かつて魔法の支配を受けていた世界は、蒸気の力を借りてその呪縛から解放された。
だが力の根底にあるのはどちらもおなじ精霊石。
時代に分かたれた文明の双子が、まるでお互いを食い合うようにして一方を殺す。
それが魔導王朝千年の歴史を一夜にして瓦解せしめた正体である。
メイルゥは病院からの帰路、路面列車のなかで物思いにふけっていた。
自分たち魔法使いのみが使役していたルツの発生源である精霊石が、いま科学の力を借りて魔法使いではない人々の生活を潤している。
それはいい。
千年、魔法使いが人々を欺いてきたことを考えれば、これほどの有効活用はないものだ。
が、しかし。
しかしである。
その精霊石がまた人々を苦しめる原因となって、世界に舞い戻ってきたというのだ。
これほどの因果をメイルゥは知らない。
ひとの世の業というものを感じずにはいられなかった。
かの幻想小説家エドガー・ナッシュの言葉を借りれば、百年まえに、蒸気機関の燃料を薪から精霊石へと変えた男がいる。
その名もヘンリー・ワットソン。
蒸気機関の技術に関して五十以上の特許を持っているワットソン・カンパニーの創始者にして精霊石式蒸気機関のパイオニアである。
王朝外の中堅貴族で戦時下でもこれといった名声は聞こえてこなかったのだが、彼の蒸気機関の再発明にはひとつ伝説的なエピソードがあった――。
「水の精霊ウンディーネと恋に落ちた貴族の話を知っているかな?」
それはエドガーがまだ王朝内でしがない小役人として仕えていたころの話だ。
年に数回、査察の名目でサムザ公国に出張しにきていた彼は、魔道士メイルゥにとっても朝議の内容などを横流ししてくれる良き話し相手であった。
腹もまだ出っ張ってはおらず、宮廷の小間使いたちにもキャーキャー言われていた時代だ。
「またその手のおとぎ話かい? 好きだねぇ」
このころすでに大気のルツに呼応していたメイルゥの肉体は、かつての『永遠のハタチ』を自称するにやぶさかではなかったままとはいかなかった。
先王ニコラス三世。おくり名を桑樹王にさえ、二歳ほどサバを読んでいた事実はいまや誰の口の端に上ることもない。
この国を訪れておよそ200年。はじめて経験する「老い」をメイルゥは楽しんでいる。
「君も外国で蒸気機関の再開発が盛んなのは知っているだろう? 情報が遅れに遅れて、王朝内に伝来したのはつい最近のことだけどね」
「それがどうかしたのかい」
「どうやらその中心にいる人物が、ウンディーネから技術を教わったらしいんだな。燃料に薪ではなく精霊石を使うことをさ」
「自分の身体を燃やせって?」
精霊石は大昔に息絶えた精霊の肉体である――これが魔法学会の定説だった。
「その通り。伝説によればウンディーネは人間の男に恋をすると、魂を宿し肉体を得る。ワットソンとかいう田舎者だが、どうにも隅に置けないね」
「そのあとはどうなったのさ」
「え? そのあとって?」
「そのワットソンとかいうの。精霊と添い遂げたのかいって聞いてんのさ」
言葉に棘があるのを感じて、エドガーは居住まいを正した。
それから手にした「取材ノート」を一読すると、
「残念ながら、ワットソンは事業を興してすぐに亡くなっているね。ウンディーネは破局すると男の魂を奪って自分も命を落とすという。もしかすると関係あるのかな?」
丸メガネをギラリとさせて興味津々といった感じだ。
しかしメイルゥはどこ吹く風で、かえって遠い目になってしまう。
「……アンディのやつ。また男にいいように弄ばれたんだね……」
「え? なにか言ったかい?」
「べつに」
「なあなあ。この男、精霊の盟約者だったのかな? 例の本物の魔法使いってやつさ」
「うるさいねぇ。もう仕事は終わったんだろ。早くお帰りよ」
「つれないなぁ。もうちょっと付き合ってくれてもいいじゃないか。それからさ――」
ぽぅっと汽笛が鳴る。
メイルゥの意識は過去から現在へと連れ戻された。
