「むう……どうしよう」
届かない木箱を、私はただ呆然と見ているしかなかった。
けれど、ふいにその木箱が仄かな光を発し始めた。
「え……?」
戸惑っている間にも、木箱は更なる動きを見せる。
本棚からふわりと浮き上がり、そしてゆっくりとこちらへ向かって下降を始めたのだ。
今度は驚きによって動けないでいる私。そんな私に、木箱は追い討ちをかけるように突然落下してきたのだった。
「痛っ」
ちょうど頭頂部あたりに木箱が直撃する。……角じゃなかったからまだ良かったが、それでもやっぱり結構痛い。
「うー……落ちてきた……」
「そのようですね」
痛みに頭を摩りながら、私は落ちた木箱を拾い上げる。
そして、先へ進むためのキーアイテムがないものかと調べてみた。
何枚かの写真。今より幼いころのものばかりだが、恐らくは私が映っているのだろう。時には妹たちとともに、時には友人たちとともに。明るい笑顔を浮かべていた。
それから、目立つものといえば日記帳か。
「陽乃って書いてるんだから、私のよね……」
と、軽い気持ちでそれを手に取り、最初のページを開いてみたのだが、そこには思春期の乙女らしい、恋に揺れ動く思いが赤裸々に記されていて、少し文章をなぞっただけで顔が紅潮していくのをハッキリ感じた。
「……わ、私……こんな恥ずかしい文章書いてたの?」
「……ふふっ……」
「あ、今笑ったでしょ!」
「い、いえ。気にしないでください」
「するよ、そんなこと言われても……」
というか、人の日記を横目に見ないでほしいものだ。元より内容は知っていたのかもしれないけれど……。
はあ、恥ずかしい。
思い出せもしない過去からこんな爆弾が飛んでくるとは、油断ならないものだ。死者というものは案外、自分の死後自宅に戻って、恥ずかしい思いをしているのかもしれない。
「……あ、鍵が入ってる。とりあえずこれで、あの扉を開けられるよね」
日記のことは忘れることにして、取り出した鍵をエオスに見せる。
「ええ、だと思います」
確定的な言い方ではなかったが、彼女もそう言ってくれたし、とにかく試してみることにしよう。
木箱は近くの机に置いておき、私たちは施錠されていた扉へ向かった。
小さな鍵穴に、木箱に入っていた鍵を挿し込む。抵抗なく奥まで入ったので、これで間違いないだろう。
ガチャリと、解錠の手応え。
ノブを回すと、扉はすんなりと開いた。
「よし……先へ進もうか」
「はい、そうしましょう」
二人、笑顔を浮かべながら部屋を出て。
そこからはまた、長い廊下が続いていた。
ここも変わらず、床がひび割れていたり、奇妙なところに壁があって視界が遮られたりしている。
しかし、廊下なので先ほどの部屋よりも置物は少なく、あっても観葉植物程度だった。
「ここはそのまま進んでいけばいいかな」
「特にギミックはないかと……」
先の方を見やりながら、エオスは呟く。
彼女がそう言うなら大丈夫かと、私は一歩踏み出そうとしたのだが、その瞬間に場の空気が変わった気がした。
……何だろう?
