みなその人物に釘付けだった。
するとゴロツキのひとりが押し殺すような声で「じ、人狼卿……」と呟いた。
「人狼卿?」
それを耳にしたメイルゥは、かねてよりエドガーから聞いていた、自らに呪いをかけてひとであることをやめたという貴族の話を思い出す。
尖った耳に金色のガラス玉のような瞳。
あらためて見れば、なるほど。
確かに狼のそれである。
「なんかお困りさん? ちょっと待ってて、いまそこ行くから」
「ちょ、な、なんでっ?」
ゴロツキどもの狼狽をよそに、人狼卿と呼ばれた人物は朱塗りのバルコニーから飛び降りてきた。高さにして七、八メートル。舗装もままならぬ傷んだ石畳の坂道に、まるで猫のようなしなやかさで着地した。
「旦那」
頭上からの声に人狼卿は天を仰ぐ、するとさっき飛び降りたばかりの朱塗りのバルコニーからメイルゥを見下ろしていたあの女が身を乗り出し、一本のステッキを投げて寄越す。
人狼卿はそれを受け取るやいなや、調子はずれの鼻歌などを口ずさみながらゆっくりと坂道を登ってきた。
頭部はまるきり狼だった。そして肩から胸元にかけて、顔と地続きに体毛がびっしりと生えている。筋骨たくましく上背に優れ、白い下帯一丁にステッキ姿という、なんとも色気のある悩ましい男だった。
「へへへ……人狼卿の旦那ァ……こいつはどうも……」
威勢の良かったゴロツキどもに変化が現れる。
もっとも顕著だったのは、リーダー格の男だった。
手にしたナイフを身体の後ろへと隠し、残った手は申し訳なさそうに頭をかいている。
手下どもが一斉にそれにならうのを見ると、メイルゥは何だか滑稽な気がして可笑しかった。だが笑うのを我慢して、鼻から小さく空気がもれる。
「縄張りがどうのという声がしたけれど、きみたちも私とおなじで政府の改革以降に外から来た移民者じゃないか。地元住民とのトラブルは良くないなァ。仲良くやろうよ」
ポンとゴロツキの肩を叩いて、人狼卿はひとの輪のなかに割って入ってきた。
メイルゥのまえに来ると彼女の手を取り、甲にキスをする。
「それにこんなお美しいご婦人ひとりに、大の男が数人がかりとは……恥を知れ!」
語気も強く、人狼卿がゴロツキたちを圧すると、そのうちのひとりがその場の空気に耐えられなくなったのか、隠していたナイフをギラつかせる。
「は、恥ずかしいのはおまえだろうが! この素っ裸のワン公が!」
うおおおぉ、という掛け声と共に威勢よくナイフを斬りつけてきた手下その一だったが、その攻撃が人狼卿へとたどり着くまえに、彼のステッキの先端にて喉元の急所を突かれて転倒した。
カウンター気味に放たれたファンデヴ(突き)がモロに入り、気絶寸前で悶絶をしている。
「ナイフはそういう風に振りかぶるもんじゃないよ。水平に構えて内臓を突くんだ」
するとまたひとりが彼に突進していく。
今度は彼の講釈の通り、地面と水平に構えたナイフで、脇腹をえぐりにきた。
「もっとも相当な実力差がない限りは、得物の長さがものを言うけどね」
人狼卿はまたもやステッキを振るうと、今度は手下その二の顔面を殴打した。
メイルゥの眼前で、ミシリと鼻っ柱の折れた音がする。
手下その二もまた、あえなく人狼卿のまえに倒されてしまった。
「くそ! やっちまえ!」
ここまで来てしまってはもう後戻りは出来ないと、リーダー格の男が残りの手下どもに発破をかける。
すると人狼卿は突然、メイルゥの視界から姿を消して、超人的なスピードで動き回った。
まるでツバメの飛ぶ姿が空に尾を引くように、また流れる川の水のように型もなく。次々とゴロツキどもの、横を通り抜けていく。
そして最後にリーダー格の男の後ろへ回ると、ステッキに仕込んでいた細身の刃を、その脂肪でだぶついた喉元へと突きつけたのだった。
「わああっ」
「ひっ」
「うおおおおっ」
手下どもが口々に驚愕の声を上げる。
なんと各々が穿いていたズボンが、下帯ごと切り落とされているではないか。
ゴロツキどもは丸出しになった下半身を慌てて隠し、前かがみになって人狼卿から距離を取り遠ざかった。
「ここは私の顔を立ててもらおうか」
「た……ただじゃおかねえぞ……は、ハンソン一家に、け、喧嘩を売っちまったんだ……」
「妙な因縁をつけるなよ。お互い、朝の運動だとでも思えばいいじゃないか」
