深い闇が広がっていた。
或いは小宇宙のような。限りなく遠い場所にある無数の記憶たちが、暗黒の世界をほんの僅か照らす星々だった。
私とヨウノお姉ちゃんは、アキノの記憶という宇宙の中へ飛び込み、そして漂う。
きっとどこかで泣いているアキノ——愛しい妹を助け出すために。
――ヨウノお姉ちゃんにいつも優しくしてもらえるツキノお姉ちゃんが、羨ましかった。
彼方から響くのは、彼女が心の奥底に秘めてきた思い。
三姉妹の末っ子として、抱き続けてきた思い。
――お姉ちゃんのものが欲しくて、いつだってワガママを言って困らせた。
私たちは、声のする方向を突き止めようと、耳を澄ませる。
果てない深淵で、それは無謀にも近いことではあったけれど。
――三人で幸せになるだなんて、所詮は夢物語なんだって思った。
その最奥で苦しみ続けるアキノのことを思えば、何だってできるような気がした。
――ヨウノお姉ちゃんが黒木にやり返さなければ、私は突き落とされたりしなかっただろう。
声のする方。私もヨウノお姉ちゃんも、同じ方角に進み始める。
大丈夫。私たちは繋がっている。
――眠りの中、私はただずっと、考えていたんだ。私が幸せになれないのなら……誰も幸せになるなと。
だから、アキノ。
苦しまないで。
その苦しみに溺れて、消えていかないで。
――そしてマスミさんが私のそばに来てくれたとき……私はあれだけ呪っておきながら、その幸せを掴もうとした。
私たちは、導かれるように――アキノの元へと辿り着く。
「――そうだよ。私は最低な人間なんだ」
「……アキノ」
深い深い闇の底。
アキノはそこで、膝を抱えて座り込んでいた。
彼女の周囲には黒い霧が垂れ込めていて。
今にも彼女を呑み込んで、その命の灯を奪い去ってしまいそうに思えた。
「昔から、ヨウノお姉ちゃんとはケンカばかり。仲裁に入ってくれるツキノお姉ちゃんは、後で褒めてもらえるから羨ましくて。自分がワガママな子だって思うたび、イライラがたまっていく一方で……それでもお姉ちゃんたちが好きなものを、私も好きになってしまうっていうのは、どうしようもなかった」
霧は濃さを増していく。
それはアキノの魂が弱まっていることの現れなのか。
「ヨウノお姉ちゃんは、決して私を嫌いにはならなかった。妹だからしょうがない。そう思ってたのか、いざというときには優しくしてくれた。だけど、それがありがた迷惑だって感じるときも、私はしょっちゅうあったんだ」
長い時を眠り続け、膨れ上がっていった思い。
幸せを求めた彼女の……耐え難い嫉妬心。
「私がいじめられたときもそう。ヨウノお姉ちゃんは姉として、私を守ってくれたんだよね。その結果、あの場は嬉しかったけれど、私は黒木に目をつけられることになっちゃったんだ。だから、私は後から思うようになった。あのときヨウノお姉ちゃんが何もしなければ、良かったのにって」
霧が、人の姿を形作り始めた。
それは私が何度も目にした恐怖の具現化——黒木圭の影だった。
「……私って、自分勝手すぎるよね? 何もできないくせに文句ばかり言う自分は棚に上げて」
影がアキノを取り囲むようにして、増え続ける。
「いつでも誰かの持つものを羨んで、欲しがって。叶わないと恨むんだ。心の底から」
五体、十体……アキノが連れ去られたあのときと同じような光景が繰り返され。
「私は恨んだ。どうして私だけがこんな酷い目に遭わなきゃいけなかったのって。そして私は馬鹿なことをしたんだ。二人とも不幸になっちゃえと、心から呪ったんだ」
そいつらはゆっくりと、アキノを覆い尽くそうと近づいていく。
「そうしたら……お姉ちゃんたちは、本当に……殺されちゃって……悲しむどころか私、喜んだ……。マスミさんをやっと手に入れられるんだって……私だけが、諦めかけた幸せを掴めるんだって……」
アキノは自らを罰するように。
その影に身を任せて。
呑み込まれていく。
見えなくなっていく。
「私は、お姉ちゃんたちを殺して……喜んだんだよ……」
そんなことは。
そんなことは、絶対に――。
「私は血も涙もない、悪魔になっちゃったんだよ……!」
「アキノッ!」
私たちは、名前を叫ぶ。
そして、手を伸ばす。
無数の影たちを薙ぎ払い、その中心で蹲る大切な人へ。
手が届くと、私たちは力いっぱい、その体を掻き抱いた。
「お姉……ちゃん……」