「――あ……」
「ど、どうしたの?」
特に問題はないと口にしたはずの彼女だが、その表情が見る見るうちに蒼白になっていく。
今の僅かな間に、状況が一変したことは明らかだった。
……何が変わったのか。空気が淀んだように感じるのは間違いない。
「……嫌な気配が。殺気がこもっているというか……」
「殺気って……」
この記憶の世界に、殺気を放つ何らかの存在があるということなのか。
その存在が、どうやらこの廊下に来てしまったと。
私は恐る恐る廊下を進んでいき……それから、突き出した壁に隠れるようにして、こっそりと前方を覗き見る。
するとそこには、人間の形をした真っ黒い影のようなものが立っていた。
「あの男……いえ、その影ですね。多分、あれは恐怖の感情が具現化したものです。影に見つかれば……ただではすまないでしょう。見つからないよう、気をつけて進んでください」
そう話すエオスの表情も、恐怖の色がありありと窺える。……ひょっとすると、あの影に捕まると危険なのは、私だけでなくエオスも同じなのかもしれない。
「隠れながら進めばいいんだね?」
「ええ。私は姿を隠せますのでご心配なく。……頑張ってください」
「分かった。怖いけど……やってみる」
いずれにせよ、進んでいくしかないのだ。
どんな障害も、乗り越えていかなければならない。
……謎の男の影は、一体だけではないようだった。
廊下は歪に折れ曲がっているのだが、見える範囲で三体は存在する。
ただ、幸いなことに影たちの視界はとても狭いようで、すぐ横にある壁や物にぶつかったり、瓦礫に躓いたりするなど、前方の限られた距離しか見えていないように思われた。
側面から回りこむようにしていけば、何とかなりそうだ。
人型をしてはいるものの、影からは絶えず黒い粒子のようなものが飛散している。恐怖の感情の具現化とエオスは言ったが、なるほど見ているだけで胸がズキズキと痛むほど恐ろしかった。
取り戻せない記憶の中で――きっとこの影のオリジナルに対して、私は恐怖を抱いていたのだ。
そのことは、確信を以て言い切れた。
それでも……拳をぎゅっと強く握って、私は行動を開始する。
柱や観葉植物があるのは好都合だ。影が別方向を見ている瞬間を狙い、私は物陰から物陰に移動していく。
足音でバレてしまうのが一番危なかったが……どうやら影たちは、聴覚もあまりよくないようだった。
大きな観葉植物の後ろに隠れながら、黒き影をやり過ごす。そうしたら、次は奥に見える柱へ。その繰り返しで、長い廊下を必死に走り抜けていく。
やがて、ジグザグな廊下の終わりが見えてきた。次の部屋への扉があったのだ。
少し前にも影はいたけれど、ゆっくり円を描くように動いているので、それに合わせて移動すれば死角を突ける。
「ふう……」
呼吸を整え、私は覚悟を決めて進む。
影とかなり近い距離まで接近するが……真正面から見られない限りは、大丈夫だ。
まるで影とダンスを踊るように、ぐるりと半周し。
そしてそのまま軌道を逸れて、扉へとダッシュする。
もしかしたら最後に見られていたかもしれないが――もう関係がない。
私は勢いよく扉を開いて、そして背中で体重をかけて閉めたのだった。
「っはーあ……無事に通り抜けられたあ」
「ですね。ちょっとヒヤヒヤしましたが……」
いつの間にか隣にエオスが現れていて、私の手をそっと握ってくれる。
そのおかげで、私は少しだけ気持ちを落ち着かせることができた。
「……それにしても、あの影って人型だったけど……私はあの人型に、どんな恐怖を持ってたんだろ」
「それは……」
エオスは口ごもってしまう。教えたい気持ちはあるのだろうが、やはりそれはルール違反なのだろう。
けれど、エオス自身があの影を怖がっていることは、どうも引っ掛かってしまう――。
そのとき、頭の中に突如として一つの情景が浮かび上がった。それは全く前触れもなく訪れたので、まるで自分が瞬間移動でもしたかのようにすら感じられた。
浮かんだのは、落下の情景。踊り場――おそらくは学校だろう、そこから階下へ身を躍らせている少女。
彼女の顔は見えなかったけれど……それは明らかに自らの意思によるものではなかった。他者からの、悪意ある一撃によるものに違いなかった。
そして、場面はシャッターを切るようにして移り変わった。空中で静止していた少女は、物理法則に従って階下の床に倒れ伏しており、その額はぱっくりと割れて、どろりと血が溢れていた……。
終わりの光景だ、と私は直感した。
私が見た景色ではないけれど、これは……最後の場面なのだと、そんな風に思えたのだった。
「……どうしました?」
エオスの声が、私を元の場所へと引き戻した。……景色が映っただけなのに、まるでそのシーンに立ち会ったような錯覚にすら囚われてしまった。
流れる汗を拭いながら、私は掠れた声で答える。
「……ううん、何でもない」
確信は持てないけれど、考えるのは後回しにしたかった。
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