「ちょ、調子のいいこと言って――ひっ」
人狼卿は仕込みの切っ先に少し力を込めた。するとだぶついた顎の肉から、ひとすじの赤い線が流れ落ちる。
「これ以上は遊びにならないのはお互いさまだ。大人なら聞き分けろ」
ドンと背中を押して、人狼卿はゴロツキを戒めから解放してやった。
よろめいて手下どもの輪に戻ったリーダー格の男は、出血した顎の肉を押さえながら、その場を足早に去っていった。
捨て台詞すら言う暇もなく、脱兎のごとくとはこのことだ。
「世話になったね」
仕込みをステッキに納刀していた人狼卿の背中に向けて、メイルゥが開口一番に礼を言う。
「面倒を掛けちまったんじゃないのかい?」
すると人狼卿は振り向きざまに目を細めて「いやなに」と。
「ご婦人を守るのが紳士の存在意義ですよ。それから――そこのおチビさん。もう出てきていいよ。いるのは分かってるんだ。狼は鼻が利くんでね」
騒動の現場となった枝道の起点。
そこに建つ旧パブの廃屋。そのなかのバーカウンターから、ピョコンと小動物のように顔を出したひとりの小僧がいる。サラだ。
悶着の最中、ずっと身を潜めて震えていたらしい。
メイルゥがその姿を見て、そっと手を差し伸べると、猛烈な勢いで走ってきて彼女の腰にしがみついてきた。手にこもる力の加減で、どれだけ心細かったのかが分かる。
「礼がしたい。えーと人狼卿? 貴族さまかい」
「はっはっは。あちらにもう少し健全な店があります。そこでお茶といきましょう。身支度をして参りますので、お先にどうぞ。すぐ伺います」
そう言って人狼卿は颯爽と坂道を降りていく。
メイルゥとサラは顔を見合わせ、安堵の笑みを浮かべた。
ふたりが人狼卿と再会したのは、ほんの数分後だった。
坂道のうえにある枝分かれした道の右のほうをまっすぐに行くと、ウッドデッキにテーブルセットが置かれたオープンスタイルのカフェがあった。
彼女らはそこで飲み物を注文し、彼を待った。
現れたのは、まるで役者が着るような真っ白い背広にシルクハットを合わせた紳士だった。
手には先程の仕込みステッキを持ち、そして右目にはモノクルをはめている。
常連なのか、彼は「いつものを」と店員に注文すると、すぐに出された深煎りのコーヒーに舌鼓を打つ。帽子をかぶった狼が、脚を組んで器用にコーヒーをすするさまは見ているだけでも楽しかった。
「アイザック・ルヴァン。しがない田舎貴族です。サムザにはなんと言いますか。政府政策の一環で参りました」
同盟国の多くがサムザ公国の国益を削ぐために、権力闘争外の子飼いの貴族を大使として遣わしている。親善の名のもとに、じわじわと地歩を固めようという思惑なのだが、メイルゥの守護のもと200年の結束を培ってきた一枚岩同然のサムザは、諸外国からすれば異常なほどの貞操を保っていた。
「ルヴァン? あの剣聖ルヴァンかい。当代一の剣使いさまにこんなところで会えるとはね。確か男爵だったね。光栄だよ」
メイルゥは心から驚いていた。一方、サラはと言えばさっきまでの緊張はどこ吹く風、すでにふたりの会話に飽きはじめている。
「よくご存知ですね。ええ確かに私は剣聖の位を保持しています。しかしいまや戦場の主役も蒸気機関ですよ。戦車や大砲をまえに、剣になにが出来ましょう。所詮は蟷螂の斧。生まれてくる時代を少々間違えました」
「それで世の中、嫌んなって、狼になっちまったのかい」
「ま、そんなところですね。しかし色々とご存知のようだ。失礼ですが、あなたは?」
「ただの王室グルーピーさ。いつか貴族さまにお手を付けてもらおうかと思ってね」
「ははは……ご冗談を……」
そうかぶりを振って、熱いうちにとコーヒーをもう一口、含んだところだった。
「あ、このひとメイルゥだよ。サムザの大魔道士」
「ぶうぅぅぅぅぅっ!」
サラの一言によって、口に含んだコーヒーをすべて噴き出してしまった。
大きく見開いた目から、愛用のモノクルがこぼれ落ちる。
「きったないね! なにすんだい!」
するとルヴァンは椅子から転げ落ちるようして、ウッドデッキへとひざまずき、こうべを垂れた。胸元にしっかりと手を置いて、目線はメイルゥの足元へ。
