本の森から現れた一頭の狼は、愛用のステッキをくるりと回して敬礼をする。
胸元に手をあて「御前にて候」と恭しくこうべを垂れた。
「あの男のことを知っておいでかい」
なんらけれん味ないメイルゥの問いに対して、人狼卿はさしたる動揺を見せることなく一歩まえへと進み出た。モノクルの汚れなどを気にしながら「はい。閣下」と。
「おそらくはダンテ・ザ・ブラックナイト。拠点を持たず、各地を放浪している賞金稼ぎのひとりです。私も本人を見たのは初めてですが、なんでも凄腕の拳銃使いだとか」
「黒騎士……」
「明確な主従関係を持たぬ流浪人が如き自称騎士を、むかしはそう呼び習わしました。主君の旗印を身につけることは許されず、黒く染めた戦具をまとう。それゆえ黒騎士と」
バーカウンターへと身を投げた人狼卿は、背面の棚から勝手に自分が持ち込んだ酒の数々から一本のボトルを選んでグラスに注いだ。
それをメイルゥに捧げると、今度は自分用のグラスも作った。
メイルゥは琥珀色をしたグラスの水面を見つめて、独り言のようにポツリとつぶやく。
「かなりの手練だね」
「ええ。こんなところで銃を置くには惜しい男です」
「こんなところ?」
「あ、それは言葉のあやというヤツで……なんというか……あははァ」
メイルゥの鋭い言葉に舌を出す。
ルヴァンは愛くるしい犬っころの表情でその場をやり過ごした。
賞金稼ぎという制度は、旧魔導王朝領内の治安維持にとって欠かせない存在である。
ながらく魔法使いによる洗脳同然の統治を受けていた国民たちは、王朝崩落をきっかけとして自由の名のもとにモラルの低下をも引き起こした。
爆発的に増えた犯罪発生率を抑制するためには既存の警察機構では手が足らず、また自警団や本職の警官すらも犯罪者からの賄賂により私腹を肥やしはじめるという始末だった。
そこで一計を案じた一部の資産家や貴族らの手によって、自分たちの財産を犯罪の魔の手から守りたいという我欲だけで成立させたのが、いまの賞金首法である。
共同出資により立ち上げられた財団から犯罪者の首に懸賞金が掛けられ、それを捕らえた者に満額が支払われるのだ。
また懸賞金を掛けた者には、その後の裁判においても実質的な発言権を有する。
なので案件によっては、警察よりも賞金稼ぎに捕まえて欲しいと願うスポンサーも多いのだ。
しかし賞金稼ぎという職業自体はむかしから存在し、かつて冒険者ギルドの解体を境にしてその数を増やした。
かのアドルフ・マーリン一世が魔導王朝を打ち立てるという覇業を成し遂げたあと、もはや冒険探求の時代は終わったのだと告げ、多くの失業者を生んだ。
すると、もともとならず者だらけだった冒険者たちは野に放たれ、昨日の英雄が今日の賊と化して暴れはじめたのである。
爆発的に増えた犯罪者を抑えるには魔法使いの手が足らず、それでは元冒険者同士を互いに潰し合わせればいいのではないかという案が出た。
毒をもって毒を制すではないが、この策は、結果として犯罪発生率の抑制と失業者対策の両面から成功を納めたのである。
あれから千年。
魔導王朝の崩落と共に、またぞろ賞金稼ぎの存在が脚光を浴びるというのは、誠に皮肉以外の何者でもない。
「ダンテ・ブラック。近頃、流入民絡みでトラブルも多いこの国へと流れてきたのでしょう」
「なるほどね……」
会話も進み、このころにはもうふたりのグラスは空だった。
二杯目を注ごうと、ルヴァンがメイルゥのグラスへボトルを傾けたときである。
――ばあちゃん!
ぴくりとメイルゥは反応する。
サラの声が聞こえたのは彼女だけであった。
「どうかされましたか?」
なにかを感じ取ったルヴァンが、ボトルの口を布巾で清めながら訝しげ問うた。
しかしメイルゥはまるでときが止まったかのように、あらぬ一点をぼんやりと凝視しながら一切なにも語らなかったのである。
いま。
メイルゥにはサラが見ているものが見えている。
使い魔となった彼女の身体は、すでにメイルゥとは一心同体であった――。
そこはかつて街頭の浮浪児であったころにサラが根城としていた新興住宅の予定地だった。
すでに放置され久しい荒れ具合だったが、チンピラや小悪党、または娼婦が跋扈するにはもってこいの「法の空白地帯」である。
黒猫のサラの視界を通して眺めたその場所には、いまひとりの男の背中が映っていた。
ダンテ・ブラック。
メイルゥ商会に使い込まれたいぶし銀の二丁拳銃を持ち込んだ、あの男であった。
その男が対峙するのは、二人組のチンピラだった。
ともに緑色をしたそろいの頭巾をかぶり、ニヤニヤと陰険な笑みを浮かべてブラックの動きを牽制している。
手には、ハンソン一家のゴロツキたちが使っていたような自動拳銃を持っていた。
「それじゃ全然足りないぜぇ。黒いケツの兄ちゃん」
薄汚れた路地裏。
半壊しかけた石壁を背にしてチンピラたちは笑っている。
一方、ブラックの背後にも建設途中で放棄された集合住宅の成れの果てがそびえていた。
外部からは決して邪魔者は入らないだろう状況で、両者の間には、数束の紙切れが投げ出されている。それはメイルゥ商会で、ついさっきブラックが受け取った紙幣であった。
「……女はどこだ」
