「……追ってこなくなった、ね」
玄関ホールまで逃げ延びて。
悪霊たちがいないのを確認してから、俺たちは緊張の糸が切れたように座り込んだり、或いは仰向けに倒れたりした。
「殺されなくて本当に良かったよ……」
まかり間違えば、全員やられていただろう。あのときの俺の判断が正しかったかどうかは分からないが、
「あ、あの……ミツヤくん、ありがとう」
ハルナの言葉に、俺はその行動が正しかったということにしておいた。
「お前を守れなきゃ、情けねえ限りだからな。……それに、あいつは俺を殺したりはしないと思ってたし」
「それでも、ありがと」
「あ、ああ」
そんなに頬を赤らめて感謝されると、少しドギマギする。
引っ越している間を除けば、ずっと一緒にいる仲なのにな。
「……でも。サツキちゃんが、殺されちゃった。生きて償うって、そう決心してくれた……それなのに」
「……そうだな」
「大切な友達が、私のせいでこんな風に一人ひとり、死んでいくなんてやだよ……」
ハルナの瞳が潤んでいく。
それを止めるために、俺は彼女の頭を優しく撫でた。
「……ハルナ、お前のせいじゃないよ。少なくとも……お前だけのせいじゃない」
色んな思いが交錯して。
霧夏邸は、俺たちはこうなってしまった。
「だから、後悔するな。今はやれることだけ考えてやろう。……ソウシがまだ戦ってるじゃねえか」
「……うん。早く助太刀してあげないとだよね」
「そうだ、くよくよなんてしてられねえ。行こう、ソウシのところへ」
「うん!」
気持ちを切り替え、俺たちは再び立ち上がった。
目指すは101号室だ。
「扉が開いてる!」
廊下へ出てすぐ、マヤが声を上げる。彼の言う通り、101号室の扉は中途半端に開いていた。
ソウシは恐らく、既にこの中へ入っていったのだろう。
「ソウシッ!」
俺たちは、雪崩れ込むようにして部屋へ突入する。
ソウシは――ベッドの前でうつ伏せに倒れていた。
「おい、ソウシ!」
俺は駆け寄り、彼の体をそっと抱えて仰向けにする。
うつ伏せの状態では分からなかったが……彼の体、特に腹部には夥しい数の傷があった。
そこから、今もドクドクと血が溢れ出ていた。
「……嘘だろ……」
彼の傍らには、空っぽになった水筒が転がっている。
清めの水は残らず、ユリカちゃんの遺体に振りかけられていた。
彼は、きちんとやり遂げたのだ。
でも、自分の身を守ることは、出来なかった……。
「ああ……お前らか。へへ……あんな大見得切っておいて……ざまあねえぜ」
喋ることも辛いらしく、彼は言い終わると同時に咳き込み、血を吐いた。
「しゃ、喋っちゃだめだよソウシ!」
「馬鹿……もう、喋ろうが黙ろうが……変わりゃしねえさ」
「そんなことないわ!」
マヤやハルナの言葉も気休めだと分かっているようで、彼は虚しく笑いながら、なおも言葉を紡ぐ。
「……とりあえず、ユリカのことだけは……きちんとやったぜ」
「そうか……ありがとう、ソウシ」
「……いいってことよ」
俺も、これ以上喋るなと言いたかった。けれど、分かっているのだ。
この怪我ではもう、助かるわけがないのだと……。
「……なあ」
ソウシは掠れる声で言う。
「最後だから……話しておこうと思う。俺が、ユリカに伝えたかったこと。……お前らにもいつかは話そうと思ってた、俺とユリカの秘密……」
「秘密……?」
こんな状況で何を言っているのかと、ハルナは首を傾げる。
俺はそれを無視して、続きを促した。
話させたかったのだ。
「話してくれ、ソウシ」
「……ったく。お前はどうせ気付いてるくせによ……そんな顔、しやがって」
……そうだ。
俺は――全部知ってる。
だからこそ、お前が話して楽になることを、願っているんだよ。
「俺がそれを知ったのは……二年ほど前の、ことだった」
*
町内にある、三神院というそれなりの規模の診療病院。
伊吹という医師に呼び出され、ソウシは訳も分からないままその病院に訪れ、指示された診察室へやって来ていた。
最近健康診断をしたわけでもなく、心当たりが全くないソウシは伊吹医師と対面するなり理由を尋ねた。すると彼は沈痛な表情を浮かべ、丁寧にその理由を語っていったのだった。
「それって……どういう、ことですか……?」
全てを聞いたあとのソウシは、ただただそう聞き返すことしか出来なかった。
語られた事実は、あまりにも想定外のことだったからだ。
この現代日本において、そんなことが起こり得るのかと。
彼は怒るのではなく驚愕していた。
「……本当にすまないと思っている。しかし、事実そういうことが起きてしまったんだ」
伊吹医師は二つのカルテを見つめながら、もう一度告げる。
「十五年前、ここで働いていた医師たちが犯した大きな過ち。……君たちは、取り違えられてしまっていたんだよ」
「そんな馬鹿な……」
取り違え。
言葉では理解出来る。
でも、まさか自分自身がそんな運命を背負っていたなんてことは、理解出来るはずもなかった。
「ほとんど有り得ないほどの偶然……いや、悲劇の連鎖だった。性別を告知していなかったこと、帝王切開で意識がなかったこと、忙しさで特定の担当者がいなかったこと……いや、全て言い訳にしかならんから、やめておこう。とにかく君たちは、病院の手違いで別々の家族の元へ返されてしまった。
既に双方のご両親には話をさせてもらっていてね。君のお父さん――私にとっては同窓だが、彼から息子にもきちんと事実を伝えてほしいと言われてしまった。だから、病院を代表する形でこうして謝罪の場を作らせてもらったんだ」
気付かれることなく。
今に至るまで、判明することもなく。
十数年間を、彼らは生きてきたのだ。
それぞれの家庭で。
「君は、月白家の子どもではなく。……河南家の子どもだった」
「……ユリカの、家の……」
それが、ソウシとユリカの数奇な運命だった。
生まれたときから彼らを縛り付けていた、運命の悪戯なのだった。
「だから、本来なら君は河南荘司であり、ユリカちゃんは月白百合香であることになる。……このような過ちを起こしてしまって、本当に申し訳ない。今になってこの事実を明らかにしたところで、どうしようもないかもしれないが……両家にとって最も良い解決ができるよう、私も尽力させてもらうつもりだ」
「でも、それは伊吹さんのせいじゃないでしょう。なのに……」
ソウシが言うのに、伊吹医師は首を横に振る。
「それでも、私と君のお父さんは友人なのでね。その友人や周囲の者たちが苦しむようなことを、ただ黙って見ていなくはなかったんだよ」
「……ありがとうございます。伊吹さん」
「礼など。……これから辛いことがあったら、何でも言ってきてほしい。出来る限りのことはさせてもらうつもりだ……」
申し訳なさそうに頭を下げる伊吹医師の姿とその声が。
ソウシの心の中に、いつまでも残り続けた。
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