前日から降り始めた雨はいまだ止まず、王都サムザントの名物である『石畳』の街並みも生憎の天気に文字通り精彩を欠いていた。
一方で雨にはしゃぐ子供たちが路上を駆け抜け、水たまりを弾いて透明な王冠を作る。
薄暗い世界にパッと笑顔の花が咲く。
どうやら子供たちには、空模様など関係ないようだ。
その光景を馬車のなかから眩しそうに眺めると、メイルゥはまた静かに手元にある本へと視線を戻すのだった。
ついに出たエドガー・ナッシュの新作である。
頼んでもいないのに、またぞろ彼女のもとへと本人が送りつけてきたのだ。
おりしも国王直々の要請で、三ヶ月ぶりに王宮へと馳せ参じようとしていたときである。
道中の暇つぶしにと旅の友にしたのだが、老眼の激しい六十代の姿では、そう長々と読んでもいられない。目元をほぐして「ふぅ」とため息。
本のタイトルは『不死のスキャンダル』という。
悪の魔法使いが、禁術とされている不老不死の魔法を蘇らせ、各国の王に売り込む。それを主人公である正義の魔法使いが止めるといった内容だった。
どこかで聞いたような話だが、以前、途中で筆が止まっていた小説とは全然違う作品である。
天啓を失ってからしばらくスランプだったというが、どうやら芸風が変わったらしい。
とは言え、メイルゥにとって読みづらいのは相変わらずだった。
しばらくいたずらに目を滑らせていたが、栞として愛用している十五センチのものさしをページの間に差し挟み、パタンと本を閉じた。
思い出すのはあの青年の微笑み。
彼の母親と語らい合ったあの夜から、はや二ヶ月が経とうとしている。
ひとの身になってから200年。
悠久の時を過ごしてきた火の精霊としての彼女からすれば瞬きのような時間だった。
王都サムザントは、メイルゥが暮らす『シエナの街』から鉄道でも一昼夜掛かる。
逆戻りとはいえ、あの日と同じ道程にふと懐かしさを覚えた。
そっと本の表紙を撫でて、ページに挟まるものさしを想う。
もうあのひとは――。
フレッド・ミナスはこの世にいない。
ガタゴトと並びの悪い『石畳』の感触がずっと馬車へと伝わっていたが、それももう終わりに近づいているらしい。
緩やかになるスピードと共に、馬車の揺れる間隔も次第にゆっくりとなっていった。
メイルゥは窓から外の景色を見る。
そこには懐かしき我が家。
王の住まいし荘厳な宮殿があった。
長い長い庭園を渡り、ようやく馬車は止まる。
メイルゥが宮殿へと降り立つと、百人はいるのではないかという侍従たちの出迎えが待っていた。皆がまるで争うように「おかえりなさいませ」と彼女に声を掛け、なかには涙するものまであった。
隠居してから三ヶ月、皆、想うところがあったらしい。
メイルゥはなるべく一人ひとりと言葉を交わし、旧交を温めるのであった。
大理石で出来た巨大なエントランスホール。
左右に並び立つ侍従たちの最奥。
サムザ公国建国の父であるニコラス一世の肖像画のまえである。
その人物はいた。
真紅のローブをまとった凛々しい壮年の男。
雄々しく豊かな髭に、威厳と慈愛に満ちた瞳をしている。
頭上には冠をいただき、手には宝石が散りばめられた王笏が握られていた。
メイルゥは彼のまえに静かにひざまずくと、胸のうえに手を当てて最大級の敬意を表した。
「陛下、メイルゥが拝謁いたします。ご機嫌麗しゅう」
「待ちかねたぞ、わが魔導卿! 息災でなによりである!」
「ありがたき幸せ。陛下にあらせられましてもおかわりなく」
「よいよい! 堅苦しい挨拶など抜きじゃ。茶でも飲もう。さあ来りゃれ」
彼こそがサムザ公国の現国王、ニコラス十世である。
魔導王朝時代から継承するサムザント公爵にして、サムザ大公。
ジョルジュ・テイルズ=サムザント、そのひとだ。