尋常ではない威圧感でブラックが問うが、対角線にいる男たちはいっかなその薄ら笑いを消そうとはしない。
手にした拳銃をぷらぷらともてあそびながら、身体を奇妙にくねらせてブラックの一言一句に不愉快な奇声をあげるのだった。
「だから言ってんじゃねえか、ブラックさんよぉ。そんなはした金じゃあ女は身請け出来ねえんだよ。そりゃ確かに得物売ってでも金作って来いって言ったのはおれだよ? でもちょっと考えりゃ分かんだろうが、これがアンタを丸腰にするためのワナだってことをさ!」
言うやいなや。
チンピラは表情から薄ら笑いを消して、手にした拳銃をブラックへと向ける。
ふらふらと、ふらふらと。
まだ照準も定まらないでいるが、身じろぎひとつしないブラックに腹を立てると、チンピラは片手で銃を握ったままトリガーを引いた。
パチューン、という乾いた音をあたりに響かせながらチンピラの放った銃弾は明後日の方向へと飛んでいく。当然、ブラックは避けようともしないし、逃げようともしない。
ただその場にて、恐ろしいほどの鋭い眼光をチンピラたちに注いでいた。
「こ、こんどは外さねえっ」
恥をかかされたとでも思ったのか、慌てて両手で銃を握り直す。
威圧しているのは、一体どちらなのだろう。
チンピラの表情からは見る間に、血の気が引いていった。
「……マズいね」
「え? なにかおっしゃいましたか、閣下」
メイルゥは意識を「こっち側」へと戻すと、バーカウンターにいるルヴァンに向かって、杖を取るように言った。数々の悪党を懲らしめてきたあの杖だ。
この界隈で生活する分には、彼女は三十路手前の見目麗しき女傑である。
そのため普段は、バーカウンターの背面へと立て掛けてあるのだが。
「ちょいと留守を頼むよ。そろそろ坊主たちが来るころだ……」
「留守ってどこに? え? ちょ、閣下?」
メイルゥはルヴァンの目の前から忽然としていなくなる。
驚いてバーカウンターから身を乗り出した彼だったが、その目が捉えたもの、それは丸イスのうえで器用に香箱を組む、一匹の黒猫の姿であった。
「にゃぁん」
「な、なんで?」
ルヴァンはとんがった耳を垂れさせて不思議がる。
黒猫のサラは知らんぷりだった。
その間にもチンピラはトリガーを引いてしまいそうだった。
ふらふらとしていた銃口がビタっと動きを止め、ブラックの心臓あたりを狙っている。
距離はさほど近くはない。命中率は半々といったところ。
「し、死ね! ブラックナイトの首はおれがもらったっ!」
廃屋の森のなかを凶弾の音が鳴り響いた。
それは生者と死者を分かつ鐘の音か、はたまた幻想のバケモノが放つ慟哭か。
瞬きの間にことは終わった。
しかしそのときそこに立っていたのは、メイルゥただひとりだった。
その詳細を有り体に説明するのであれば、こうだ。
まずブラックの頭上から突如として現れたメイルゥは、そのまま彼のスキンヘッドを踏みつけにして現場へと乱入。
この時点でチンピラの銃からはすでに弾丸が発射されており、秒を待たずしてメイルゥの額あたりに命中するはずだった。
しかしメイルゥはその弾丸を愛用の杖で弾き飛ばすと、返す刀で、対角線にたたずむふたりの小悪党に向けて杖を投げ飛ばしたのである。
まるで繭玉でも壁にぶつけたように、一方のチンピラの頭に当たった杖は、もう一方のチンピラの頭にも命中した。
かくして、もとからその場にいた三人は地面へと突っ伏し、メイルゥのみが勝利者よろしく屹立としていたのである。
だが大したダメージではなかったのか、チンピラたちはすぐに立ち上がる。
杖をぶつけられた頭を押さえながら、あらん限りの罵倒を口にするが。
「てめえ、このクソババァ! どこのどい――」
メイルゥを顔を見て、まずひとりが青ざめる。
「ま、まさか――サムザの魔導卿っ?」
「マジかよ! か、敵いっこねえっ、ず、ずらかんぞっ!」
蜘蛛の子を散らすとはこのことか。
半壊した石壁を乗り越えて、ほうほうの体で逃げていった。
かたや一命は取り留めたものの、メイルゥに踏んづけられたブラックもまた、憮然とした態度で彼女をにらみつける。
コートについたホコリなどを払いながら、メイルゥの一挙手一投足を見守っていた。
「礼はいいよ。こっちも金貸しとしての最初の客に死なれちゃあ夢見が悪いからね」
悪びれた風もないメイルゥに対して、ブラックはようやく重い口をひらいた。
「……誰だ、あんた」
廃屋の森に、乾いた風が通り抜けた。
店で出会ったときのメイルゥは三十手前、街を歩けばまず振り返らない男はいないほどの器量良しである。
しかしこの界隈、かつてサラが根城として潜伏していたこのあたりでは、大気中のルツの量はそれほど濃くはないのだ。
「あ」
すっかりばあさんになったメイルゥは、リウマチで痛み出した両膝を抱えると、崩れ去るようにしてその場へ倒れた。
その後の介護をダンテ・ブラックがしぶしぶ請け負ったことは言うまでもない。
惚れっぽいメイルゥは彼にお姫様だっこを要求したものの、ブラックはそれを頑ななまでに拒否しておんぶを貫いた。
向かう先はメイルゥ商会。
子供たちの待つ、彼女の城だ。
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