……波出守。あの男はこの町、伍横町に本社を置く製薬会社の一人息子だった。
波出製薬。伍横町周辺の施設では、この製薬会社の薬が広く使われているらしかった。
いわゆる上流階級の人間。それが、あの男。
そんな男が、私と寄り添い生きてきた彼女を……マミを見初めたのだった。
誰からも関わりを求められなかったマミが、初めて手を差し伸べられた相手。
マミが気を許すのに、さほど時間はかからなかった。
大学に入った頃には、マモルとマミは気安く話すくらいの関係性になり。
ある日マモルは、意を決したように告げたのだ。
自分の家に来ないか……と。
「……何だよ、この家。金持ちだってのを見せびらかすような家だな」
波出家は、二階建ての豪奢な住宅だった。
お屋敷と言ってもいいくらいで、門の先にはちょっとした中庭まである。
綺麗に手入れされているからには、専属の庭師も雇っているに違いない。
とにかく住む世界が違うことを、これ見よがしに知らしめてくるような邸宅だった。
「そんなこと言っちゃ駄目よ。せっかく、私たちを招待してくれたんだから」
「……マミを、だろう?」
「私たちを、よ。……怒らないの」
マモルは、マミと親しい私も同様に、家へ招待していた。
だが、目的がマミだけなのは明らかだった。
あくまでも私はオマケ。
マミに警戒を抱かせないよう、策として私も誘ったというのは、見え透いたことだった。
それがいけ好かなくて、私は波出家に背を向ける。
「トオル、どこ行くの……?」
「ちょっと、この辺りを歩いてる」
「もう……招待されてるのは私たちなんだから。ちゃんと戻ってきてね」
それには答えず、私はマミの元から去った。
マミはと言えば、これから入っていく大きな建物を、期待と緊張の入り混じる顔で見つめているばかりだった。
*
ここから先は、マミの記憶も混在している。
何故私が彼女の記憶を知っているのかは、後々嫌でも分かることになる。
とにかく私が合流するまでの間、彼女はこんな風に行動していたのだと。
後になってから私も知ることになったのである。
「わあ、広い……。ホールっていうのかしら」
入口は左右に階段があり、二階の廊下に繋がっている。この玄関は吹き抜けになっていて、天井にはステンドグラスのような、日光を通す厳かな装飾がなされていた。
「少し、広すぎて不安になっちゃうな。……トオルはいなくなっちゃうし」
慣れない空間に一人きりでは、彼女の性格上不安でたまらなくなってしまうのだろう。別れたのは大人げなかったと今なら思うのだが、当時は感情を抑えきれなかったのだ。
きょろきょろと心配そうに回りを見回しながら進んでいく彼女。そこに、二階からゆっくりと下りてくる人影があった。……マモルだ。
「やあ、マミちゃん。わざわざ来てくれてありがとう」
「あ、はい。こんにちは」
「今日は少し、君とゆっくり話してみたくてさ。それでこの家に招いたんだ。他意はないから、あんまり身構えないように、ね」
「は、はぁ……」
これまでに出会ってきた人とは違う、気さくな接し方。それに戸惑いを覚えつつも、恐怖とは違う胸のざわめきがあったことを、私は知っている。
私からすればこの男は、家の権力を笠に着た、偉そうで馴れ馴れしいだけの人間だった。
けれどもマミには、そういう男が非常に新鮮だったのだ。
特にマモルは……上流階級らしい作法というか、紳士的な振舞いは身に着けていた。
右も左も分からないマミを、マモルは客室の一つへ案内した。
ベッドやテーブル、辞書や小説が並ぶ本棚まであるホテルのような客室だ。
波出家にはこういう部屋が幾つかあるらしく、聞くところによれば取引先を集めた社交パーティが開かれることもあったそうだ。
つくづく別世界の暮らしを突き付けられる場所だった。
客室に入ってから、マミとマモルはしばらくの間、雑談に興じていた。
お互いに、親しい友人という段階を越えている認識は無かったし、もっと相手をよく知らなければと考えていたのだろう。
大学ではあまり長く話す時間はとれなかったので、こうして家に招いて距離を縮めようとしたわけだ。
「……へえ。仁行っていうんだ、その子」
「はい。今はどこかへ行っちゃってますけど」
話の中で、私のことが話題になった。
マミはいつも私をトオル、と呼ぶので、マモルはフルネームを訊ねたのだ。
仁行、という苗字は珍しい部類に入るからだろう、彼はなるほどと何度も頷いていた。
マミは自分と私との関係性をそれとなくマモルに伝え、マモルはそれに口を挟まずに大人しく聞いていた。
マミの秘められた過去。
それは今まで、私だけが理解者でいられたものの筈だったというのに。
「まあ、気に入らないって思う気持ちも分かるよ。ずっと一緒に、育ってきたわけだろう?」
「……ええ、そうですね。私の心を救ってくれたときから、トオルとはずっと一緒です」
「素敵な『親友』なわけだ」
親友。その部分だけをあえて強調し、マモルは言う。
そこにどんな意味が込められているか、流石のマミも分からないわけではなかった。
「マミちゃん。君は勿論分かってはいるんだろうけど。トオルくんは、気付いているのかな」
「さあ……。でも、私のことでトオルが分からないことはないと思うし、この不思議な気持ちにも、多分気付いているんじゃないでしょうか。だからこそ、怒っているんだと思います」
「……なるほどね」
そう、私は最初から分かっていた。
怒っていたのもその通りだ。
マミのことで私に分からないことはなく。
私のことでマミが分からないこともまた、ない筈だった。
「理解してくれる日がくればいいけど。マミちゃんの、今の気持ちを」
マモルは訳知り顔でそう言って、すっくと立ち上がる。
「さて、俺は少し研究室を覗いてくるよ。気が引けるかもしれないけれど、少しの間散策したり、好きに過ごしてもらったらいいから」
「は、はい。……ありがとう、マモルさん」
「いえいえ」
ちらりと笑顔を見せて、マモルは部屋から出ていく。
それを見送ってからマミは、肩を落として溜め息を吐いた。
「今の気持ち、か。……難しいなあ」
それは、純情な乙女の見せる憂いだった。
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