「……ふと、気になったんですけど」
石造りの階段を上り、用具室へと戻ってきたオレたちは、廊下へ出ようと足の踏み場のない室内で何とか足を動かしつつ、言葉を交わしている。
「根拠はあまりないんですが、あの音楽室の女性を……どこかで見たような気がして」
「……というと?」
「いや、学長のね……」
生徒たちが帰った後、時折音楽室でピアノの音色を奏でていた女性。既に亡くなっている女性。
その条件で考えていくと、該当するのは彼女くらいしかいないのだ。
病によってこの世を去った、流谷刻雄の娘……。
「そういえば、学長の像を掃除するのは娘さんの日課だったと言ってもいいし、像の不思議に関して否定的だったのも、それならなんとなく分からなくもない……」
だとすれば、彼女は二つの不思議に関わる人物ということになる。
呪われた像と音楽室の少女という、二つの不思議に。
「ううん、流谷家の『お嬢さん』が三神院で亡くなったのは知ってるんだけど……あれが彼女ということなのかな。しかし、それならどうしてここに……」
「……三神院?」
伍横町にそういう病院があることは知っているが、彼女が病院で亡くなったというのは聞いた覚えがない。
「確か、娘さんはこの学校で、病気で死んだんじゃなかったっけな……」
用具室のスライドドアを開き、外へ出ようと思った、そのとき。
突然襲いかかった冷気に身を震わせ、咄嗟に視線を廊下へ向けると――そこには、新たな怪物の姿があった。
「あ、あれは……暴走した霊か……!」
「お、恐ろしい霊が多すぎるだろ、いくらなんでも……!」
青と赤のゾンビのような怪物に、蜘蛛のような怪物、そして今目の前に現れたのは、悪魔のような漆黒の翼を纏う、女の怪物……。
何故性別が分かるのか。それは単純に体つきと髪の長さだ。赤と緑という奇妙な色合いになった髪は背中まで伸びており、風も無いのにひらひらと揺れている。顔は最初に出会った怪物と同じく、やはり真っ黒に染まっている。
「あの霊……ひょっとして、三年一組で死んでいた子……?」
女性の悪霊、というので、ミオさんが霊の本体について思い当たるところがあったらしい。
オレは目が覚めてから三年一組には行っていないので知らないが、そこでも誰かが死んでいた……ということか。
時系列的に、間違いなくミイちゃんではないのだが、女子生徒が死んでいたというのはやはりショックだ。
三年一組に死体があるなら、上級生の可能性が高いか。あまり知っている人は多くないが、顔見知りの先輩だったら、辛いな。
「……ちょうど、清めの水を汲んできたところだ。三年一組にいた子が悪霊化しているのなら、浄化することができる」
「そうすれば、音楽室にいた彼女のように、話が出来たり……?」
「可能性はある。賭けかもしれないけど、行ってみよう!」
「は、はい……分かりました!」
ミオさんが走り出すのに続き、オレも全速力で三階まで階段を上っていった。
息を切らして三階まで上っても、怪物は何でもないようにふわりと後ろについてくる。
このまま追いつかれることはなさそうだが、振り返れば必ず同じ距離にいるというのが心臓に悪かった。
三年一組。オレが目覚めた二年一組のちょうど真上にあたる教室だ。下ではミイちゃんの母親が死に、ここでも女生徒が死んでいた。そこに何らかの作為を感じないでもない。
死んでいた女生徒というのは、一体誰なんだろう。
一歩先を走っているミオさんが、教室の扉を勢いよく開いた。そのままミオさんもオレも、室内へ雪崩れ込む。
教室の奥……机の一つに背中を凭れかけさせるような恰好で、絶命している少女がいた。
彼女の体はまるで巨大な鉤爪で引っ掛かれたかのように、斜めに複数本の傷が走っていて、そこから血が溢れていた。とても人間の所業とは思えない。これは、他の怪物によって殺された証左なのではないだろうか。
顔は見えない。けれど……その少女は、どうやらオレの知っている人ではないようだった。
名前も知らない、上級生ということか。
無論、こんな風に無残に殺されているのには、心が痛むが……。
「水を振りかけ祈れば、きっと戻ってくれる筈」
瓶の蓋を外しながら、ミオさんは言う。
そして、少女の死体へ向かって、瓶の中の清めの水を、振り撒いた。
「頼む――」
ミオさんが固く目を閉じる。
そこで、少女の体から眩い光が発せられた。
歪められた心を浄化する光。
それが、彼女の体を包んでいく。
「うッ……」
目も眩む光に、両腕で顔を覆う。
やがてその光が消え去ったとき、少女の死体の前には、同じ姿をした霊が立ち尽くしていた。
悪霊は浄化され、本当の少女が戻ってきたのだ。
「……やった……のか?」
オレとミオさんは、少女の霊と向かい合う。
彼女は、眠りから覚めるようにゆっくりと目を開いた。
「……ここ、は……」
言葉。
自我を取り戻したゆえの、人の言葉だ。
「どうやら……治まったみたいだね。君は悪霊になってしまっていたんだよ」
ミオさんが優しく、少女の霊に語り掛ける。夢見心地だった彼女も、ミオさんの言葉で少しずつ現実感を取り戻す。
「……そうだ、私……」
自分の手を見つめ、それが半透明であることに気付き。
少女はようやく、自らの真実を思い出していく。
「あッ……!」
そして彼女は、オレを見て驚愕の表情を浮かべ。
どういうわけか、縋るようにオレの胸へ飛び込んできた。
「わ、私……ごめんね……!」
「え……えっと、君は……?」
「私よ、エイコ! 吉元詠子よ!」
彼女はオレのことを知っているようだが、オレの方は全く聞き覚えがない。
それに、ごめんと謝られる理由も見当がつかなかった。
それなりに友人がいるといっても、女の子の友人は少ない。
ミイちゃんがいる手前遠慮しているというのもあったりするが、仲が良いと言える女の子はいないのだ。
「あの、ごめん。オレには覚えが……」
素直にそう答えると、エイコと名乗った少女はハッとした様子で、慌ててオレの胸から離れる。
その目は、また驚愕に見開かれていた。
「……そう、だった。……違ったんだ……」
ブツブツと独り言を呟きながら、彼女はふらふらと、後退っていく。
「そうよ……だってあのとき私……」
「えっと、吉元さん……? 君は一体――」
「私はッ!」
ミオさんの言葉を遮って。
彼女は何かに耐え切れなくなったかのように、突然教室から飛び出していった。
「あっ……」
止めようと動くことすら出来ない、一瞬の出来事だった。
ミオさんもオレも、手だけを伸ばしたままの状態で、しばらく呆然と立ち尽くすしかなかった。
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