影は霧散し、宇宙には私たち姉妹だけが残った。
沈み込んでいたアキノの心を、引き戻すことができたのか。
「……大丈夫だよ、アキノ。あなたは悪魔なんかじゃない。自分を責めなくてもいい、苦しまなくてもいいんだよ……」
「でも——」
涙でぐしゃぐしゃの顔をこちらへ向け、私なんか、と悲しげな目で訴えるアキノ。
その涙を優しく拭いあがら、ヨウノお姉ちゃんは告げる。
「人は、アキノが思ってるような完璧なものじゃないわ。恨みや妬みなんて、誰だって持ってるものでしょう? 当然よ。誰もが何でも手にすることができるわけじゃない。そんな世界なんだから、むしろそういう気持ちが芽生えないはずがないのよ」
「私、酷い子だよ。お姉ちゃんたちの不幸を喜んで、自分だけ幸せになろうとした、酷い子なんだよ」
「私だって、そうだったわ。アキノがあんなことにならなかったら……マスミさんが私を選んでたかどうか、分からなかったんだもの。もしアキノが幸せになって、私が不幸になったとしたら、そのときは私だって妬みの感情くらい抱いたと思うわ」
それが当然なんだと、お姉ちゃんは答える。
人は感情的な生き物なんだと。
だから、私も自分の思いを添えた。
「人は、そうした思い無しにはいられないんだよね。そんな思いが人を成長させていくんだろうし。マイナスな思いが全くない関係って、実は歪な関係なんじゃないかって私は思う。人と人との繋がりは、もっと複雑で、善悪が入り混じってるからこそ、正しくあり続けるんだと思うよ……」
私たちの言葉に、アキノは問いかけてくる。
「私は……悪魔じゃないの? 私は……私の心は、おかしくないの?」
「そうよ。アキノが悪魔になんて、なれるわけないじゃない。私たちには分かってるわ。……ねえ、ツキノ?」
「うん、もちろん」
私たちの大切なアキノが、酷い子になんてなるわけがない。
アキノは普通の——まだまだ多感な子どもなのだ。
「アキノは、まだ子どもだっただけだよ。人の心がどんなものか上手く掴めてない、子どもだっただけ。もちろん、私たちだって心の全てが分かるわけじゃないし、正解なんてないものなんだろうけど……そうだね。正解がないことを、アキノはまだ分かってなかったのかもね」
「……分かんないよ、ツキノお姉ちゃん……」
「……いいのよ、まだ分からなくても。だって……あなたはまだ、十四歳の女の子なんだもの。あの日から時を止めて。ずっとあなたは、十四歳の心のままでいた。だからね、アキノ。……目覚めてからでいいのよ。あなたを大切に思ってくれる人たちのそばで目覚めてから、何もかも分かっていけばいいのよ……」
「……お姉ちゃん……」
三年前の事故から、ずっと彼女の時は止まり。
生と死の境——あの世界が萌芽してからは、その中で苦しみ続けることになったのだろう。
もう、アキノは解き放たれるべきなのだ。
そしてまた動き出す時の中で、新しいことを沢山知っていくべきなのだ。
私たちは、それを願う。
心から、アキノの成長を願っている。
「……ごめんね……私一人だけ、……生きてるなんて……」
「馬鹿、また泣いちゃって。これからアキノは帰れるのよ、ずっと帰りたかった場所に」
「お姉ちゃんたちと一緒が良かった……! 私、何にも分かってなかったの……!」
その言葉は——胸に刺さった。
とても嬉しいけれど……その願いだけは叶えてあげられないこと。
送り出すことしか、できないこと。
それはもう、ただ謝ることしかできないのだ。
だから、代わりに。
「……アキノ。ありがとうね」
「お礼なんて、変だよ……!」
「ううん。ありがとう、だよ。私たちのために泣いてくれて、ありがとう。大丈夫……私たち、嬉しいんだから。アキノを笑顔で送り出すことができて、嬉しいんだから……」
この胸の痛みは、悲しくて寂しいけれど、とても嬉しいから。
私たちはこうして、ちゃんと笑顔を浮かべられる。
「……いろんな思いが、その笑顔に詰まってるの?」
「……ふふ、そういうことね。色んな思いが集まって、最後に残ったのがこの笑顔……そういうことなんだわ」
「……うん」
アキノが、こくりと頷く。
「それが……人なんだね。それが……心なんだね」
そして、やっぱり涙は止まらなかったけれど——精一杯の、笑顔を浮かべてくれた。
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