霧夏邸の中庭。俺とハルナはそこに生える一本の木と向き合っていた。
注意して見ると、木の前の地面には掘り返された痕跡が確かに残っている。
この下に、ナツノの遺体は眠っているのだろう。
地面を掘るのに必要なスコップは、予め倉庫に行って持って来ていた。あとはナツノの遺体が出てくるまで、ひたすらに掘り進むだけだ。
霊に襲われる危険性はもちろんあるので、作業中はハルナに警戒していてもらうことにした。彼女も素直に役割を引き受けてくれたので、俺は安心して地面を掘ることが出来た。
そして、作業を開始して十分ほどが経ったことだろうか。
俺の手に、土とは違うグニャリとした感触が伝わってきた。
そっとスコップの先端を除けると。
土の中から、布の切れ端が露出していた。
……遂に、俺は辿り着いたのだ。
ナツノの元に。
「ナツノ……待たせてごめんな。俺たちが今、苦しみを終わらせてやるから」
優しく周囲の土を掘っていき。
その体がようやく出てきてから、俺は水筒を取り出し、清めの水を振りかける。
中身が全て遺体に浸透すると。
これまでとは違い、霧夏邸全体が浄化されていくかのように、光に満ちて。
俺たちもその光に吸い込まれ。
意識だけが、ここではないどこかへ飛んでいくのを感じた。
白と黒が混じり合い、蠢くばかりの空間。
そこは、ナツノの精神世界のように思えた。
マヤに殺されてから、俺に会いたいという未練に縛られ、霧夏邸に繋がれて。
悪霊と化してしまったナツノの、混沌たる心の奥底……。
「ナツノ。約束……守れなくってごめんな。お前が生きているうちに、戻ってやれなくて……」
遠くの方から、影がこちらへとやって来るのが分かる。……人の姿を失った、ナツノの魂。
「寂しかっただろ……辛かっただろ。最後の瞬間まで、俺の名前を呼び続けていたのに……俺は助けられなかった。遠い場所で安穏と、お前の死を知ることすらなく過ごしていたんだ……」
助けてと叫ぶ悲痛な声。
不可能だと言ってしまえばそれまでだけれど。
俺はずっと、後悔し続けるしかなかった。
あの日、傍にいられたら。そもそも、引っ越しなどしなければ。考えれば考えるほど、自分を呪うばかりだった。運命を呪うばかりだった。
「私だってそう。……ううん、私なんて、一緒にいながらナツノちゃんがいなくなった理由をまるで分かっていなかった。もしかしたら事件が起きる前に異変を感じて、マヤくんの凶行を止めることが出来たかもしれないのに」
ハルナもまた、後悔の涙を流す。
彼女にとっても、ナツノは大切な存在だったから。
降霊術によって、死の真相を明らかにしようとするほどに。
そしてその真相は、思う以上に残酷なものだった……。
「ナツノ……本当にすまない。来るのが、あんまりにも遅すぎたけれど。これでもう、お前の苦しみは終わりだ――」
俺は――俺たちは微笑み、手を差し伸べる。
その瞬間、世界は色彩を取り戻して。
蒼穹の下。
色とりどりの花が咲き誇る平原。
絶望から解き放たれた世界の中で、俺たち三人は向かい合っていた。
「――ありがとう、二人とも」
……ずっとずっと。
会いたかった彼女が、そこにいた。
確かにそこに存在して。
今、俺たちに語りかけてくれていた。
……ナツノ。
「やっと……元に戻れたわ。死の瞬間の怒りと悲しみだけが支配してた世界から、ようやく抜け出すことが出来た……」
ありがとう、と。
再びナツノは、俺たちに微笑む。
「……ずっと、悔やんでた。あれからの俺は、ずっとお前のことばかり考えて生きてきたんだ。どうすれば、あのとき駆けつけられなかったことの償いができるのかって」
「そして今日、私の無念を晴らすためにミツヤくんは来てくれたわ。……その方法が中屋敷くんを殺すことで、怒りに憑かれていた私がそれをやりかけたというのは……少し、悲しいけれど」
「……ごめん」
やはり復讐は、ただの自己満足でしかなく。
ナツノにとっては、何一つ喜ばしいものではなかったのだ。
だから……。
「ミツヤくんのそばにハルナちゃんがいてくれたのは、とても大きな救いだった。はるちゃんがいなければ……今日の出来事は、きっと救いのない悲劇にしかならなかっただろうから……」
「……そうかな。なっちゃんがそう言ってくれるなら……うん。ありがとね」
ハルナは、あの頃の呼び名でナツノを呼んだ。それがくすぐったかったのか、ナツノも笑いながら言い返す。
「ふふ、はるちゃんはやっぱり、可愛いわね。小学校に上がりたてのころ、二人を引っ張っていってたのは私だったけど、私達の中心にいたのは実のところ、はるちゃんだったと私は思ってるわ」
彼女も、思っていたらしい。
ハルナがいつだって、輪の中心にいるべき人だというのを。
仲間を大切に思える、優しい心を持った少女であるというのを。
一緒に生きてきた俺は今日の今日まで意識してなかったのにな。……鈍感なのだろうか。
「……そろそろ、お別れの時間みたい」
