それは、突然の終焉だった。
いつも通りの日常。
いつも通りの波出家。
後になって違うところがあったとすれば。
少しばかりマモルの表情が固かったくらいだろう。
それも、当時はさほど気にしてはいなかった。
学業と仕事の兼合いで疲れているのかもしれない、としか思っていなかった。
けれども奴の表情は物語っていたのだ。
その日に全てが終わるということを。
「……やあ、待たせたね」
私とマミが客室で過ごしていたところに、マモルはテラスを伴ってやってきた。
二人が一緒に来たことは今までなかったので、私はすぐに違和感を抱いた。
「色々と、準備に時間が掛かってしまった。さあ、行こうか」
準備。この日もただ、マミとマモルとが雑談をして過ごすものと思っていたので、想定外の言葉に私は驚いた。
「行くって、一体どこになんだ? それにマミ、お前は何か知ってるのか……?」
マミは答えない。俯いて、ただ沈黙を貫いている。
しかし、沈黙は肯定だ。彼女は私がいない間に――恐らくは以前マモルに話を聞きに行ったときに、何かしら事情を聞いていたのだ。
それを、私に隠していた。
マミも、共犯の側に立っていたのだ。
「……トオル、くん」
「……テラスさん……」
「来てほしいんだ。僕を……信じて」
テラスの言葉。
裏切りに打ちのめされた私が、最後に信じられる僅かな望みは、最早それくらいしかなかった。
それとて口に出しただけの、根拠のないものでしかなく。
この先に何が待っているかなど、もう何も分からなかったが。
「……俺は……」
結局は、付いて行く以外に選択肢などなかったのだ。
マミを置いて逃げることなど、それこそ考えられなかったのだから。
*
私たちは、研究室のエレベータから地下へ向かっていた。
あの日潜入を果たした、怪しさに満ちた地下研究所だ。
エレベータの下降が終わり、研究所に辿り着くと、マモルとテラスはひたすら真っ直ぐに進んでいった。
その先は、私が前に忍び込んだ部屋――暗幕によって奥が隠された部屋だった。
マモルが、扉を開く。
部屋からはもう、暗幕は取り去られていた。
そして、隠されていたものは私たちの眼前に曝け出されて。
禍々しい、景色が。
私たちを、待ち受けていて。
「……これ、は……」
床に、模様が描かれていた。赤の塗料がぬらりと光っている。
描かれているのは、円形。リングのような二重円の中に、複雑に絡み合う線形と記号。
象形文字の様にも見えたが、そのときの私の知識ではまるで理解出来ない記号だった。
しかし、その模様がどういう意味を持つのかくらいは、流石に直感した。
「魔法円……?」
「そうだ、トオルくん。これは儀式に必要な魔法円さ」
儀式。
仮にも製薬会社の跡取り息子であるマモルが、儀式などという非科学的なことを口にする。
その落差に私は絶句してしまったが、奴はさも当然のように話を続けた。
「これを準備するのには、些か骨が折れたよ」
それから、一つ溜め息を吐くと、私から顔を逸らして研究者の方を見やる。
「……テラス」
「大丈夫。……やりましょう」
名を呼ばれた研究者は、意識的に表情を消して、頷いた。
普段のテラスからはかけ離れた、冷たい表情だった。
「……これが私たちにとって最良の方法、なんですね?」
「……ああ、そうだ」
マミが確認するように問うと、マモルは力強く頷いた。
だから、分かる。
この場で事態を理解していないのは、自分だけだということが。
そんな私を哀れに思ったのか――マモルは最後に、種明かしを始めた。
「既に聞いたと思うが、テラスは薬以外にもある研究を行っていてね……それは人間の魂を操る研究だ」
「魂……だって?」
製薬という分野からあまりにかけ離れた言葉に、私は呆然とする。
そんな私の表情を愉しむように、マモルは薄ら笑いを浮かべた。
「あまりにも胡散臭すぎて、殆どの人間が一笑に付すんだが、これがホンモノでね。……この実験もテラスのおかげだし、テラスの研究にとってもまたとない一歩になる。だから、そう。君たちは実験体でもあるわけだ」
「……何を、言ってるんだ」
私とマミを実験体などと呼ぶ彼は、明らかに狂っていると評するほかなかった。
こんな奴はもう信じられないだろうとばかりに、私はマミの方を振り返ったが……マミはそれでも、俯いたまま彼の言葉を大人しく聞いていた。
「言葉は悪い。でもね、マミ……俺は君を愛しているんだ。君を決して、他の誰にも渡したくはないんだよ」
「他の誰にも、だと……」
それはつまり。
やはりこの男は、私とマミを。
「だから……少しの間だけ、この円の中に入ってくれるかい」
マモルが、射すくめるような眼差しで、私を睨む。
その視線に恐怖すら感じながらも、私は抵抗する。
「い、嫌だと言ったら?」
「……君は、断れないと思うよ」
「え――」
何を馬鹿な、と思ったのも束の間。
私の足は、自らの意思に反して動き始めていた。
ゆっくりと、しかし真っ直ぐに魔法円の中を目指して。
そこに待つものが確実に破滅であると分かっているのに。
「さあ、始めよう!」
マモルが高らかに宣言する。
指を鳴らし、テラスに指示を下す。
「……行きます」
「テラス、さん……!」
信じて、と懇願した男。
優しく接してくれた男。
そんな男を、私は信用し。
けれどもやはり、彼にも裏切られるというのか。
――信じたのに。
最早この場に味方など一人もおらず。
私はまさに、まな板の鯉と呼ぶにふさわしい状況となっていた。
「いいぞ、テラス!」
魔法円の中心に私は立たされ。
不可思議な浮遊感とともに、強烈な眩暈を感じる。
「……ごめん、トオルくん」
混濁する意識の中で。
テラスの謝罪がちらと聞こえたような気がしたが――それはもう、どうでもいいことだった。
「――さあ、御霊よ、解き放たれよ!」
魔法円が光を放つ。
私の世界が消えていく。
光と闇が繰り返され。
雑音と静寂もまた、繰り返された。
撹拌される意識。
引き離される感覚。
それらは一瞬のようでもあり。
はたまた永遠のようにも感じられた。
――いよいよ、救済の時。
誰かの言葉。
最期の言葉。
そこから先は、分からなかった。
ただ遠くで幾つもの叫びが聞こえ――全ては終わった。
後には、暗闇だけが残った。
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