国王は老婆のメイルゥをいたわるように、自ら手を取り、白亜の階段を昇っていった。
サムザントとは、サムザの美名である。
もともとは旧魔導王朝領の西南に位置する広大な地域一帯をそう呼んだ。
それをテイルズ家の王太子であったニコラス一世が辺境伯として着任してきた際、国名として制定したのである。国境守護の功績が認められ独立自治権が与えられたとき、爵位名としてサムザント公爵を名乗ったことが始まりであった。
王朝風の呼び方をすれば、グランデューク・オブ・サムザントと言う。
「王朝が落とされてからはや二十年。余もまだ三十代の鼻垂れであった」
侍従がはべっているというのに、手づから茶こしなど持って嬉しそうにカップへと湯を注ぐ。
国王はメイルゥをテラスにあるテーブル席へと座らせると、「誰も手出しをするでないぞ」と言い渡して、甲斐甲斐しく彼女をもてなすのであった。
「余も、父である先王も、そのまた先王も。ずずぅっと桑樹王陛下の御世から、卿には世話になっている。茶のひとつも淹れさせてくれねば、ご先祖さまに叱られる。それ出来た」
美しい陶磁のカップに入れられた紅茶が映える。
サムザはもともと茶処であった。
高原地帯にある御料畑で、王室御用達の紅茶を生産するのが主な産業だった。
それがいまでは鉱山開発のために茶畑農家は土地を追われ、国内で取り扱う紅茶そのものも多くは輸入に頼っている。
メイルゥは香りをひと嗅ぎすると「懐かしい」とつぶやき、この紅茶がいまとなっては数少ない貴重な御料畑で採れた茶葉であることを察した。
すべて国王のはからいである。
最高のもてなしだった。
「本当は大臣たちも集めて、庭園で壮大な茶会をと思ったのだが、あいにくの天気でな」
「何から何まで……お気づかい感謝いたします。茶会も素晴らしかったことでしょうが、こうして陛下と水入らずというのも、この年寄りには嬉しいものです」
「そ、そうか。なら良かった」
茶菓子などをつまみつつ、しばらく談笑が続く。
他愛のない昔話に、お互いの近況など。
末姫に彼氏が出来たらしいとか、この頃、傷の治りが遅くなったとか。
本当にどうでもいい会話が続く。
そのうちメイルゥもじれてきて「陛下」と。
ギクリと背筋を伸ばした国王が、脂汗を額から流しながら「な、何かな」と問う。
「少し……お人払いを」
「う、うむ」
国王は手を払う仕草をして、その場にいたすべての侍従をテラスから追い出した。
残されたのはメイルゥと国王。
そして次第に冷めていくカップのなかの紅茶だけ。
メイルゥはゆらりと立ち上がると、愛用の杖を握りしめて、庭園のよく見えるテラスの外縁へと足を運ぶ。
その際にである。
国王の横を通りしな、手にした杖で彼の頭をゴツンと小突いたのだった。
「いてっ!」
「あたりまえさね。痛いように殴ってる」
「一応、王様なんだから、手加減してくださいよっ」
「な~にが王様だい。鼻垂れのまんまじゃないか」
「うっ」
肖像画にあるニコラス一世の面影も残した、威厳のある美丈夫はどこへやら。
国王は小突かれた頭を撫でつつ、眉をへの字に下げている。
「ジョルジュや」
「は、はい」
「あたしを呼んだのは、茶飲み話をするためだけかい? これでも案外、忙しいんだけどね」
すると国王は事もあろうか、すでに市井に下り、官職も持たぬ一介の老婆に向かって膝を折ったのである。
かつ幼児のように彼女の脚へとしがみつき、辛うじて耐えているが、いまにも泣き出さんばかりに顔を歪めている。
メイルゥはさっき自分が小突いた彼の頭を、ぽんぽんっと撫でてやると「言ってみな」と雨の降りしきる庭園を眺めながら口にした。
「お、お、お……王様やる自信ないんですぅぅぅぅ」
ついに決壊した涙のダムが、一気に滂沱となって流れ落ちる。