そう言われて驚き、ナツノの方を見ると、彼女の輪郭は少しずつ薄くなっていた。微かに明滅しながら、しかし確実に消え行こうとしている。
「これで私は、何にも縛られずに、あっち側に行くことができるわ」
「ナツノ、俺は……」
「……そうねえ。心残りがあるとしたら、それかな」
俺が寂しげな顔をするのに、ナツノは苦笑して言う。
「まやくん。私はまやくんのことが、今でも好きよ」
「……俺もだよ、ナツノ」
今の思いを、素直に答える。
だけど、と彼女は続けた。
「だけど、まやくん。気付いてあげて? ううん、もう気付いてると思う。いつまでも私のことを思い続けたって、寂しいだけだから。今あなたのことを大切に思っている人のそばに、どうかいてあげて」
「……えっと」
それは――つまり。
予想していたような、そうでないような……。
「だってはるちゃん。そんなの、遠慮しすぎでしょ? 私のことは気にせずに、自分の思うまま生きていってほしいな」
「あの、そのー」
完全に心中を見透かされていたハルナは、まるで追い詰められた政治家のようなことを言った後、
「……もう。……こんなときに、言う?」
怒ったように腕組みをしたけれど、結局おかしくなったのか、すぐに腕を解いて笑うのだった。
「ふふ。こんなときにしか言えないじゃない。これでもう、しばらくは……お別れだもの」
「……そっか。そうだよね」
長いお別れ。
今度は三年や四年ではない。
俺やハルナの命が尽きるまでの別離だ。
憂うことはないけれど。
やっぱりそれを、寂しくないとは言えなくて。
だから、彼女はそっと腕を掴んできたんだろう。
この寂しさを、一緒に乗り越えていこうと。
「まやくん、はるちゃん。それじゃあ、もう行くわ。どうか二人とも幸せな人生を歩んで」
そうしてナツノは消えていく。
俺たちの未来を祝福するように、笑顔を湛えながら。
「ナツノッ!」
最後に――いや、暫しの別れに、何か言葉を告げたくて、俺は彼女の名を呼んだ。
あれこれ悩んだけれど、結局出てきたのはとてもシンプルなもので。
「……いつか。また会う日まで」
また会う日まで。
そうとも。俺たちはまた、巡り会うことが出来るのだ。
この世界の先、あちら側に待つ暖かな場所で。
だから……これで終わりじゃない。
「またね、なっちゃん」
「ええ、またね。必ずもう一度、私たちは会える。そのときまでの、お別れよ――」
次第に、世界が遠のいていく。
ナツノは消え、俺とハルナは美しい心象世界から帰ってくる。
……少しだけ、意識を失ったような感覚の後。
再び目を開けると、そこはもう霧夏邸の中庭だった。
「行っちゃったね。なっちゃん」
「……ああ」
俺が頷いたとき、ふいに眩しい光が降り注ぐ。
霊が発した光だろうかと思ったけれど、それは違った。
ハルナが、俺の代わりに答えを呟く。
「……朝陽だ。ようやくこの館に、朝が来たんだよ……」
「朝、か。長かったな……色んなことがあった」
「ミツヤくん……」
色んな思いが重なり合い。
鎖されてしまった屋敷の中で、その思いたちはぶつかって、散っていった。
これが幸せな結末だとはとても言えない。
けれど……悲劇で終わったわけでもないはずだ。
「帰ろう。全部、終わったんだから。ソウシに言われた通り、俺たちは生き残れたんだから」
「……そうだね、帰ろうか。いつも通りの毎日に、戻っていくために」
ハルナはニコリと笑いかけてくると、そっと俺の手を取って言った。
――二人で、一緒にね。
それからすぐ、俺達は霧夏邸を抜け出した。
霧夏邸の外では、警察官が一人、中の様子を窺っていた。
誰かの親が、子どもの帰りが遅いことを心配して、警察に知らせたようだった。
俺達が簡単に事情を話すと、警察は怪訝そうな顔をしながら邸内に入り、そして恐怖に叫んだそうだ。
……事件はその後、力本発馬によるものだと警察は発表したが、人間業と思えない死体の損壊具合がどこからか広まって、霊の仕業ではないかと噂され始めた。
しばらくは俺とハルナに、詳しい情報を求めてやってくる者が絶えなかったが、一月ほど経って、ようやくそれも途絶え始めた。
マヤはと言えば、自分の犯した罪を正直に告白し、その場で取り調べを受けてから、警察に連れて行かれた。
別れ際、彼は俺達にもう一度謝ってから、罪を償ってくる、と弱々しく笑んで去っていった。
あれから、彼とは会っていない。
……あの日、霧夏邸で起きたことを、明らかにするつもりはなかった。
たとえ真実を語っても、認める者は極めて少ないだろうから。
なら、俺達は固く口を閉ざして。
霧夏邸で起きた全てを、匣の中に封じていようと思う……。
真実は明かさず。
ずっと、このままで。
いつしか伍横町の人たちは、この事件をこう呼ぶようになった。
霧夏邸幻想、と。
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