食堂へと戻る途中。
廊下を歩いていた俺たちは、ふいにカタリという音を耳にした。
何だろう、と周囲に気を払っていると、数歩進んだところでいきなり壁に掛かっていた額が落下したのだった。
「うわっ」
ガラスが割れ、ガシャンという大きな音がする。破片が飛び散ったので、女性陣は慌てて後ろへ退がった。
「どうして突然……」
「そう言えば、サツキも玄関ホールですぐ頭上の剣と盾が落ちてきたんだよな」
「え、ええ……」
「これも霊の仕業だったりするのかね……」
ソウシは呟きながら、地面に落ちた額を確認する。
「これ、詩が書かれてるヤツだな」
湯越郁斗が紡いだいろは歌。夕食後にソウシと二人で話しのネタにしたものだ。
彼はその歌をやけに長時間、黙って見つめたままでいた。
「いろは歌、か……」
「ソウくん?」
気になったユリカちゃんが、おずおずと名前を呼んだとき、ソウシは何かに気付いたように目を見開いた。
「待てよ、まさか」
ソウシは慌てた様子で額全体をくまなく調べ始めた。そして何か怪しいものを発見したのか、これか、と独りごちる。
「なあ、皆――」
彼がその何かを明かそうとしたまさにその瞬間。
世界が赤く明滅を始めた。
「えっ……!?」
電灯があるわけでもない。
他の光源も見当たらない。
それでも世界は血が噴出すように、
赤と黒を繰り返した。
そこにじわりと、寒気を感じ。
確信めいた予感に襲われながら後ろを振り向くと。
そこに、それがいた。
霊が――浮かんでいた。
「なッ……!?」
「ひい……!」
超常的な存在。
それが、目の前にしっかりと存在していた。
腐乱死体のような――或いは悪魔のような、赤黒まだら模様の皮膚。人間のものとは思えぬ顔貌。蝙蝠の羽に似たものが背中から生えており、それはいたるところの骨が露出している。
眼だけは赤く、鋭く。そこには明らかな害意――いや、殺意があって。
少しでも選択を間違えればその瞬間、間違いなく俺たちは死ぬと、本能がそう訴えていた。
「に、逃げなきゃ!」
マヤが叫び、まるで金縛りが解けたかのように俺たちは一斉に走り出した。どこへ行けばいいかなんてことは分からない。ただ、霊とは反対へ。見えなくなるまで、逃げなければ。
「きゃっ!」
悲鳴が聞こえ、走ったまま振り向くと、ユリカちゃんが足を押さえながら倒れていた。焦って逃げたせいで転んでしまったようだ。助けたい。助けたいが――。
「ユリカ!」
素早く対応したのは、やはりソウシだった。彼は額を小脇に抱えながら、ユリカちゃんを器用に抱きかかえ、再び走り出した。
廊下を駈け、玄関ホールを抜けて。反対側の廊下の端まで辿り着いて後ろを確認してみると、そこにはもう霊の姿はなかった。
執拗に追いかけてくる、というわけではないようだ。
とりあえず一安心、なのだろうか。
呼吸を整える間もなく、マヤが声を上げる。
「い、今のヤツ、絶対やばかったよ!?」
「このままじゃ私たち、あいつに殺されちゃうわ……!」
ハルナも恐怖に体を震わせている。いや、ハルナだけではない。サツキもユリカちゃんも、皆顔は蒼白で、今にも倒れてしまいそうなほどだった。
「きっと、タカキくんもあの霊に……」
ユリカちゃんがぼそりと呟くと、サツキは恋人の最期を想起してしまったのか、顔を覆ってしゃがみ込んでしまった。
「ちっ、どうも霊の存在ってのを認めるしかないみたいだな。……けど、殺されてたまるかってんだ」
ソウシは吐き捨てるように言う。そして、全員を見回してから、
「ちょっと、ダイニングに来てくれ。話したいことがある」
「……さっきのいろは歌のことか?」
俺が聞くと、彼はこくりと頷き、
「察しがいいな、その通りだ。……これが打開策になってくれることを願うよ」
と、手に持った額を軽く叩きながら言うのだった。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!