考えたところで意味のないことではあるけれど。
「お父さんがここの霊をほとんど鎮めたっていっても、まだ解放されていない霊だっている。降霊術の暴走によって鎖されたこの場所じゃ、私のようにおかしくなって、襲ってくることもあり得るはずだわ」
「降霊術の暴走、か……恐ろしいこともあったもんだ。しかし、ここへ来てからずっと知りたかったんですけど、結局湯越さんがここでやってきたことって、何だったんです?」
ソウシの問いかけに、留美さんは目を逸らし、溜息を吐いた。話すのはあまり気が進まないのだろう。
それでも、囚われてしまった俺たちのために。彼女は知りうる限りの事を語ると答えてくれた。
「……清めの水があるということは、君たちも地下の実験室を見たんでしょう。あれは、当時の日本軍が秘密裏に造っていた毒薬の実験場なのよ」
「……毒薬……」
覚悟はしていたが、実際にそれを断言されるのはショックだった。自分たちの住んでいる町に、かつてそのような施設が存在していたなんて。その『叡智の結晶』のため、何人もの犠牲が出ていたなんて……。
「信じられないと思うけど、残念ながら本当の話。第九陸軍研究所とか言ったかしら、とにかく軍の研究者が毒を散布して敵地を襲撃するっていう計画を立ててたみたい。霧夏……それが毒物兵器の名前だから、ここは霧夏邸と呼ばれてたんだって」
やはり、霧夏というのは毒物の名称だったようだ。散布する毒だから、霧という字が含まれたのだろう。
「つまり、あの地下の牢屋は被験者を閉じこめるためのもので、そんで骸骨は……毒で死んだ被験者ってことなんだよな」
留美さんは小さく頷く。
「霊が出るという噂を聞きつけたお父さんは、すぐに霊を降ろすのに適した場所だと思い、この霧夏邸を購入したみたい。でも、地下にあった実験場を見て、噂になっていた霊が実験によって毒殺された身寄りのない子どもたちだったと知った。呼び出した霊たちの声を聞いて……ね。以来、お父さんは子どもの霊たちを解放するために力を尽くした。世間から狂人と思われても、意にも介さずに。私に会いたいという気持ちもあったでしょうけど、お父さんは優しかったから。子どもたちの声を無視することなんて、出来なかったんでしょうね……」
「やっぱり湯越さんは、非人道的な実験に手を染めていたわけじゃあなかった……」
「ええ。手を…そして父は霧夏邸を浄化している途中、毒に蝕まれて死んでしまったの。遂に生きているうちに私と再会することなく」
「……なるほどな。変死ってのは、そういうことだったのか。戦争の時代に生まれた軍事兵器が絡んでいたせいで、湯越さんの死は穏便に処理されちまったというわけだ。まさか国が関わってやがるとは……」
恐らく、湯越郁斗に対する怪しげな噂が消えなかったのには、真実を揉み消したい政府側の思惑があったのだろう。結果として霧夏邸は、B級ホラーの設定じみた場所になってしまった……。
「……多分、未練があったとしたらお父さんの方だったんでしょうね。でも、お父さんは未練の怖さをよく理解していたから、こちらへ残ることなく、あちら側へ旅立っていったみたい。今頃は、首を長くして私を待ってるんだと思う」
「いわゆる天国ってとこかな。ありえねえとばかり思ってたがなあ」
「ふふ、そこについては語らないでおくけれど。私は早く、お父さんのところへ行ってあげなくちゃいけないわ。お父さんの望む形では再会出来なかったけれど……また会えたのなら、それだけでお父さんはとても喜んでくれるでしょうから」
生きているうちではなくとも。
死の、その先でまた会えるという奇跡のような事実。
平凡な日常を生きる人間には決して知ることのできなかったこと。
それを知ることができたことは少なくとも、感謝すべきことだった。
「さて……もうそろそろ、ここに留まっていられなくなりそうだけど。最後に一つだけ、忠告をさせて」
「忠告?」
「そう。……今この空間を支配しているのは、私じゃないの。恐ろしいほどの強い怨みから、この空間を作り出した女の子がいるわ。その子の力と、術者たちの力が合わさって、霧夏邸は鎖されたのよ。……だから、その根源を浄化しない限り、この空間を、霊たちの跳梁を封じることは出来ないわ」
「ちょ、ちょっと待ってください! つまり留美さんじゃなく、別の子が俺たちを閉じ込めたと――」
ソウシが慌てて問い質そうとしたとき、再び眩い光が辺りを満たす。それは即ち、タイムリミットを示す光だった。
「ごめんなさい、もう時間みたい。……この空間は、あの子の深い絶望から生まれたけれど……きっと私を救えたように、あの子も救ってあげられると、私は思ってるから――」
光とともに声は遠のいていき、留美さんの輪郭も消えていく。
部屋から暖かな光が消え去ったとき、もう彼女の姿は綺麗さっぱり無くなってしまっていた。
彼女は、愛しき父の元へと旅立ったのだ。長い時を経てやっと……。
「逝っちまった、か。肝心なところを聞けなかったな」
嬉しさと悔しさが入り混じったような微妙な表情で、ソウシは呟く。そして、ふいにこちらを見ると、
「……なあ、ミツヤ。あの子っていうのは誰のことだと思うよ?」
「……それは多分、ナツノちゃんのことなんだろうな」
「……霧岡夏乃ちゃん、か」
「ああ」
誰だって、思い浮かべるとしたら彼女しかいないだろう。既に何度も話題には出てきたのだし。
霧岡夏乃。三年前、霧夏邸でいなくなった少女――。
「昔はお前も遊んでたんだっけ? ハルナと仲が良かった記憶はあるんだが……俺は詳しく知らないんだよな」
「あいつが夕食の席でちらっと言ってたけど、三年前に霧夏邸付近で目撃されたのを最後に行方不明……らしい。マヤは、ナツノちゃんがここへ去られてきたことを示す証拠がないかって、調べるために来たらしいんだけどな。現実的じゃないが、霊による証言なら出てきたわけだ」
留美さんが最後に語った、恐ろしいほどの怨みを持つ女の子。
それはナツノに他ならないと、俺は確信している。
「……霊になってこの屋敷を支配しているということは。彼女の遺体がここにある……そういうことか」
「だと思う」
「根源を正さない限り、この空間と霊を封じることは出来ない、か。……くそっ、まだ終わりじゃねえってことかよ!」
これで解放されると信じていたソウシは、悔しさに顔を歪ませて地団駄を踏んだ。
「……はあ。とにかく、一度皆の所へ戻るか。留美さんのことを報告したいし、本当にまだここから出られないのかも、確かめたいし……な」
無理矢理にでも、冷静さを取り繕うとしているのだろう。ソウシは掠れる声でそう呟く。
そして俺たちは、喜ばしい報告がほとんどないままに、四人の元へ戻るのだった。
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