「……ふう」
念のため、二つある扉の内鍵をしっかり掛けてから、オレは近くの椅子に腰を下ろした。……一分ほどが経ったが、バケモノの足音などは聞こえてこない。何とか撒けたようだ。
だが、落ち着いて状況を整理できるようになった今の方がむしろ、絶望的な気分になってくる。
この状況は一体何なんだ。オレは一体、どんな地獄に突き落とされたというんだ。
これが悪夢なら、早く目が覚めてほしい。
でもこれは、きっと悪夢なんかではない――。
「……何にせよ、助けを呼ぶべきだよな」
廊下に怪物がいる可能性も考え、オレは美術室の窓から外に出ようとする。
そして手を掛けた窓は開かず、施錠されているのかと錠を確認したのだが、クレセント錠は外れた状態になっていた。
「……あれ?」
錆びて開きにくくなっているのだろうか。そう思って今度は引っ張る手に力を込める。けれどもやはり窓はびくともせず、ピタリと内外を隔てていた。
「ど、どうなってるんだ……!?」
悪質な悪戯でもされたのか、などとはもう思えなかった。施錠されていない窓が全く動かないのは異常だ。オレは手近にあった椅子を持ち上げ、窓に向かって思い切り振り下ろした。
――ガアァン!
鈍い衝突音が室内に響き渡ったが、窓の割れる高い音はまるで聞こえなかった。無論窓には傷一つついておらず、反対に椅子の脚が一本、パキリと折れていた。
こんなの、物理法則を無視している……!
「……おかしいだろ、こんなの……」
まるで窓に結界でも張られているかのようだ。この学校の内と外が隔絶され、出入りが許されなくなっている。
「くそ、玄関に行ってみよう……」
希望は持てなかったが、とりあえず正式な出入口も確かめておくべきだろうと、オレは怪物の気配がないことを確認してから廊下へ出た。そのまま玄関まで忍び足で向かい、両開きのガラス扉を開こうと試みる。
……だが、予想通り扉は全く動こうとしなかった。
「……一体、何が起こってるんだ」
非現実的なことが連鎖しすぎて、頭がどうにかなりそうだった。
これが嘘偽りのない現実だというのが、信じられない……。
「……あの、仮面の男だ。あいつを問い詰めることができれば……」
この状況がどうして引き起こされたのか……きっと、奴なら知っている筈。
オレとリクが奴におかしな術を使われたのは黄昏時のことだから、夜になった今も屋上に留まっている可能性は非常に低いが、一度行ってみるべきだろう。
オレは気を失う前と同じように、中階段を黙々と上っていった。
「……流石にもういない、かな。気配もない」
屋上に繋がる扉の前は酷く静かで、外は風一つ吹いている気配がない。
仮面の男がいないことは殆ど確実だったが、ここからなら一応外には出られるかもしれないと、ノブに手を掛けてみた。
……だが、ノブは回れど扉は開かなかった。
「おいおい、ここも開かないのかよ……!」
ここも美術室の窓や玄関扉と変わらないのか。一瞬そう嘆きそうになったのだが、感触を改めて確かめてみると、どうも扉は前後に動いてはいるようだ。
つまり、鍵が掛かっているゆえに開かないだけなのだろう。
校舎内各所の鍵は、どこに保管されているのか。恐らくは職員室にあるのではないだろうか。ここを開けることが出来れば、外の様子も確認できるし、最悪脱出も不可能ではなさそうだ。
何にせよ、殺人事件まで起きているのだし警察にも連絡した方がいい。そのためにも職員室へよる必要はあるし、一度そこを目指すのが最善だと思われた。
「はあ……じゃあ、取りに行くかな」
面倒臭いが仕方がないと、頭を掻きながら身を翻した、そのとき。
ふいに、目の前の景色が歪んだ。
気のせいではない。間違いなく、下り階段はぐにゃりと捻じれて。
その中央からどす黒い何かが、急速に膨れ上がってきた。
何かが――来る。
「なッ……!?」
それは、またしても異形の存在だった。
さっきオレの前に立ち塞がった怪物と同じ――いやそれ以上に醜悪なモノ。
まるでブラックホールのような黒の球体が中心部に浮かび、その球体を抱くように蜘蛛のような無数の脚、或いは触手のようなものが囲んでいる。
触手も体も、人間をそのままぐちゃぐちゃに潰した赤い肉で形作られており、グロテスクに脈打つその部分は血生臭く、吐き気を催してしまう……。
「また……化け物かよ……!」
逃げなければ、とは思ったが、逃げ場などどこにもなかった。
左右はなく、後ろは開かない扉。化け物が立ち塞がる前方以外に道はない。
目の前の化け物は明らかに俺を狙っている。それでも、奴の脇をすり抜けるくらいの選択しか出来ないのだ。
頼む、どうかその触手が俺を貫くことがないように――。
「……いい加減成仏しなよ、ケイ」
声とともに、パシャン、という場違いな音がした。
水を撒く音。それが化け物に振りかかる音。
そして――悲鳴。
鼓膜が破れそうな程の、金属質の悲鳴を上げて……触手の化け物は、痙攣しながら消失していく。
「……え……」
あまりに突然のことに、俺が呆けていると。
消えた化け物の向こう側……階段から、一人の青年がゆっくりとこちらへ上ってくるのが見えた。
彼は、片手にガラスの小瓶を持ち、悩まし気な表情で化け物がいた地面に目を落としながら、
「……逃げた、か」
低い声で一言、そう呟いた。
「まあ、間に合って良かったよ」
この異世界のような流刻園で目覚めてから、ミイちゃん以外に遭遇した普通の人。
死者でも化け物でもなく、ちゃんとそこに生きて存在し、話の出来る人……。
「あ……あなたは?」
きっと命を救ってくれたであろうその人に、オレは名前を訊ねる。
後から不作法だとは思ったけれど、そのときは頭が回らなかったのだ。
幸い彼は、無事で良かったとオレに笑顔を見せてくれた。
そしてとても安心感のある気さくな口調で、自らの名を名乗ってくれた。
「僕の名前は円藤深央。ミオって呼んでくれていいよ」
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