やれやれといった風のメイルゥは、杖で肩を叩きながら、大きなため息をついた。
「そんなこったろうと思ったよ。また大臣連中になんか言われたのかい」
「い、言われてないっ。言われてないけどっ。すでに王権なんてあってないようなもんだし、国策とか予算とかも勝手に元老院で決まっちゃってるし……おれ、おれ……」
「いてもいなくても一緒だって?」
「ハッキリ言い過ぎ!」
するとメイルゥはいつものごとく、どこから取り出したのか分からないが火のついた紙巻きタバコを手にした。
ふぅ~と一息くゆらすと、あたりに紫煙が立ち上る。
「先王が長生きしてくれた分、あんた放蕩三昧だったもんねぇ」
「うぅ……返す言葉もない……」
「ニコラス一世がサムザに着任した経緯は知っておいでかい」
「え? そ、それは国境守護のために、当時の大王からの勅命で……」
メイルゥはタバコの灰を指で弾くと「おしい」と舌打ちをするように言った。
「飛ばされたんだよ。この茶畑しかない、蛮族どもとの最前線に」
「と、飛ばされた?」
「当時から魔法使い主導の独裁政権に疑問を持っていた勢力があった。その急先鋒があんたのご先祖さまだったんだよ」
「は、初耳です」
「だろうね。辺境伯ってのは普通、よっぽど信頼のおける王家の腹心を据えるもんさね。対外的にもそう伝えてあったはずだ。その実、口うるさい家老を前線へ飛ばして、首尾よく国境を平定すればそれで良し、そのまま戦死してくれりゃなお良しってわけさ」
「えげつねえ」
「ニコラス一世は魔法は使えなかったが、不思議なおひとだった。人たらしとでも言うのかね、敵として対峙していた蛮族どもと、すぐに打ち解けた。挙げ句に外国の技術をすぐに吸収しちまって、あっという間に辺境を平らげちまったんだ」
唖然とする国王をよそに、メイルゥの昔話はまだ続く。
庭園を濡らしている雨足はそろそろ弱まり出した。それでもまだシトシトと、名残惜しそうに天から降り注いでいる。
雲間からは時折、光が射している。
「桑樹王――ニコの父親が夭逝し、すでに隠居していた晩年の大殿しかあたしは知らないが、それでもその風格は死ぬまで失われず、真の王族とはああいうものだと教えられた」
「すげえなぁ……それにひきかえおれなんて……」
「何言ってんだい」
メイルゥの明るい声色に、国王が顔を上げる。
立派な髭を鼻水と涙でぐしょぐしょにしたその顔に、思わず吹き出してしまいそうになった。
「あんたはその大殿にそっくりさ。どうにもならなくなって、女に泣きつくとこなんざ特に」
「はい?」
「王権だの政治だのとあんたは言うけどね、サムザの民は強いよ。王様なんざ、玉座にふんぞり返ってりゃいいんだよ。いつかこの国が、跡形もなく消えちまっても、それでも人間は生きていく。それだけさ」
「ばあちゃま……」
メイルゥはもう一度、国王の頭を撫でてやると、空を見上げた。
雨はもう上がり始めて、うっすらと虹が掛かる。
「長生きしておくれ。あんたも大事なあたしの息子だよ……」
まるで天から光が溢れてくるように、雲が一斉に消えていった。
唐突に現れた蒼穹に、国王は言葉を失っている。
「ニコが晴れにしてくれたね。あの子は死んだ日ですら、雲ひとつない青空だったもんさ」
メイルゥは手のひらを天へとかざして、その温もりを確かめた。
そっと誰かが触れた気がする。
きっとそれは、いままでメイルゥが出会ってきたすべての人間たちの温もり。
精霊となった大切なひとたちが会いに来てくれたのだと――。
サムザントはサムザの美名である。
彼らが愛した、土地の名だ。
この世のすべてがやがてカオスに飲み込まれようとも、メイルゥは決して忘れないだろう。
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