病室からの唯一の出口である、スライド式の扉を抜ける。
すると、その先には長い廊下が続いていた。
新しいこの場所も、さっきと変わらずモノクロの空間だ。
ここが現実でない、『狭間の世界』だということを嫌でも意識させられる。
廊下は、さっきの部屋よりもひび割れが酷く、奥の方は一メートル以上の溝が生じていた。
私に運動神経はないだろうし、飛び越えるのは難しそうだけど……。
「……あれ」
廊下の壁に、小さな何かが置かれてあるのを私は見つけた。
床がひび割れているので、躓かないよう気を付けながら近づいていくと、それが可愛らしい熊のぬいぐるみであることが分かった。
「……こんなところに、ぬいぐるみか。これも、記憶……じゃなくて、魂の欠片なのかな?」
「そうだとすれば、触れることで何か変化があるんじゃないでしょうか」
「わ、分かった」
促されるまま、私はぬいぐるみに軽く触れてみた。表面はかなり毛羽立っており、相当の年月を経たぬいぐるみであることは見た目と感触からよく分かる。
決して柔らかくはない毛先。その快くはない感触に手を離してしまおうかと思ったそのとき。
触れた手のひらを通して、私の意識に何かが流れ込んでくるような、不思議な感覚がやってきた。
見覚えのある子供部屋。
そこで、ぬいぐるみを渡す女の子と、それを受け取って喜ぶ女の子がいた。
そう……こんなことがあったのを、私は確かに覚えている。
このぬいぐるみは……私がすぐ下の妹、ツキノにあげたものだ。
私、ヨウノから妹のツキノへ。
誕生日プレゼントにと、送ったもの。
もちろん私だって子どもだったから、両親にお願いして買ってもらったわけだけど。
ツキノが喜んでるの、とても嬉しかったな。
あの子、一番下の妹に自慢していたな……。
……もう、随分昔の記憶だ。
三人で……いや、家族全員で楽しく過ごせてた、随分昔の――。
「……うん、思い出した気がする。まだちょっと、借り物みたいな感覚ではあるけど。……これが魂の欠片なのかな」
「はい。そのようですね」
エオスが笑顔で答えてくれる。
その直後、モノクロの世界がガタガタと振動を始めた。
「あっ……」
エオスが廊下の先を指さす。
その方向を見てみると、さっきまで溝が開いていた部分がいつの間にやら塞がっているのだった。
埋められたわけではない。元々そこに欠落などなかったかのように、綺麗な廊下が続いている。
「混沌とした記憶の世界が修復されて、道が出来ましたね」
「こうして記憶を取り戻していけばいいわけか」
この世界に散在するカケラに触れて。
私自身に記憶が戻れば、この世界もまた戻っていく。
そうして世界が修復されれば、私が目覚めることの出来る出口へ辿り着けるんだろう。
「うん。頑張って元の世界へ戻らなきゃ」
「ええ、ファイトです」
エオスに励まされ、私はやってやるぞと気持ちを改める。
私を待つ人のため、こんなところで閉じ込められているわけにはいかない。
長い廊下を越えた先。
倒れた扉を踏み越えると、そこには広々とした部屋があった。
……いや、恐らくオリジナルの部屋はこんなにも広くない。
記憶の欠落によって歪んでしまったゆえに、広く見えるのだ。
その証拠に、さっきの廊下と同じく床がパックリと割れている。
本棚や衣装ケースなども、傷ついてボロボロになっていた。
「……ここは」
「あなたの部屋、かもしれませんね」
確かにエオスの言う通り、レイアウトからして子供部屋のように見える。
ただ、私自身の部屋かどうかは分からなかった。
「ここにも溝があるようです」
「ううん、変てこな世界だね」
「壊れてしまった記憶というのはこういうものですよ、きっと」
「なのかなあ……」
エオスはさっき、自らをこの世界の案内人と説明した。
そんな彼女の言なら、誤りはないのだろう。
きっと、という副詞がついたことは引っ掛かるが。
とりあえず、この部屋でも魂の欠片というものを探さなければいけなさそうだ。
それを見つけることで、溝が塞がり奥へ進めるようになるはず。
「えーっと……」
怪しいものがこちら側にないものか、私は周囲を見回してみた。すると、やや小さめ……と言っても高さは一メートルほどある銅像が三つ、部屋の隅に並んでいた。単なる子供部屋には異質なものだ。これがカギに相違ない。
とりあえず、像を一つ一つ確認していく。精巧な作りというわけではなく、かなり乱雑に彫られた感じで顔貌はのっぺりとしている。胸元が膨らんでいるところからすると、全て女性の像なのだろう。
一番背の高い像。その首辺りに、何やら文字が刻まれている。
……Helios。ヘリオスと言えば、ギリシャ神話の神のはず。エオスに続いて、またしても神話の名前が出てきたわけだ。
ヘリオスの隣に並ぶ像は、同じ部分にセレネと刻まれている。ヘリオス、セレネ、エオス。確かこの三神は、朝や夜を支配する神様だったような気もする。うろ覚えでしかないけれど……。
二人の像の後ろには、一番背丈の低い像がある。これは間違いない、エオスの像だ。注意深く観察してみると、今ここで私を導いてくれている彼女と同じ背格好をしている。だとすると、これは……。
「きゃっ」
エオスの像に触れたとき、脳裏に遠い過去の記憶が一瞬だけ浮かび上がった。それはすぐさま手から零れ落ちるように消えてしまったために、細かな部分は思い出せなかったが、今ここにある像のように三人の幼い子供たちが仲良く並んで写真を撮っている場面のようだった。
「やりましたね」
そんなエオスの言葉が聞こえた。記憶が流れ込んでくる間、気絶しているような感じになっていたようだ。
「何か変わったのかな」
平静を装いつつ訊ねると、エオスは壁際のラックを指差し、
「欠落していた棚の上のものが、修復されたみたいです」
「ああ……分かった。見てみるね」
あの棚にも見覚えがある。……と言うより、記憶を取り戻してきたからこそ思い出せたのか。そう、このラックの上には私がさっき見た光景と同じものが載せられていたはずだ。
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