そして次に意識がたどり着いたのは、医師から聞いた耳慣れぬ言葉――人工心肺。
医師によれば例の疾患で機能不全を起こしているのはおもに心臓、肺、血管、血液に関する大まかな循環器系の活力低下なのだそうだ。
ハッキリと彼は断言した。完治の方法はないと。
しかし延命の方法なら国外においてすでに実用段階にあるという。
その名を――人工心肺手術。
「活力の低下した生身の心臓や肺を捨て、蒸気機関によって血液や酸素を循環させる機械を外科的に患者の身体に取り付けるのです」
「それが……人工心肺……」
「はい」
病院内での医師との会話がありありと思い出される。
ふとした瞬間に頭をよぎるフレッドの笑顔に胸を締め付けられながら、医師の語った言葉を一言一句、丁寧に思い返す。
そうすることでこの胸の痛みをちょっとでも和らげようとした。
「すでに国外では実用段階です。しかしながらこの手術は技術的にも困難を極め、また費用も高額です。それに術後の維持費も考えますと、小さな都市の運営費ほどになるでしょう」
「そんなにもかい……」
「しかもサムザ国内では、まだ臨床試験の許可すら降りておりません。仮に施術を行うにしても患者を国外へ移送する手続きが必要になります。患者への負担を考えますと、決断は体力が残されている早い段階にするべきですが、あまりにも非現実的過ぎますのでなんとも――」
メイルゥは頭を抱えてしまった。
「おすすめはしませんが、まったく希望が残されていないわけではないとお伝えしたかった。ましてやご家族ではないのです。閣下がそれほどお気を病むことでは……」
「お気遣い感謝するよ……」
「こ、光栄です」
よほどドスの利いた声だったらしい。
最後に覚えている医師の顔が引きつっていたのを思い出して、そこで我に返った。
路面列車はゆっくりと進む。
ぼちぼち乗り換えの「島」へと近づいてきた。
メイルゥは曲がった腰を伸ばすようにして席を立つと、おなじように席から離れた若い男二人連れが視界に入った。
妙な胸騒ぎがしてもう一度、腰を降ろすと、やはりそのふたりも一度立ち上がった席へと座り直したのである。
これはいよいよ――。
そう思い、メイルゥは乗り換えるはずの「島」を通り過ぎ、そのままおなじ列車に乗り続けたのである。
やがてメイルゥを乗せた路面列車は繁華街を越えて、寂れた住宅街へ。
人通りも少なくなったところでメイルゥは立ち上がった。
すでに路面列車のなかも、数えるほどしか乗客はいない。しかしあの二人組の若い男たちは、いまだに客車の座席を温め続けている。
「ツラ貸しな」
男たちは顔を見合わせ動揺した。
まさかメイルゥのほうから仕掛けてくるとは思わなかったのだろう。
男ふたりとメイルゥ、あわせて三人は「島」で降りると、老女を先頭にして奇妙な行軍をはじめる。男たちは「どうする?」などと小声でなにかを相談しているが、メイルゥはそんなことお構いなしだった。
しばらくしてメイルゥは細い路地へと入った。
通りからは覗けないような入り組んだ場所である。
石造りの壁に挟まれた街中の迷宮。家庭用のボイラーのくすぶる音だけが響いている。
「ハンソン一家の三下だね」
愛用の杖を真横に構えてメイルゥがつぶやく。
明らかに目がすわっているのだが、動揺している男たちにはそんなことも分からない。
「さ、三下たぁずいぶんじゃねえか! こ、こちとら一家の舎弟のモンだっ!」
「それを三下って言うのさ。坊主ども、病院からあたしをつけてたね。ボスの差し金かい」
すると男たちは銘々、ナイフを取り出して凄む。
狭い路地裏をふさぐようにして、メイルゥから距離を取った。
「てめえのほうからこんな人気のねえところに入ってくるとは、頭の悪いババァだ!」
「ちょっと俺たちに付き合ってもらうぜ! 大人しくしてれば、怪我し――」
仮にこのとき杖で顎を砕かれたほうを三下その一と呼ぶことにしよう。
杖の間合いというのは喧嘩の素人にはつかみにくいものだ。