「は、伯爵さまでいらっしゃいましたか。おひとが悪い。このルヴァン。この国の魔導卿ともあろうお方に失礼を……いかようにも責をお申し付けください」
「面倒くさいヤツだね。あたしゃもう魔道士でもなんでもないよ。それにサラ、おまいさんも余計なことお言いでないよ。飽きてんだろ? あっちで猫とでも遊んできな」
するとサラは大はしゃぎでウッドデッキを飛び出していった。
「まず座んなよ、ルヴァン。そういう誰が偉いの偉くないのってのが嫌で、あんた人間やめたんだろうが。さっきのあんたはカッコよかったよ。ひとのためなら損得なしに身体が勝手に動くタイプだね」
「は、お褒めに預かり……」
「いいから座んな! それに聞きたいことがある」
「聞きたいこと――ですか?」
ルヴァンはメイルゥの再三に渡る要請を受けて、ようやくテーブルに同席し直すと、シルクハットを脱いで居住まいを正した。
「して、ご質問とは?」
「あんたのその顔――作りモンには見えないね」
搦め手をあえてせず、真っ向からの質問にルヴァンも表情を崩す。
もっとも彼の顔にはそういくつもの表情パターンがあるとは思えないが。
「はっはっは。なるほど。やはり閣下は、こっち側の人間でいらっしゃいましたか」
「――おまえをその姿にしたのは、ノームの眷属だね。いまどこにいる?」
かつてない凄みを帯びた表情でメイルゥがルヴァンを問い詰めている。
まるで周囲が氷に包まれたかのようだった。
ただならぬ「気」の流れに、サラと遊んでいた野良猫たちが身構えた。
それを見たサラもまた異変を感じ、ウッドデッキで相対している、ひとりの魔道士と一匹の狼を交互に視界へと入れた。
「残念ですが、それにお答えすることは出来ません」
「なぜだい」
「知らないんです。あのひとのその後の行方を。そして決して誰にも言うなとも」
「ほぅ。このメイルゥにも内緒ってわけかい」
「――私を殺しますか?」
ルヴァンの右腕が少しだけベンチシートに立て掛けてあるステッキへと近づいた。
それを目の端で捉えたメイルゥは鼻で笑い「この距離ならと考えてるね」と。
「本物の魔法使いに、剣使いごときが勝てるとお思いかい?」
その言葉に、ルヴァンの身体から闘争心がすべて抜け落ちていった。
観念したのか。
金色のガラス玉をした瞳を閉じて、両の手を静かに膝のうえへと置いた。
「うん。いいよ。べつにあたしが知りたいんじゃないし」
「へ?」
「あんたんとこに昔、物書きが取材に行ったろ? アレにせっつかれてね。色々世話になってるから一応、声掛けてみただけ。正直、精霊の盟約者なんぞにいまさら興味はないよ」
「は、はははは……閣下もおひとが悪い……」
「そ。それくらい砕けたほうが、あんたらしいよ」
ふたりは心の雪解けを感じ、お互いの言葉のひとつひとつに笑顔を載せた。
それからいくつ言葉を交わしたのか。
次第に道路にも人通りが多くなり、今日のところは解散と相成った。
しかし最後にメイルゥはルヴァンから、街中でゴロツキどもとやり合うときには注意すべきことがあると諫言された。
「閣下――銃にお気をつけなさい」
「銃? 鉄砲かい」
「はい。いまの時代、軍以外にも銃は流通しております。さっきのゴロツキたちが持っていないとは限りません」
「ふーん。でもそれはあんたらも同じこったろ?」
あんたらとは剣士のことである。
先程も近代戦闘において、剣の無力さをルヴァン本人が語ったばかりだ。
「痩せても枯れてもこの剣聖、銃の射程からならいかなる殺気をも感じ取ることが出来ます。それにそもそも銃とは、魔法使いを遠間から射殺するために開発されたもの。その違いは大きい」
剣士もまたルツの感応に優れた人間たちであることは広く知られていた。
戦場においてその勘の良さは、まさに一騎当千へとつながる。
しかし魔法使いのそれはあくまで通常の人並み、剣士とは比べるまでもなく、戦場の白兵戦には不向きであった。
魔導王朝千年の歴史に終止符を打ったのも、一発の弾丸であったとされる。
魔法使いの意識の外側から放たれた凶弾が時代を終わらせたのである。
「お気をつけください」
ルヴァンはもう一度、メイルゥに語りかけた。
まるで慕う姉にでも懇願するかのように。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!