――声。
――懐かしい、声がする。
鈍い頭の痛みとともに、私の意識は覚醒した。
重たい瞼を、ゆっくりと開いていく。
私は、うつ伏せに倒れていた。
冷たい床の、固い感触が頬に伝わってくる。
「……ここ、は……?」
戻ってくる全身の感覚。私は力を振り絞り、手を動かして起き上がろうと試みる。
ぶるぶると震えながらも、私は何とか上半身を起こすことが出来た。
そして、真っ直ぐに捉えた世界。
眼前に広がるその光景には、まるで見覚えがなかった。
いや、それどころか――。
「何なんだろう、ここ……」
……世界は、白と黒のモノクロームに染まっていた。
「痛て……」
頭を押さえながら、私は緩々と立ち上がり、近くのものに手を触れてみる。
観葉植物。普通なら緑色をしているはずの葉も、茎も、モノクロの色調だ。
タイル張りの床も、壁も天井も、全てが単調の世界だった。
自分の目がおかしくなったのだろうか、という考えが最初に浮かぶ。
けれど、私の手や足はちゃんと肌色をしている。
だから、おかしくなったのは私以外のものだ。
この世界の物だけが、色を失くしてしまっている。
カーテンやベッド、パーテーションといった物があることからして、ここは病室のようだけれど。
明らかに現実世界のどこか、という雰囲気ではなかった。
異常な状況に、私はどうして自分がこんな場所に倒れていたのかを思い出そうと試みた。
しかし、鈍痛に苛まれる頭は、正常な働きをしてはくれなかった。
思い出せない。……何一つ。
私の存在すらも。
「何で……」
モノクロの世界を目にした瞬間よりもハッキリと。
私は恐怖を意識した。
どんなに記憶を辿ろうとしても、私は自分の名前すら引っ張り出すことが出来なかったのだ。
私は――一体誰なんだ?
絶望感が襲ってきた瞬間、突如としてモノクロの世界にぱあっと光が生じた。
新たな現象に混乱しつつも、私はその眩しさに目を瞑る。
その光がやがて消え、再び目を開いたとき。
私の目の前には……一人の少女が立っていた。
「え――」
赤みがかった髪の少女。
どこか懐かしさを感じさせる、不思議な少女。
少しばかりあどけなさの残る顔をした彼女は、私を見て微笑みながら口を開いた。
「ようやく、目を覚ましてくれたんですね。いや、その言い方はおかしいかもしれませんが……」
「……えっと」
「大切な人の声に呼応して。あなたはやっと闇の中から目覚められた」
少女の謎かけのような言葉に、私は首を傾げてしまう。
けれど、大切な人の声に呼応して、という部分だけは心当たりがないわけでもなかった。
祈りの声。
誰か大切な人が、祈りを捧げるような声が闇の中で響いていたのだ。
それが誰なのかは思い出せないとして……。
「あの、どういうこと、ですか? 私は一体……」
縋るような思いで、私は少女に問いかける。
「分からないのは当然です。あなたの名前は……光井陽乃。不幸な事件があって、あなたの体は酷く傷ついてしまった。そして、それと同時にあなたの心も深い闇へと沈んでいったのです」
「え? そ、それって私……まさか」
あえて遠回しな表現をされてはいるが、私の中では明確な単語が浮かんでしまう。
死、という恐ろしい単語が。
「……大丈夫。あなたは死んだわけじゃない。けれど今までずっと、覚醒することができなかったの。今、あなたを呼ぶ声に反応して……ようやくあなたの心はここまで戻ってきたんです」
私の考えを察してくれたのか、少女は最悪の可能性を否定してくれる。ほっと溜息を吐いて、私は再度少女に質問をぶつけた。
「……ここはどこなんですか?」
「ここは、この世とあの世の間……とでも言えばいいのか。闇というのはつまり、あの世と同じだと思ってくれればいい。あなたは死ぬ一歩手前のところで、長い間繋ぎ止められていたんです」
「そう、だったんだ……」
「はい。あなたは、目覚めないといけない。あなたを待っている人のためにも」
「私を……待ってる人」
真剣な眼差しを向けて話す少女に、私はその人のことを思い出さなければならないような気がして、必死に考えてみる。
でも、やはり頭の中は空っぽだった。
「……うう、思い出せない」
「あなたの心は闇に沈んでしまっていたから……魂のほとんどが欠落してしまっているんです」
「記憶を失ってる、みたいなこと……?」
「そうですね、記憶と生命力、というべきかな。その二つが抜け落ちて、何処かへ行ってしまったから、あなたはまだ目覚められなかった。この世界までしか、来られなかったというわけです」
「そうなんですね……」
記憶と生命力、か。もしも生命力が残っていたりしたら、記憶喪失のまま目覚めたりしていたのだろうか。考えても意味はないけれど。
「あなたには今から、それを集めにいってもらいます。きっとこの世界の中に、抜け落ちた魂の欠片が全部、落ちているでしょうから」
「本当ですか?」
「ええ。ここはあなたの世界だから。あなたのものがあるのは、当然でしょう?」
「それはよく分かりませんけど……まあ、やってみます。私を待つ人がいるのなら、私は……帰りたい。私はまだ、生きてるんですもんね」
問いかけるような私の言葉に、少女は頷いてくれる。
「その意気です。頑張って、お――ヨウノさん」
ありがとう……そう感謝を伝えようとして、私はまだ彼女の名前を聞いていないことに気付いた。
「ところで、あなたは?」
「私のことは、エオスとでも呼んでください。この世界の案内人、それが私です」
エオス。確か、ギリシャ神話にそんな名前の女神がいたような。
そんな知識は、何となく思い出せるのに。
大切な私の記憶。ちゃんと取り戻せるように、頑張ろう。
……こうして、記憶を取り戻す冒険が始まったのです。
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