短く見えるようでいて、けっこう長いのである。
また使用者の練度にもよりけりだが、メイルゥのように肩甲骨からの円運動を主体とする武芸者のなかには、杖術こそが最強であると豪語するものもある。
「ごちゃごちゃ言ってないで、ボスのところへ案内しなよ。銃でも持ってるかと思って人様に迷惑掛からないとこまできたけど無駄足だったね」
「て、てめえ――ひぃぃっ……」
鼻先に杖を突きつけられた三下その二は、手にしたナイフを地面へと落とすといよいよもって泣き言を吐露しはじめた。
ちなみに三下その一はまだその辺をのたくっている。
「か、勘弁してくれよっ。俺たちはあんたを連れて来いって言われただけなんだよぅ。くそっ。こんなことなら四十二番のほうへ行きゃよかった……」
「なんだって!」
四十二番。それは人買いに付けられたサラの呼び名である。
忌まわしい過去と共に、すでに彼女が捨てた名である。
それをこの三下たちが知っているということは、すでにサラの身が危険にさらされているということを意味していた。
ときを遡ること数時間まえ。
まだメイルゥが病院にて、甲斐甲斐しくフレッドの世話を焼いていたころだった。
「お嬢さん。メイルゥさまに速達便が届いてますよ」
それは留守を預かるサラに、ホテルのフロント係をしているお姉さんからのお知らせだった。
朝から暇をしていて、ちょうど噴水広場にでも遊びに行こうかとしていたときだ。
ふいに呼び止められて一通の手紙を渡された。
「ありがとう」
何かをしてもらったら必ず礼を言え。
それがレディとしての第一歩だとメイルゥは口を酸っぱくしてサラに言う。
手紙を受け取った彼女は、そのままホテルの外へと出ていった。
「え! エドガー・ナッシュ?」
封筒に書かれた差出人の名前を読んで、びっくりした。
そこにはあの憧れの小説家エドガー・ナッシュの直筆のサインがあるではないか。
図書館の蔵書のなかにはいくつか寄贈本があり、そのなかにエドガーのサイン入りの本があったのを覚えていたのだ。
「ほ、本物かなっ。なんだよ、ばあちゃん。知り合いなら知り合いって――ぶっ」
封筒に目が行き過ぎていたのか、道行くひとにぶつかった。
まだ坂道の途中である。下りの勢いがついた彼女が脚は、なかなか止まってはくれなかった。
「ご、ごめんなさ――」
見上げたその男の顔はハッキリと覚えている。
親の顔すら知らなくても、その顔だけはいまもハッキリと。
「よぉ、四十二番。そんな、かわいいおべべなんか着せてもらってよぉ。いい暮らしをしてるみたいじゃねえか、あ?」
「は、ハンソンの親方……」
「そんなにビビることねえだろぉ。こっちは鉱山の事業主からおまえが逃げ出したって聞いてから心配で心配で、夜も寝られやしなかったんだぜぇ?」
ハンソンと呼ばれた男は、まるで酔っ払ったような口調でサラをねぶる。
サラは蛇に睨まれた蛙よろしく、ピクリとも動けなかった。
手にしたエドガーからの手紙を地面へと落とし、恐怖と絶望に小さな身体を震わせている。
「つけさせたんだよ。あの人狼卿と一緒に、おまえによく似た歯抜けの坊主がくっついてるって聞いてよぉ。そのメスのガキみてえな格好じゃ分かんなかっただろうになぁ」
ハンソンはサラのエプロンドレスの胸ぐらを掴んで、乱暴に持ち上げた。
見る間に真っ赤になっていくサラの顔を見て、醜悪な笑顔を浮かべている。
その様子を遠巻きに見ている大人たちはみな、ハンソンの手下らに威圧されて手が出せないでいる。
ハンソンはサラの戒めを解くと、手下どもに「連れてけ」と言った。
「いい金ヅルと一緒にいるんだってなぁ。共有しようぜぇ、四十二番ちゃん……」
サラは口元を布切れで覆われるとその場から連れていかれた。
その場にはまるで何もなかったかのように風が通り抜ける。
ただ一通の手紙だけを残して――。
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